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2010年3月5日金曜日

四国遍路の人

 初夏の昼下がり、デッキの花壇の手入れをしていた。 忍び寄るような気配が背後に。 振り返る。思わず「おおっ久しぶり」 陽射しを受けて映える姿には尋常じゃない疲れが伝わる。ゲッソリ痩せていた。 手には杖。 「こんにちは。」
 扱けた頬、窪んだ目。にまーっと精一杯の笑顔を送ってきた。 「その杖。ヒョットして四国?」 「はい、歩いてきました。今、ここに着きました」 ほぼ一年前の事。 店のドアを引いてノッソリ入ってきた男。ドッシリ太った巨漢。スキンヘッドの坊主頭で表情の潰れた感じが如何にもヤクザ者の体。 またヤクザかと一瞬、オレの心が曇った。 ところがこのスキンヘッドの巨漢、弱々しい笑みを湛えペコリとお辞儀をした。 「ん。ん・・何か覚えてる」 「覚えてくれてましたか。井口」 具体的に何がどうとは思い出せないが、その弱々しい笑みが遥か彼方の記憶を呼び戻すモノがあった。 二十数年前頃にさかのぼる。アメリカ村のライブハウス『街』に飲みに来ていたという。 うんうん、そんな感じ。そやけど、具体的なコトは思い出されへん。 彼は『街』が忘れられんでオレを思い出し、ネットで検索したらどうしても訪ねとうなって、四日市からそのタメだけに遥々訪ねてきたと言う。 寡黙で、超寡黙で・・・ いや、寡黙なんかと言うのとはどこかちゃう。 寡黙っちゅうのは無駄に喋らず胸中でシッカリ物事を見つめて言うべき時には言う。例えば、このオレのように・・な~んちゃって・・アホなオレであって。 で、彼の場合はただ言葉が出えへん。思いを感じをどう言葉で表現したらエエのか分れへんから黙ってる訳で、それがもう性格として根付いてしもうてる。 久しぶりに会ったけど、それは今も昔も変わってへんようで。そやから印象も薄く記憶の片隅に引っかかるように残っているだけやった。 その夜は在阪の昔の仲間を数人呼んで、皆で昔話に花を咲かして飲んでいた。 彼は終始聞き役で笑いとはチト縁遠い弱々しい笑みを湛えたまま仲間とは遊離した感覚で静かに飲んでいたような。 あれから一年近くになるやろう。
 その時の巨漢の井口君が萎んだようにゲッソリと痩せて現れた。 四国八十八箇所を隈なく歩いて来たという。 「俺も行きますわ。直ぐに次の仕事も見つかれへんし。今のところヒマですし」 ニマーっと微笑んで細い小さな声でボソッと言う。 「ん・・・」 オレはカウンターを挟んで彼の表情を伺う。 一瞬不思議な思いが去来した。 この三年間、何人かの若者を信州木島平村に同行させた。一人は未だ明けやらぬ早朝、徒歩で逃走。嫌ならイヤでそうオレに告げて離脱したってオレは一向頓着せえへんのに、意外と小心な奴やった。後二人は興味本位で遊びが優先してて、オレは必要な時だけ手伝わせて好きにさせていた。
 手伝うと言うても技術のない素人が役立つ事が少ない訳で、何をさせたらエエのかと気を揉むだけ余計な負担がオレにかかる。
 結論は、オレ独りだけが何よりもエエちゅうコトやった。
八九年十二月。
信州木島平村スキー場の至近の畑地を整地、基礎工事から始め、建坪二百坪と言う日本一巨大なログハウスのロッヂを九年間、八割がたオレは一人で作り続けていた。十年目を迎えた九八年十二月にその山荘は全焼。
大阪に舞い戻り元のジャズバーを再開したものの、全焼した山荘の再建はオレの生涯の悲願になっていた。
とは言え、再開した商売を安定させ起動に乗せて、山荘の再建に着手するには時間と何よりも資金が要る。全焼から四年間、悲願を内包したまま耐え続け再建に向けて機が到来するのを虎視眈々と伺いつづけていた。
五年目にして、河内長野森林組合にパイプラインが繋がり懇意にさせてもらってから、先ずは組合の裏の空き地で再建用の丸太のキッド作りを始め、その一年後に刻んだキッド全てを信州木島平村の山荘再建現場に搬入した。
そこから本格的な再建作業が開始され、月に一度は信州木島平村へ行って一人で建築に携わっている。
計算では、一年間つめて作業が出来れば再建は完成できる。月に一度数日信州木島平村へ通ったして、一年、三六五日を何年かけたら達成出来るのか、気の遠くなるオレの悲願と執念。
信州木島平村に行ったからには、許された短い時間の中で懸命に作業をして時間を最大限有効に使いこなさなアカンのや。 誰かが居たら邪魔なんや。 メシとかの面倒臭さを考える。温泉とか観光的なコトも考慮にいれる。そしたら、我武者羅に動きたいオレの行動が制限されてしまう。それは再建作業の大切な時間に食い込んでくる。 もう、そやから誰も要らん、オレ独りが至上やと決めていた。 一際寡黙? その男、井口君は四国巡礼を歩いて来た人。 この人の中身は何か。記憶の断片に引っかかるように残っていてもオレにはこの人の事は何も分ってないと言うのが現実で。 井口君。四八才、独身。若くはない。老けてもいてへん。 気弱な性格、猫背で奥目の小さな輝きのない瞳。 良い男というのには程遠い顔つきと体つき、どう見ても女には縁がなさそう。 そやけど、不可思議な落ち着きが静かに漂い、善人と言うよりも素顔の無色透明な印象を受けて、達観と言うハイレベルの質とは違う支流の淡々とした清楚な流れを感じてしまう。 「巡礼で何か感じた?」オレの問いに 「しんどいだけでした」とニマーっと溜息をついた。 その瞬間、オレはこの人に幽かな心地よい好感を抱いた。
したり顔で少々でも情念と観念に何か作用したとか、行く前と帰ってきてからの自己の変化を訥々と語るでもなく、謙虚とかを意識して装うのでなく「しんどいだけでした」と無垢な自然さでポロリと溢した台詞がオレの中にスーッと入ってきた。 強いて係わりたいとか、殊更興味が沸いた訳でもないが、それまでの印象以上に忍び込む爽やかな魂の存在を見たような、この人は心を生きようとしてるんかなと。生、命と言うものを見つめ続けているんかなと。窪んで小さいが曇りのない心の眼が穏やかな日向のような揺れた光を発しているようで。 その彼がオレと信州木島平村の全焼した後の再建作業に同行したいと言う。 今のオレは当然誰でも断るはずなんや。 例えキレイねえちゃんでも断る。キレイねえちゃんなんか同行したら仕事になれへんやん。仕事どころか何かもうエッチなコトばっかり考えてしまう盛りのついたような羆ジジイのオレであって。 オイッ、オイは老いやで、六四才にもなって何の戯言をぬかすかボケッ。 いやいや、心配せんでもそんなおねえちゃんはついてけえへんし、である。 で、彼を見つめている内に説明できない不思議なモノを感じた。 あえて言うなら彼の存在の何かを少しは垣間見たいという気ままな衝動がオレをくすぐった。 それで「ほな、一緒に行ってみるか」「お願いします」てなコトに相成って、彼の住む四日市で落ち合う約束をした。 今年の新記録を作った土曜日の夜。 八十人、いや九十人近いお客が一夜でJazzShotBAR 街山荘に来た。 店の奥のホール『森の部屋』でのバイオリンとピアノにチェロのトリオが花咲いたこの夜のライブには七十人は来たか。 バイオリンとピアノが女性。チェロが男性。このトリオはこれが三回目のライブでいつも無料ときた。いくら無料とは言え最大五十人収容の『森の部屋』に、この動員力は半端とちゃう。 オレは終始カウンターのコンロと調理台から離れられず、更に手伝いの姪やバイト君にはでけへんドリンク作りにも忙殺されて十二時も過ぎた頃には珍しくクタクタに疲れていた。それでも未だ次から次へと注文が後を絶たへんねんや。 疲労は限界近くなってきた。 が、ここからちゃうのがオレで。 死域に入ってから更なる神がかり的な力が漲ってくると言うたらまあ大袈裟なんやけど、ホンマに更なる力が漲ってきて心身ともに躍動してくるんやな。 冴えてくる。 指の先端にまで繊細な力が行き渡り、ようし、朝まで誰が最後まで生きのこるか勝負賭けたろやんけと闘志を滾らせて挑んだ。 働く、カウンターの中でリズミカルに動く。 それでいてお客達と一緒にバンバン飲む。 お客以上に飲むオレであって。 ライブが終った後もメンバー達と居残りの客も加わって飲み続け、戯れ騒いでが夜明けまで展開した。当然夜明けと共にみんな仲良く寝るコトになった。 残った数人全員が店のアチコチで落ちて寝ていたのを確認してオレも眠ったと思う。 さて、その次の日は日曜日。
こいつが曲者で、極端にヒマであったり、突然団体が来たり予測がでけへんねんな。 信州木島平村行はいつも夜の九時半ナンバ発の長野行き夜行バスに乗る予定を立てるが、九時までのお客の入り状況でキャンセルせざるを得ない場合もあって、一種賭けのようなモノ。九時半発と言うのは何とも中途半端な時間や。 もっと遅くでけへんのかいなと自己中な不平を吐き出していたが、今回は井口君が同行すると言うから彼と四日市で落ち合う事になったので、翌日の月曜日、近鉄の始発に飛び乗る計画を立てた。 この夜は早い時間から一見の客が三々五々入ってきて前半は昨夜に引き続き忙しく働いた。 オレの頭には銭勘定しかなかった。 色んなモノを差っぴいて十万円は信州木島平村へ持っていかなアカン線や。 日曜のこの日の前半の賑わいで昨夜の分と本の売上金に五百円玉貯金を足すとそれを軽く超えていた。久しぶり充足感を人知れず味わっていた。 ブリキの波板が五十枚、合板が六十枚。これで十万と踏んでいた。 前半の賑わいは後半には緩んだものの、オレのファンとも言うべきA病院の数人のご婦人たちが残ってオレも一緒になって賑やかに杯を重ねる。 その間もチョコチョコ、パラパラお客が入れ替わる。 十一時にもなると皆帰って誰も居れへんようになった。 早朝五時過ぎに近鉄上六駅へ行く手はずやから眠る訳にもいかず、さりとて酔っ払うコトもでけへんちゅう中途半端状態は自分苛めの軽い拷問やな。 誰も居れへん中、パソコンに向かい、携帯を手に取り明日から三日間お休みのお知らせメールをお客へ丹念に送る。 本を開く、読む。読み更ける。 口寂しさを補うタメ、酔わない程度にあれやこれやチビチビやっていた。 一時になり二時になっても誰も入ってけえへん。一人の時間も愉しいわいなと思う片方で物寂しく誰かを待ってる自分が見え隠れしていた。 久々に戻る信州木島平村の街山荘建設現場。望郷ににた懐かしさが気持ちを揺さぶり、僅かな緊張が胸中をチクチクと刺してきやがる。 忘れ物はないか荷物の最終点検。それから二人分の弁当を作って収めた。 「わぁー、まだ開けてんのん」 黄色い声が入り口で爆ぜた。三時。 仲良しのみずきちゃんもこのマンションの住人。
 飲んだ帰りにしたら酔った感じがなく、板敷きのデッキをトントンとハイヒールの靴音も軽やかに入ってきた。 彼女の定位置はカウンター奥。席にサッサと座って、肩にかかった長い黒髪を掌でサッと後ろに払いカウンターに方杖をついた。クリクリした大きな瞳を悪戯っぽく輝かせて
「今日は遅うまでやってるやん。もう閉めたやろうと諦めて帰ってきたら電気点いてるし、ヤッター思って入ってきてん。よしおちゃんも、わちきと一緒に飲んでおくんなましな」
「おっ、チョッとぐらいならな。そやけどいつもみたいに酔っ払われへんねん」
「如何されたかな、もし。どっか悪いの?」
「そうちゃうねん」
 これこれ然々で上六から始発の電車に乗りまんねんと説明。「そうか、始発で長野に行くんや。ほなそれまでわちきが付き合うわ。良かろうワシでも」  みずきちゃんのそそるような笑みにエエも悪いも、良かに決まっとるたい。 彼女は最近、昼間は本町の整骨院で見習いの助手をやりだした。何か思うコトがあって、ずっと続けてきたホステス業から抜け出して昼間の堅気の仕事に変えるんやと張り切り出した。
見習いの助手では自給も低くこのマンションの家賃を払って生活するには大変やから、週に三日だけ元居たラウンジでホステスのバイトを続けるコトにしていた。  ラウンジへ出勤の夜は和服で出かけ帰ってくる。長い黒髪を大きく丸め込むように束ね、細いかんざしを一本さり気なく挿して、しっとりと絵に描いたような麗人を演出しているのが、この日はジーパンとTシャツ、長い髪をストレートに下げ野球帽を深々と被っていた。 満月のような輪郭に、目も頬も広い額も全体にクリクリッとしていて、茶目っ気のある愛くるしい顔つきから、実年齢よりも十は若く見える。
彼女とはここんとこ週の半分位の割合で深夜とか朝まで居て、オレと和気あいあい飲んで喋っての仲良し。大の仲良しだけで、我らに男女の関係は存在せず、清廉潔白濁りのない清々しい飲み友達であって。 それに似たような仲良しのお客は他にも何人か居る。
この界隈はマンションが多く大阪のミナミで夜働く人達の生活の場であって、オレの店は出勤前の同伴の待ち合わせとか、仕事帰りの深夜疲れを癒しに来る女性達が後を絶たない。
その皆が皆仲良しではない。中には酒癖の悪いのも居て酔って絡んでくるのも稀にはあるが、途絶えるコトなく入れ替わり立ち代り美人麗人といつもカウンターで並んで一緒に飲みお喋りしたり、ふざけあったり、ま、これも商売冥利とでも言うかな。 いやいや、何の何のそれは、オレ様のカッコのエエ男っぷりに寄ってきますんやで、ケッケッケ。 「何、一人でニヤニヤしてるん」 みずきちゃんが突っ込んできた。 「いやぁまぁそのね。オレ等仲良しやねっ」 「うん。よしおちゃん大好き」 ほらね。 今、付き合ってる彼の話や、マッサージの見習いが実に退屈なコト。賃金も安いし、引き払う気もないこのマンションの家賃のコトなんか考えたら、また元に戻ってホステスだけにしようかなとか、郷里のお父ちゃんを思うといっそ帰って田舎で暮らそうかなとか、明るい性格の中にもそれなりに悩みを抱えてるんや。
オレが酔う訳にはいかんと言うので彼女も控え目に大好きなクェルボをチビリチビリ飲みながら二人して時の来るまで語り続けていた。 「へえぇ、四日市まで電車で行って、その遍路帰りの昔のお客さんと車で長野に行くんでありんすか」 「そうや。オレには初めてのコースやし。最初が電車でほんで次は車ちゅうのも初めてやねんな。あ、そうや。みずきちゃん、チョッと頼まれて欲しいねん」 「何でありんすかな、ワチキで出来ることなら、よしおちゃんのタメに何でもやらしてもらいますがな」 「管理人のおっちゃんにな、三日間留守するから、その間悪いけど花壇に水をやって欲しいって言うといてえや」 「あいよ、そんなのお易い御用じゃござんせんか。ほな書いとくわ」 「あっそうか、それやったらオレが書くわ」 やがて時間になった。 彼女は、ゴミはワシが持って行きますがなと、何とまぁ優しい心遣い。ビニールのゴミ袋を提げて一緒に店を出た。彼女は左に折れてマンションの入口へ、オレは右に折れて上六方面へ。 「よしおちゃん、気をつけてな」と手を振って右左に別れた。 上六駅まで徒歩約十分弱。 五時二十分。 特急の始発は六時三十三分。一時間以上もある。 やっぱりね、事前のリサーチはちゃんとしとかなアカンぜよと自分に舌打ち。今更店に引き返すのも面倒やし八木駅まで普通に乗ってそこで追いついた特急に乗るか。それやと僅かやけど特急料金も安くなる。ところがこれが曲者で、八木で特急に乗り換えて次に伊勢中川で名古屋行きの特急に乗り換える。 何が曲者かと言うと、徹夜明け、それでなくても乗り物に乗れば睡魔が襲ってくる。下手に寝込んで乗り過ごしでもしたらえらいこっちゃ。
電車に乗り込んだその時から睡魔との闘いが開始された。これが途方もなく時間を長~く感じさせて辛い苦しい闘いとなった。
 初めて四日市の駅に降り立った。 携帯で到着時間を知らせていた。改札口を出た。 直ぐに背を丸めてのしーっと井口君が視界に入ってきた。 助手席に体を埋めると戦い続け辛抱し耐え続けていたオレは、睡魔には既に無抵抗、眠りの中に堕ちていった。
「次はどう行ったら良いのですか」時々の井口君の質問で起こされ、次の指示を出したらまた直ぐに眠りに堕ちていく。井口君の運転に全てを委ねて四日市から豊田飯山ICまで殆どを車内で眠っていた。
そんな中でも意識の端っこでひょっとして諦めなアカンかもとの危惧が拭いきれない。眠りながらも不安が時折頭をもたげてくる。 豊田飯山ICを出てJR飯山駅まではものの十分とかからない。 駅脇の駐車場に車を止めて不安を抱いたまま急いでカブの存在を確かめに駆けた。フロントを並べて留められている数十台の車の間を駆けた。 あった。ホッとする。 四ケ月も留め置いていた。大阪などの都会では考えられない。 我スーパーカブはあった。 そやけど、何かちゃう。カブの姿がそのままあるのがちゃうようで。何がちゃうんやろ。あっ、被せてあったシートがあれへん。ヘルメットはあったがゴーグルがない。 ショボイことをしやがると舌打ち。シートを盗まれていたからサドルには埃がこびりついていた。 エンジンは素直にかかった。 やれやれ、ホッ、なのだ。 カブに跨り先行して走り、井口君の車を先導する。 千曲川に架かる中央橋を渡り消防署を左に見てカブは快適に走る。 消防署の前を通る度に思い出す。 九十八年。スキーシーズンが迫ってきた秋も終わりの頃。八年間立て続けてきたログハウスをロッヂとして正式に開業許可を取るタメ、この消防署に何度も足を運んだあの頃のコト。 一人で巨大ログハウス建築に挑むオレへ、消防署の担当署員も保健所の所長や担当職員も善意に満ちて協力をしてくれた。役所と役人は善意を当たり前のように接してきてくれていた。
それは、同業者である旅館組合の組合長派が、営業許可も取ってないのに潜りの営業をしていると執拗に役所へチクリを始めた事から始まった。。 オレへの、彼らの正に復讐のタメのチクリであった。
起因はこの年のスキーシーズンが終わった春頃。組合長派が村の行政と結託してスキー場に「区」を設置しようと画策してきたことにあった。 オレが木島平村のこの場所を山荘建設に選んだのには大きな理由があった。
そこは、一番下のリフトから林道を百五十mほど、上がったなだらかな傾斜の畑地で、三方を杉と唐松の深い森が包み込むように囲んでいた。 その畑地は林道に沿って比較的間口が広く緩やかな傾斜のその奥にはススキが群生していて、中を桑や雑木の木立が不規則に育ち、放置されっぱなしで荒れ果てていて、元畑地やったと言う痕跡すらなかった。 森を除く敷地外の周りも似たように放置された畑地がなだらかな傾斜地に広がっていて、建物とかは何もなく、一番近い建物でもリフト脇のペンションであって、言うなれば至近にお隣さんが居ない。
 無闇に人と係わるコトもなく、他人と干渉し合うのも起きにくいであろう環境と、植林とは言え、より自然に近い森に囲まれた景観とに気持ちが大きく動かされた。
里へ緩やかに広がる傾斜の遥か向こうには、千曲川が横切り、千曲川の向こうが飯山市。その背景に斑尾、信濃平、戸狩スキー場を抱えた北信濃の連山が稜線を横にいっぱい広げている。稜線の上では、空が視野の隅々まで広大に展開する豊かな眺望が、魅力的な解放感を満たしてくる。
 オレの望みは、干渉しあわない煩わしさのない日常生活、気侭で静かな田舎暮らしを愉しみたいと思うのであって、人里離れた所でのロッヂ経営は、宿泊に来てくれるお客だけを相手にしていれば良いのであって、何処にも加わらず何にも組せず独自の生活を送っていけるのには格好の立地条件やと、この場所を選んだ訳なんや。 そやから、観光協会にも旅館組合にも加入せえへんかった。  ところが周りはそれを由とせず、時折加入を促す勧誘をしかけてきたが、喧騒な都会を離れて、田舎でひっそりと暮らしをしたいのが望みで、構わずにそっとさせていて下さいと、その都度丁寧にお断りし続けていた。 そんな頑ななオレの姿勢は組合執行部の不満を募らせ、折に触れ嫌がらせ的な仕向けも見られたが、オレは、一切意に介せず自分が由とした人達だけと仲良く接していた。 そやのに、スキー場全体をひっくるめて「区」が出来てしまえば否応なく組み込まれ不必要な煩わしさの中に引き込まれていくのは目に見えていた。 木島平スキー場は村営で役場の観光協会と民間の旅館組合という二つの組織で運営されているのだが、その上に行政の手先となるような「区」を更に設置するのは無用なコトであって、それを推進する組合長派や行政の権力強化に繋がる危険性があって弊害こそあれメリットは何もないとオレは反対を表明した。 表明しただけでなく、組合長派が催した集会で新しいペンションのオーナー達を誘い込み、古い体質を当たり前のように上から目線で押し付けようとする彼等に時には声も荒々しく恫喝も含めて論戦を挑んだ結果、彼等の目論見を見事粉砕した。
若い頃革命を目指し、闘争に加わったり、集会や抗議活動で鍛えられたオレの論戦を挑む抗う闘志には、果敢に攻撃する位のマニュアルは体と意識に染み付いてたものであって、権力ボケして鷹揚に構える組合長派のおっさん達や、行政の役人などを崩す術は何も難しいことはなかった。 新参のペンションの若いオーナー達も、彼らこそ新天地を求めてきたのであって、古い体質に束縛されるのを嫌っているから、オレの論点にほぼ賛同してくれたこともあり、それからしばらくは組合内部も紛糾していたようで組合長の威厳にも陰りが射し組合員を統括するのも思うに任せなくなっていったという。 オレをそっとしておいてくれていたら、何をするでもなく静かに慎ましく暮らせるのに、不必要に巻き込もうとするから目論む側の思惑も外れてしまうんや。 ところが彼らはそんなオレを由とせえへん。 何かにつけて復讐を試みてくる。 それが今回の執拗なチクリとなって表面化してきた。 「原田さん、オラほうも協力するからこの際許可を取っちまおうよ」 頻繁にチクリが寄せられる保健所の課長が熱心に勧めてきた。 許可を得るにはまだまだ不備なところがあって、シーズンを前に急遽作業に拍車がかけられ、そんなオレの状況を理解したペンションの若いオーナー達が連日何人かが作業に参加してくれたお陰と、消防署と役所の検査も形式的で図面と設備面をチェックを素早く済ませて許可は予想外の速さで取得できた。 オレを陥れようとした一派の目論みは完全に裏目に出て、ロッジ街山荘は晴れて次のシーズンから堂々営業できるようになった。
 なのに、その年の暮れ、スキーシーズンを目前にして街山荘は全焼した。 全焼後に消防署で同じ担当者が事後処理の書類の書き方をしみじみ指導してくれたものや。 消防署の前を通る度にあの日々が懐かしく甦る。 そして無念の思いはその都度突き上げてきて、それがオレの更なる闘魂をかきたてる。 千曲川の支流、樽川の橋を渡る。 樽川は、木島平村を南北に二分するかのように村のほぼ中央を蛇行するように流れ千曲川へと至る。普通なら流れの激しい川が、今は穏やかに流れている。 雪不足に悩んだ今年の冬を反映して水量が激減しているんやろう。 前方間近に木島平村を見下ろし包み込むように高杜山(こうしゃさん、たかやしろやまとも呼ぶ)がそびえ立っている。 裾野へ扇状に広がるスキー場の広さがこの村の顔で、スキー場を取り囲むブナ林は緑を深くし陽を浴びて煌めいて、山全体はもちろん、裾に広がる里の田園もが青い空の下で映え渡っている。大阪で焦がれてた田舎の景観が、目の当たりにオレを包み、望郷にも似た果てしもない郷愁を誘い込む。
遥かな古里へ帰ってきたと言う実感が今更のように熱いモノとなって込み上げてきた。それは想念の中でオレの帰るべき処は此処なんやと呼び覚ましていた。 大阪で生まれ、人生の大半を大阪で生きてきたオレやけど、今では大阪は全焼した山荘の再建資金を稼ぐ出稼ぎの場であって、耐えて闘って虚飾を装う素顔を内包して演じ続ける場。仮の宿、出張所かな。
思いは巡る。
 この4ケ月間、来れなかった。 自分には嘘をつかれへん。来れなかったと言うのは上辺の繕いで実は逃げていた。 何故、逃げていたか。 喘ぐように捻出する乏しい資金。長引く再建。 一人作業の堆積する孤独と、達成感のない無力感が行動すべき情念を削ぎ取り、実際の行動を後ずさりさせてきた。
  出かけた時のままの山荘現場。 変わっていたことと言えば、建物に覆い被せてあったブルーシートが風にあおられ、引きちぎれたり捲くれ揚がったりしていたから、外見では、それはまぁ悲惨な姿であって、使いまわしてきたブルーシートの損傷は消耗品と思えば差ほどの実害でもない。 合板を充てがってビス止めして塞いだだけの入口を開け部屋に荷物を放り込むと直ぐにカブに跨り林道を上に向かって走った。その後を井口君の車がついてくる。 林道は山麓の森に挟まれて蛇行して遮る物もすれ違う車も人の姿さえも見えず風が心地よく出迎えてくれる。 それにも増して植林された唐松や杉に桧の森、その合間に雑木の森と白樺の群生地が次々と現れてオレを迎えては後ろに飛んで行く。 九年間慣れ親しんだ林道のそこかしこには懐かしい哀しいまでもの忘れ得ぬ想い出が埋もれていた。 ふと、全焼さえせんかったらと、無念が未練となって突き上げてくる。
 感傷に思いが行く。
 もう意識して断ち切ろうとはせんようになっていた。
粋がらず強がらず、無念を内包してこそ再建の原動力になっているんやと素直に認めるようになったオレであって。
兎に角先ずは水を確保せんとアカン。 山荘には水道がない。 全焼の数年後再建に来てみると何故か水道のメーターが外され無断で水の供給が断ち切られていた。
水道は村営。引き込みに際しては六十万円の加入金を払わされた。田舎の常識を知らへん都会育ちのオレには考えられへん高額やった。分割払いはナシ、一括で全額そろえて納入するまで水の供給はてけへんと言われた。
当時も資金不足。六十万円はお客の一人に提供してもらった。
命の水の水道。それをオレに断りもなく外しているのや。
全焼して急遽大阪に舞い戻ったオレの大阪での住所も電話も村役場は当然把握している。やのに、通知、通告の一切がなかった。 許されんと思った。 そやけど、それをどうのと村役場に捻じ込んで行く時間がいつも惜しい、いずれ決着をつけたると放置してきている。 水はいつもの中沢牧場で二十リットルのポリ容器に貰ってくれば二、三日の滞在には十分なんや。 農耕用の大型トラクターがノロノロ前進して行く手を塞いでいた。 近づく。運転手が振り向いた。
トラクターはそのまま脇に寄せて道を空ける。 その向こうは濃淡な緑が眩しいモロコシ畑が広々と視野を埋めていた。 その林道の反対側は唐松林が屏風のように整然とそそり立ってここでも深緑が陽を浴びて針葉の群れが映えて清々しい。 ドーム型をした巨大な牛舎が見える。横には搾乳場の四角くい白い建物。
中沢牧場。 トラクターは搾乳場の手前で脇に寄った。 手を振るオレ。トラクターの運転席でビックリしている顔。
直ぐに輝く笑顔を返す愛ちゃん。愛ちゃんも大きく手を振る。  「久夫ちゃんは死んだよ」 「あっそう、ホンマに死んだらエエのに。で、今どこ?」 「だからさぁ、言ったじゃない、死んだって」 割としつこくふざけて来るんやなぁ、んもう。 「目の前、目の前」 「目の前って、どこぅ」 「こっちこっちウチの中だよ」 「時間がないから上がってられへんで、そやけどまぁチョッと覗くか」 携帯をホルダーに収め車のケースから申し訳程度の土産とオレの著作『オレは、やる』を抱えて久夫ちゃんチの玄関へ。 玄関の前に立つ。久夫ちゃんチの左手の空き地。ポプラの巨木の根元。  「ポチ」思わず呟く。 オレの気配を感じてワンワン吠え立て姿を捉えたら激しく尻尾を振って迎えてくれていたポチの小屋がヒッソリ。 ポチはもうとっくに死んだやんけ。 生後一ヶ月位かな。中野市から木島平スキー場に登る山中の林道に捨てられていた。ダンボール箱の中に四匹いた。車を降りて近づくオレを見て三匹は慌てて必死に逃げていった。ハスキーとシェパード混ざったような残りの一匹が尻尾を振って駆け寄ってきた。それがポチ。
アイヌに見習って、仔犬の頃から甘やかさず、厳しい訓練と調教をした。
賢い犬やった。その内、オレの話す言葉も理解して言葉一つで指示に従った。
全てを上手くやった後、オレはポチを強く抱きしめ全身を愛撫してやり、駆けたり転んだり思いきり戯れた。
山荘が全焼した。
落ち武者になって大阪に舞い戻るオレ達家族。百羽以上の鶏は貰い手を捜し何口かに分けて渡した。ポチともう一匹の愛犬ゴリは、久夫ちゃんチが里親になった。
昨年、ゴリが老衰死した。その半年後、ポチも逝った。
カラス用の毒餌をうかつにも喰った。久夫ちゃんの腕に抱かれながら事切れたと言う。それを語る久夫ちゃんの顔は辛く歪んで涙が溢れ出ていた。横で愛ちゃんも涙ぐんでいた。オレは嗚咽が止まれへんかった。
 目頭が熱くなるのを振るい落としガラガラと格子のガラス戸を引いた。 腰を屈めて居間を片づけてるお婆ちゃんと最初に眼があった。 「まぁ久しぶりだねぇ。元気でいなさったかね」 「久夫は死んだよ」 食堂から久夫ちゃんがニッコニッコして出てきてまだフザケている。「もうお、分かったって。まともに話しでけへんねんから」「まあまあ、上がって珈琲でも飲みましょう」「アカン、そんな時間ないし。はい、これお土産。このキムチ美味いんやから。そいでこれが最高のお土産。主役はオレ、脇役は久夫ちゃんの書き下ろし大作なんやからチャンと読むんやで」「うわーっ、凄いのん造ったね。だけどさ、俺、字が読めなくって」「もうおぉ。またふざけるぅぅぅ。ん、何、それっ」 右手、中指。白い包帯。しかも、短くなっている。「何でぇ、またやったん!」「だから久夫は死んだって言ったじゃん」「アホやなぁぁ、もうぉ。何かやらかすんやから。しょうがないな、指に免じて十分間だけ珈琲に付き合うわ。一緒に上がらしてもらおう」 傍らに所在無げに立っていた井口君を目でも促した。 5月の中頃、フォークリフトで挟み中指の先端を潰してしまったという。      十年以上も前にもオレの曲面カンナを使っていて人差し指の先端を巻き込ませ飛ばしてしもうた久夫ちゃん。今度はその横の中指ときた。「ああぁ、その内に五体満足とちゃうようになるで」「本当だよね。親からいただいたこの体、手がもげ足がもげ全部なくなっちゃうかもね」「ほんだらダルマさんになるか」「そう、オシメも着けてもらってさ、メシも食わしてもらってさ。そうなったら仕事しなくてもいいもんね」「ふざけだしたら止まれへんな。ワッハッハッハ。ホンマに一年に一度は何かケガするねんから。大体やなオッチョコチョイやねん。オレみたいに慎重に慎重にせなアカンで」「そうだよなぁ、高い処もヘッピリ腰で慎重になり過ぎて動けないって。この人ね、高いところダメなんだよ。怖い高い処は全部他人にやらすんだからね」「はいはい、オレは高所恐怖症です。ま、それは置いといて、脇役の久夫ちゃん、けっこう人気者でファンが居るんやで。この本の表紙に感想載せてるJUNKAちゃんがな、オレがこの本を送ったら火の鳥の餌代と私がファンの久夫ちゃんへのお土産代にって五千円も送ってきてくれてな。この子はな、弁当屋でパートしてるねんやん、五千円はその一日の稼ぎ分やで。それを送ってきてくれたんやで」「そうなの、嬉しいありがたい話だよね。で、そのJUNKAちゃんって女の子?可愛い人?」「可愛いでぇ。オレとは大の仲良し」 とは言うもののネットだけのお付き合いで会った事はないが、アイヌに関係したしたことで突っ込んだ話もして互いの理解を深めた仲であって。
「だろうな、俺のファンになる位だから可愛いはずだよな」「ふん。何、調子こいてねん」
四国遍路を後、今回、酔狂にも手伝うと着いてきたと井口君を紹介した。「そうなんだぁ。へぇぇ、てぇしたもんだね。八十八箇所をねぇ。んで何日かかったの?」 久夫ちゃんは目を丸くして「原田さんについてきたら大変だよ。だってさ、今まで何人か一緒に来てるんだけどね、みーんな途中で逃げて帰っちゃったりしてんだよ。人遣い粗いし、残忍でおっかねぇんだよ」
「いや、ほんま。オレは休まへんし朝は早いし夜は遅いし、井口君どうやろう。最後まで居れるかな」 「いやーぁ、そんなん聞いたらやってみないことには即答できません」 ガラガラと戸が開いて愛ちゃんが戻ってきた。 「もうマスター、心配してたんだよ。もう来ないんじゃないかって。ここまで造ってさぁ、ダメになっちゃったのかってさぁ」 「そんなコトあれへん。そやけどね、なかなか来られへんかったなぁ。ヒマがあれば金がないし、チョッと忙しなったら時間がないしでね。それに・・」 「それにどうしたの?」 久夫ちゃんがまたふざけた調子で突っ込んできた。 「逃げてたな。気持ちが何かしんどなってな。このままやったらいつ出来るねんやと考えたらチョッと萎えてしもうてな。そやけど、もう大丈夫。これからまた励むよ」 「だろうなぁ。一人だもんな。大変だ。でもさ根気ように頑張ってさぁ」 この時ばかりは久夫ちゃんのフザケも姿を消していた。 預けてあった瓢太(ユニック)は子牛の牛舎の前、モロコシ畑の際に置かれていた。 瓢太の二台には約一m径、一m高の巻き取られた牧草の塊が黒いビニールにビッシリ包まれて一つ積み残されていた。横の敷地にはその黒いビニールの塊の群れが二段に積まれ所狭しと並べられていた。 「キーを外してもエンジンが止まらなくなっちゃってさぁ、トップにギアを入れてエンストさしてんだよ」 「あっそうお、しゃぁないな、何せ二十五万の代物やもんな」 瓢太を預って貰っていて、それがこんな風に役立っているのは嬉しいもんや。 夫婦で住み込みに来たという人達は一ケ月も居らず出て行ったという。 息子達はそれぞれの道を歩みだし後継者が居れへん。 久夫ちゃんはオレよりも六才下。オレ達はある意味でライバル。生きるライバル。無休で働くライバル。そやから彼もオレも溌剌としている。 今はエエやろう。時がこのままあるのなら、老いと言うものがないんやった。 そやけど、この広大なモロコシ畑、百頭余の牛舎、子牛の牛舎。 モロコシ畑の向こうには二棟の巨大な蒲鉾形格納庫。片道三〇分の戸狩スキー場の向こうにも広大な牧草地がある。 何人かのパート的手伝いは居るものの夫婦二人だけで牧場を運営している。 「世襲制で個人の遺産と考えたらアカンと思うねん。これだけの牧場はな、視点を変えてと言うか視野をひろくしてやな社会の遺産と考えたらどうなんかな。後継者を探し出すというより共同でやっていく、そんな仲間を作るコトちゃうやろか」 以前、そんなコトをオレは話した。 それがあってかどうか夫婦者を住み込ませた。続かなかった。 初めての試み。はなっから上手くいく訳もないやん。 積み重ね経験を踏まえて行く内に溶け込んでくる何かがあると信じなアカンやろう。酪農に憧れ心底打ち込める誰かが現れないとも限らない。 とは言うものの、それすらもこの広い世間では雲を掴むようで、時間をかけてジックリ待つしかないのかな。 そんな事を考えながら久夫ちゃんチを辞して、今度はカブに替わって瓢太のハンドルを操って井口君の車の前で林道を下る。 慣れ親しんだ道。カーブの一つ一つが脳裏に焼きついている。 下りの坂道、ギアを4に入れ走行する。速度は見る見る加速してカーブの手前で制御してカーブにかかるとアクセルを僅かに踏む。切れるように曲る感触を楽しむ。 ふと、バックミラーを見る。井口君の車影は視野から消えていた。 殆ど眠っていたから意識してなかったが、彼の運転は慎重すぎていたな。 高速でも八〇キロが限度であったように思う。オレなら一一〇キロ以上は出す。それが普通やん。 初めての九十九折れの下りの山道、慎重に丹念に運転しているんやろ。構わずオレはオレの速度で下る。短い距離、一本道。行き着く先は知れている。 合板のビスをインパクトドライバーで外してドアを開けた。 ムッとするすえた悪臭が部屋の中から飛び出してきた。中は鼻が曲るような悪臭がたち込めていた。 思った通り、三月に帰ってきたまま状態。 冬の嵐が荒れ狂い、窓に貼り付けていった透明のビニールを引き剥がし室内を強風が襲ったんやろう。色んな物が飛び散り落下していた。その衝撃で電源が抜け冷凍庫一つと二つの冷蔵庫の中身を全て腐らしていた。 片付ける間も惜しくそのまま電源を入れて閉めて構わず作業に没頭して大阪に帰った。あれから数ヶ月、冷蔵庫の悪臭は部屋を占拠し部屋中に臭いを染み込ませていたんや。 「臭いやろう」 「臭いですね」 しばし、井口君の顔を伺い思案。
 一種、冷酷な好奇心と言うか、予想した確信を得たい。無信心のオレには巷でよく聞く四国遍路の人達の心情に懐疑的で批判的で、ましてや昨今バスでの巡礼など笑止でしかない。 弘法大師がどうのなんてのもどうでもエエし、そんなのにしがみついたり頼ったりなんて、これまた笑止。ならば四国でなかってもエエ訳であって、むしろ足の向くまま気の向くまま全国を徒歩で廻れば良いと、全く無責任で勝手な考えの持ち主のオレ。 ただ、「しんどいだけでした」と言うた井口君の一言がオレに冷酷な好奇心を植えつけた。それも一つの悟りとまでは思えへんが、見逃しがたい帰結ではないかと。それが現実の世界で現れる何かがあるのか、それを確かめたかった。 延々と続くいつ果てるとも知れへん再建作業やけど、オレにはちゃんと定めた目標があり、限られた時間の中を如何に効率よく作業をこなして行くを念頭におけば、甘い人情を巻き込んではいられない。 少し非情になったとしても、この人に何が出来るのかを見極めなければアカン。仮に本当に足手まといになるなら着いた今日にも引き払ってもらわう冷徹な考えは捨てなんだ。 悪臭にムセる部屋。散らかり放題。床は埃と木屑で汚れ切っている。 怠慢で放置していたのではない。そんな時間も惜しんで作業に打ち込んできた。 オレは彼に部屋の掃除をお願いした。それが終わったら、建物周辺に背丈以上に伸びて凶々(まがまが)しくはびこる雑草の刈り取りもお願いした。 遅いだけでなく一から十まで丹念と言うよりバカ丁寧に過ぎるんや。 共同で作業が出来る相手でないことは明白。 そやけど、オレに時間がないと放棄してきたコトを黙々とやり続けているのには一抹の価値は認めなアカンやろう。 朝から携帯に次々とメールが入ってくる。 四ケ月振りの信州木島平村。 店を三日も休むと携帯メールにパソコンメール、更にミクシィと、知らせられるだけ知らせた。 朝から励ましのメールが絶えない。 本当に励みになる。 昨年まではどちらか言うと知らせずに隠密でここにやってきていた。 それがお客を裏切り落胆させて来たのやと反省して、堂々と知らせた結果、思わぬ反応に温かいモノをいっぱいもらっている。 これまでは特定の人達だけに知らせていたからこんなに多くの励ましのメールは初めてや。 で、井口君がそれなりに動いている間に段取りを考えていた。四ケ月振りで、しかもそれまでやっていたのは雪に備えたことばっかりで再建の実作業にはなかなか入れないでいたんや。 さて、これからの作業は何から始めどうして行くか再建途上のと現場を一通り見まわり、作業の経過と手順を紐解いたり、刻んでおいた丸太はどこに使うためのモンなのかを思い出しながら確認していた。
 次の屋根に取りかかる為には未だ立てられていない柱四本と梁を揚げねば。 更に裏の外壁を仕上げる為の足場も組まねば。 高さ八mの足場を一人で組むのは大変な作業、って言うよりもそんなことが一人で出来るんかいな。
二日チョイの短期間でどれ位できるんや。 四国八十八箇所遍路帰りの井口君が今は居る。 その間に足場を組むか。 天気は確か明日のほうが晴れマークやったが、それでも今日からやるのがエエに決まってる。 そのタメには裏へ回る道作りから、つまり井口君の草刈が終らねば。 どうも未だ半分程度しか進んでないな。 よし、ならばその間に柱の一本位は立てられるはずや。 レベルと距離を見る。 やっぱりチョッとズレている。ホゾ穴を3㎝程左に広げねば。 広げよう。 電動ドリル、木槌、ノミ。 ん、ノミ、ノミ、ノミが見当たれへん。 アレッ、何処、どこと探し回った。 木槌とノミはセットでいつも置いていたはずやん。 あれへん。 探し物は探す時には出てけえへん。探す時間が勿体ないと、諦めた。 裏に回り込む手前で草を刈り払っているI君の処へ。 「あれーっ、花まで刈ったん!」 妻が種を蒔いた。オレもコスモスの種を蒔いた 毎年建物の周辺に二人して花の種を蒔き続けていた。 オレが丹念に蒔いたコスモスは他の雑草に負けて根を下ろせなかった。 妻が蒔いた鮮やかな黄色い可憐な花びらが開くマーガレットのような花。 背を高く伸ばしこの時期一斉に咲き乱れる。 それを写メールで撮って毎年妻に送っていた。 それを刈りつくして払い飛ばしてるやん。 もう、何してくれてんねん。四国遍路は観念だけで情緒とか美を味わえないんかい、ボケちゃうかと胸中で叫んでみたものの言葉では質問程度に収めた。 「いやーぁ、一応迷ったんですがぁ」 迷ったけど刈った。やってしまった後に何をぼやいてもせん無いこっちゃ。 ま、兎に角早く道を作ってと言うしかなかった。 瓢太の荷台にあるだけの単管を積み込み始めた頃、トラックが止まって久夫ちゃんがニコニコ降りてきた。 「あっ、クマだ」 ふざけが兎に角挨拶のようで。んで、そんなもんは無視、あくまで無視無視。 「そうだね、彼が居る間に足場をやるといいね。でもさ、天気はどうなんだろう」 「大阪は今ドシャ降りらしい。それがこっちの方に上がって来るかどうかやな。来る前に確認したら今日は小さい傘マークは付いていたけど、明日は晴れマークやったから大丈夫やろう」 チョコッと話しして久夫ちゃんは行った。 道作りは遅々として進んでへん。 単管を全て積み込んで瓢太を敷地の奥、裏に回る手前まで移動させた。 以前ならそのまま坂を降り裏まで回せたんやけど、雑草やススキが根を張ってたり、焼けた残骸が道を塞いだりで瓢太をピッタリ寄せ付けられへん。 井口君が雑草を刈って道が出来通れるようになるまでもう待っていられず、単管を担いで刈り取られていない雑草を踏み越えて運び始めた。 井口君はのんびりマイペース。に、見えるが額に汗して彼なりに精を出している。 雨、雨が降ってきた。 しかも徐々に雨量を増してきそうな模様。 それで野外での作業は無理ときた。ならば、よしっ買い物と瓢太に飛び乗って、助手席に井口君。 飯山郊外のホームセンターへブリキの波板とコンパネを買いに。 ついでに新しいノミと、ディスカウント店でビールと焼酎も。 先に波板を積み込んで、40枚の合板を積み上げると瓢太の荷台の枠からはみ出すので、落下の危険がないようロープでシッカリ絞り込んだ。 50枚のはずが40枚になっていた。 原油の高騰が全てに影響して合板も以前より1割強も値上がりしていて予算が足らへん。んで、10枚を諦めた。 では、帰りましょうとキーを差込みセルを回した。 キリキリキリブシュ、それで終わり。 何度回してもウンともスンとも反応なし。 突然バッテリーがあがる訳がない、ないはずや。 やのにエンジンがかかれへん。 ああ、また何か嫌な予感。 久夫ちゃんに電話する。 「多分、バッテリーの接触が悪いんじゃないの」 言われた通りバッテリーを点検したら接触位置が何故か少しズレていてチョッといじっただけでエンジンはスンナリ始動した。たくもう車の構造ちゅうか機械の構造には皆目疎いオレであって。
 生きている。生きる。 ってコトを復唱する。反芻する。問いただす。 人のタメ、社会のタメ、自分のタメ。 いやいや、その全てがどうでもエエようで。嘘臭くて。 生きているから生きる。そやから何やねん。 喜怒哀楽が否応なしに触手を伸ばしてくる。その都度の反応は一定ではない。 そやから考える。模索する。果てしのない彷徨へ嵌り込むのは稀とちゃうし。 四国八十八箇所を弘法大師の跡を追いかけて何かを得ようとするのも在りと思う。バスを使って巡るのではなく、徒歩で貫徹する、それは大変でしょう。 立派でしょう。 縋る何かを、何かに縋る、人の心の弱さがそこに現れてくる。 井口君は何やろう。 他人が見て結論するコトではない。 そやけど、垣間見てみたい興味をそそられる。 得てしてそんな人は実社会には向かない、と言うより邪魔ですらあるような。 それを踏まえて付き合うには、付き合う側の覚悟のようなモノが要るのかどうか。 巡礼、遍路者に向き合ってみたいと思うオレを、自分をも客観視した中での視線でて見ようとした悪戯心が井口君へは覚めて冷たい対応にもなっていると思う。
 彼が店のカウンター越しに一緒に行きたいと言うたその時点でオレの意識には信州木島平村の再建現場ではたいした役には立たんやろうと認識していた。   そやから同行を認めたのはあくまでもオレの悪戯心。
そこにオレは虚としての自分を見繕い、向き合って、彼にも虚と言うものがあるのかどうか見てみるのも面白いかもと屈折したオレであって。

初日に部屋に入って「臭い」。
冬の間全てが凍結して食器も洗えなかった。そやから最低限の洗い物を籠に入れてミニ滝へ向かった。当然ながら井口君ははオレの歩調より遅いと思った。思った通り、振り向くとかなり後方をてくてくと力なく歩いてきている。  あの歩調で牛のように四国を歩いたのか。  そう言えば彼の風貌は牛のようや。  輪郭の大きい顔に窪んだ目。
モアイのような頤の尖った彼方の霞でも見るような面相。怒り肩で背を丸めてユタユタと歩く姿はどう見ても牛かな。
オレはそんな彼を意に介すコトなく、オレの歩調で先に進んだ。
山荘前の林道を上へ百mも上がった所で左に折れる脇道がある。幅二m程で車が一台何とか通れる細い道。そこからの両側は雑木が群生する。
 ところが左側の少し入った所にはポッカリと空間が空いている。オレが此処へ最初に来た頃はそこにも広葉の雑木が高く生い茂り暑い夏には涼しげな景観を見せていた。
 よく見ると高くそびえる木立の多くには蔦が絡んでいてそれが周りの整然とした唐松や杉の植林とは異なる自然な深い森の印象を与えていて、オレには最も身近で好きな場所やったんや。それが毎年のように木立が一本一本倒れ途中から無残に折れていた。
 雪の重みに耐えかねて折れる樹木は森の各所で毎年見られるがその場所の雑木はそこに集中してその現象が重なっていった。どうも雪のせいだけとちゃうなぁ。ある時分け入ってつぶさに観察すると倒木の全てに太い蔦が正に締め上げる勢いで執拗に絡みついていた。
 締め上げられた木立は成長に障害をきたし弱り冬の雪の重みに耐え切れず折れたと推察された。以後オレは木立に絡んだ蔦を根元の辺りを鉈で断ち切っていった。
 全焼で数年この地を離れている間に蔦の旺盛な勢力は無差別に弱い広葉樹林を襲い続けてきたんやろう。その場所の雑木を面的に崩壊させていた。あの涼しげな景観は妖気を漂わせ無残な死の森に変貌していた。
 それを左に眺めながら緩やかな傾斜の細い脇道を百五十m程下ると左側は切り立った小さい崖に変わり視界が突然開ける。脇道を挟んで崖の反対側は急勾配の山に杉の植林が手入れされる事無く鬱蒼と重たく生い茂り、脇道の直ぐ横に小さな滝があった。
 ホンマに小さい小さい滝で高さは一mほど、幅もその位で四季を問わず清水が水量も豊富に落ちている。上の鬱蒼と生い茂る杉の森を縫うようにして此処まで辿りついているのやろう。最も冬の雪深い時期は流石にこのミニ滝まで来るには覚悟が要るので一度しか来たことがないが、その時見た滝は凍りもせず雪を割って同じように落ちていた。
 山から染み出た清水は清涼で夏でも十秒も手をかざしていると痺れるほど冷たいんやな。
 
「ここで顔を洗うねん。」  冷たいんや。ホンマに冷たいんや、この冷たさが心地よいと、先ずはオレが腰を屈めて手本を見せて井口君と入れ替わった。彼は同じよう顔を洗い、そのまま何でもなかったように後ろへ下がった。  オレは洗い物の食器をミニ滝の小さな申し訳程度の滝壺に入れて洗い始めた。  何事も無い様に後ろで見ている。一緒にやるとか手伝うという気配は全く無い。気が利かないとかでなく、湿った空気が沈殿してるかのように所在無くに立ってオレの行動を景色の一端のように見ているだけや。ならばオレも彼を空気のように扱うことに決めた。  言えば素直に淡々とやり続ける。話しかければ応える。そやけど自ら何かをやろうとか、オレに話しかけるとかがまるであれへん。    ミニ滝のある林道両側は雑草が鬱蒼と生い茂っていてその中に三つ葉なんかも群生していた。
一昨年の初秋に大阪のおばちゃん達がやって来た時、その仲で「花博士」のコモちゃんと言うオレと同年のおばちゃんが、これは野生の三つ葉で食えると教えてもらってから、短い再建期間中のオレにとっては唯一の生野菜となっていて欠かすコトがでけへん。井口君に、それを教えオレが洗い物をしている間、三つ葉の採取を頼んだ。  久しぶりの馬曲(まぐせ)温泉。  村の中心がすり鉢の底にあるような地形の木島平村。村自慢の馬曲温泉は村営でスキー場とブナの原生林がある「かやの平」と共に観光の目玉にしている。スキー場とは反対側の野沢温泉の方向にせり上がる山の中腹に位置していて、村全体も、対面するスキー場に高杜山も見渡せる高所にある温泉。 オレには贅沢と決め込んでいるが誰かがきた時は欠かさず案内する。  で、その夜井口君も連れて行ったが彼にとってはそれすらも無感動のようで、帰って酒を飲んでると
「良い温泉でしたね」 「そやろ、まぁ温泉の多い長野やけどアソコだけは、何ちゅうか風光明媚でしかもひなびた感じも味わえるやろ。」 「ホンマにそうですね。」  表情も表現も乏しいが井口君がこれだけ言えたらそうなんや。  昨日買ってきたブリキの波板とコンパネを瓢太のブームで吊り上げロフトの床、すなわち三階の床に上げる作業をこの日の朝一番の作業にした。  地上約六m。 オレが地上でユニックの瓢太を操る訳やから当然井口君は上でそれを受け止めワイヤを外せば、オレがブームを元に戻すコトになる。  オレもかつては怖かった。 地上六mは慣れないと半端な高さとちゃう。  そやから高所の恐怖をチョッとでも和らげようと、下の視界を塞ぐ目的で梁と梁の間に厚板を渡しその上に合板を敷いて狭いながらも井口君のタメに床を作った。  これをこうして上がってきた物を受け取って収めたらワイヤを外すだけやでと丁寧に説明してオレは地上に降りて瓢太を操ってブームを伸ばし旋回させ定位置に持って行くんやが、彼は恐怖心が拭えずどうも上手くやれないんやな、そこでオレが駆け上がり降ろした物のワイヤを外す。  そやったら彼は必要ないし、必要や思ったから色々指導し仮設の床もわざわざ作った訳で、結局はオレ一人で上がったり降りたりしてんやったら、彼が居るだけ手間が余計に増えてるやん。  「昨日買い物したホームセンターまで行けるか。」  それは自信を持って行けるという。当たり前や行けるに決まってんがな。 居るだけ邪魔になる。ならば昨日買いそびれた物を買いに行く。適材適所。彼を買い物に追いやり残りの物を全て一人でさっさと上げて、次はそれを屋根の架かってる下まで手で移動する。  雨が断続的に降ってきた。  これまで買ってきた合板はシートを被せその上に使い物になれへん古い合板を置いて重石に四角い単管を乗せるしかなかった。それでは放置している長い期間中にはどうしても雨が染込み変色してしまう。それはまだしも、ふやけたり腐ったりで被害は少なくなかった。屋根の下に収めればもうそんな心配から解放される。建築物に屋根が出来てないってのは難儀な事なんや。  屋根の下入ると蜜蜂よりも少し大きい目、足長蜂よりも小さい目の蜂が数匹飛んでいた。意に介さず資材の移動を続ける。  屋根裏、屋根の傾斜に従い体を屈めての動く。量が多く波板はズッシリと重い。  汗が滲みだした。  波板の移動が終った頃、井口君が買い物から帰ってきた。直ぐに上へ上がるよう指示した。次は合板の移動を彼一人でやらせるタメ、何ぼなんでもそれ位は出来るはずや。二階まで梯子、三階へは脚立。彼が上がってくる。周りに蜂が飛び交うのを手で払っている。変やなぁ、一瞬思ったが井口君は上がってきた。  ふと足元を見た。金尺がありその横にノミがある。やっばりあったなやとホッとする。  井口君にここからこうして合板を移動してチャンと積んでいくんやでと説明して一端二階に降り、再度脚立で三階へ。  蜂が乱舞している。  三階の床の裏、すなわち二階の天井に当たる。脚立を登って視界に飛び込んできたのは小さな蜂の巣。  瞬間、下唇に激痛が走った。  やられた。油断していた。甘くみてた。  サッと三階に上がり巣の位置から離れる。  下唇がビンビン痛み出す。激痛やん、半端とちゃう激痛が度を上げてくる。この痛み、同じ痛みが過去にもあった。痛みを耐えながらその過去を思い出していた。

 それはかつての日本一巨大なログハウス建設に着手して二年目の九十年の春頃やったかな。
 知らぬコトが最大の強みってか、怖い物知らずってか、思い立ったら突っ込む。考えてから行動するなんてアホとしか思えず、行動してから考える。そういうパターンで生きてきたオレの人生。振り返るとどっちがアホなんか・・
って。煽てられ持ち上げられ、僅かな経験と浅い知識のままその日本一巨大なログハウスに挑んでいた。  長さ二十四mの大屋根に合板を張り続けていた。  高所に怯え遅々として進まない作業。それでも根気よく挑んでいた。  夜露の滴り、何よりも雨の直撃から守るタメにテニスコート用の巨大なシートを屋根の頂点の切妻に跨がして、作業の都度必要な部分だけ捲りあげるのを繰り返していた。  その日の朝も高所に怯える我が身を鼓舞して大屋根の頂点に上りつめシートを捲り手繰っていた。  不意に足長蜂の小さな群れがオレの周りに展開してきた。  展開は襲撃であって思わず両手を振り回し無意味な防戦に努めるものの、えっ、何っと思う間もなく作業着の後ろ襟首の開いたところから何やらが突入。  肌にモゾモゾとした感触の直後、鈍痛激痛が背中の数ヶ所を駆け巡った。  足場板一枚の実に不安定な位置から直ぐ下の合板を敷き詰めた床に飛び下り、上着を脱ぎ下着も脱ぎ、脱いだ下着のシャツで我が身の背中を叩きまくり大声で叫びまくる。そのパニックくる様はまあ無様で滑稽で、見苦しい一人ダンスを叫びまくりやってしまったんやな。 「ま、観念して一時間半はベッドで休みましょう。」  木島平村診療所の中島所長はさも嬉しいそうにオレを捕獲していた。    神戸大出の見識豊かな中島先生はあえてローカルと言われる所を自分の働き場と選びこんな田舎にやって来ていた。木島平村ではオレより数年先輩になる。  彼が、独りで巨大ログハウスを建て続けている大阪から来た男、すなわちオレの噂を耳にして訪ねてきた。
 オレの嫌いなのは、政治家、牧師、坊主そして医者。権威を背景に人をたぶらかすと言う点で共通しており、医者は大嫌いの中での四番目の位置にある。
 中島所長が配下の医師や看護婦を伴って最初に山荘を訪れた時は、ふん、鷹揚で偉ぶっててるのやろとの思い込みから鼻から呑んでかかろうと対面した。
 痩せて小柄で年齢よりもはるかに若く見える。
 笑顔を絶やさないで物腰は柔らかく低く、それでいて静かな闘魂を潜ませているのが感じられた。

 現況の医療制度を辛辣に罵り、医師のあり方を嘆き、村の行政にも鋭い批判を加え、その統合した強固な思想が大病院で出世を目論んだり、開業してカネの亡者になるのを拒み、殆どの医師が嫌がる田舎の医療を自らの意思で進んでやってきたと言う。
 当初のオレの思い込みは何処かへ立ち消えてしまい、いつしか二人で熱い語らいをしていた。それからも中島所長は折りを見ては訪ねてくるようになって、オレにとってはこの村で久夫ちゃんに次ぐ心許せる友になった。
 怪我一つせず不死身を豪語するオレが数匹の蜂の襲撃で数ヶ所も刺されて、狼狽した。何かもう嬉しくてたまらんと表情に丸出しで相好を崩しっぱなし。 「はいはい、寝て寝て。大人しく点滴を受けるんやね。原田さんや言うても不死身とちゃうんやで。これが雀蜂やったら命に係わってたな。まあ足長蜂やから点滴で済むやろう。ええがな、二時間やそこら横になったって全体に何も影響せえへんし。俺がここでユックリ診とったるやん。」  まるでクマを生け捕って悦に入ってるかのように腕組みのまニヤニヤと喜んでいた。 最初に蜂にやられたのがそれで、今回で三回目。  二回目は、冬の訪れで防寒の長靴を履こうと足を入れた途端に足の親指に激痛が走った。  今度は働き蜂やった。越冬のタメ、オレの長靴を選んでいたと言う訳。  三度目。  過去二度の経験は大きい。下唇は痺れてきている。何ほどの事もあるまい。  直ぐに近々接吻できる見目麗しいおねえちゃんが居る訳でもあるまいし傍にいるのは遍路帰りの牛さんコト井口君。  唇が腫れようが痛もうが僅かなトキが解決するんやし。  それよりも何よりも、オレの縄張りに勝手に許可なく巣を構えオレを襲うなんて許せねぇ。皆殺しにしてくれようぞと、百鬼夜行。阿修羅の如く冷血なオレの残忍さがムクムク漲ってきた。
閃いた最大の武器のハエ叩き。それを右手にオレは無敵の戦士に大変身。  無敵の戦士やのに、用心する余り頬を歪に引きつらせ緊張が全身を被い、不恰好にもおよび腰でソロリソロリと敵の牙城の下から忍び寄った。  敵の牙城は小さなピーマン程の構え。そこに敵戦士の足長蜂が十匹ほど張り付いていた。  その真下でオレは腰を低めに身構える。  跳躍。オレの体がスーッと伸び床を蹴り右手がしなった。  バシッ。  アラアララ、目標値から3㎝ほどヅレて着弾。  数匹がパラパラと無残に墜落。牙城は原型の半分に叩き潰されている。  が、残り数匹が忙しく狂ったように乱舞を始めた。  ワワワッ、無敵の・・・しかも百鬼夜行の阿修羅であるはずのオレは悲鳴を上げて不甲斐なくその場を敏速に、いや慌てふためて離脱。遠くから数匹の敵戦士の行動を怯える眼で確認していた。  うむっ、ヨシッ、トキを待とう。腕を組んで虚勢をはる。  荒ぶる敵戦士の真っ只中に今、無謀にも突入をすべきでない。な~んちゃって、そんな勇気がある訳がないのを苦しい言い訳に・・・・。  ほんま、雀蜂でなかって良かった。  獰猛で好戦的な雀蜂なら凄まじい逆襲を受けていたはずや。ホッ。  沈殿した空気は動かない。そう井口君のコト。  てか、オレの醜態を当たり前にある自然現象的にヌボーと眺めていただけ。  目だけがオレの行動を追っていた。 「もうチョッとしてからまた叩き潰すわ」苦しい言い訳。 「はあ」  いやいや、はあとちゃうねん。オレはオレで命を懸けると言うと大袈裟やけどぉ、それはそれは必死のパッチで蜂殲滅を試みてきたんやし~っ。  波板、コンパネはそれぞれ考えた位置に収めた。  頃合いとしては蜂の興奮も収まっているはず。  オレは再度、半壊した蜂の巣に下から忍びよりしばらく様子を伺う。  五匹ほどが巣に取り付いていた。周りを飛び交い旋回する蜂は見当たらない、攻撃には何の支障もない。  息を殺し神経を集中し今度は一撃で叩き潰すんやと狙いを定めた。  床を蹴って跳んだ。右手がしなりバシッと一瞬で武器のハエ叩きが半壊の巣を直撃。やったぁっ、完璧じゃ!  パラパラと残りの蜂が落下。巣もひしゃげて落下。  唇の痺れよりも完勝の快感が心地よく巡る。ざまぁみやがれってんだ。  灰色の雲が空一面を被いどんよりと重たく垂れこめていた。  雨雲。まさか雨か。  天気予報では今日と明日は晴れマークやった。けど、山の天気が予想を覆すのは稀じゃない。雨になっても不思議じゃない模様が森の気配、山の気配に滲み出ていた。  「井口君、単管で足場を組むで」 「はい」と彼は建物の裏へついてきた。  大阪の街山荘で酒屋に注文すると重いビヤ樽をお兄ちゃん達が軽々運んでくる。その誰もが総じて力持ちなんじゃな。 以前酒屋の配達をしていた井口君は作業になるとかつて働いていた酒屋の短い前掛けをしてさあやるぞとそれなりの気概を見せては来る。  以前の肥満からは痩せたとは言えイカリ肩、ムックリと厚みのある体型。  力だけはある、と、いやあるんやろうと一方的にオレは信じていた。  単管も五m、六mとなると流石に重い。重いけど普通の男やったらその位は苦もなく担いで移動出来るはず。  先ず六mの単管を五ヶ所、二m間隔でログの壁に立てかける。それから単管の底に座金を入れる。オレが単管を持ち上げ井口君が座金を下から差し込む。差し込むだけやから力も技も要らへん。  ところが、それがなかなかスンナリいかへんねんな。オレは六mの重い単管を垂直に持ち上げ支えてるちゅうのに何をモタモタしてんねんんんん。  「何、モタモタしてんねん!」と思わず怒鳴りそうなのを辛うじて堪えた。
六mの単管を支柱に二m、三m、四m、五mを前後左右に組んでいく。 オレは横に移動する、横に取り付けた単管の上に上がる。その度に井口君に何mの単管を取って、持ってきてと指示を飛ばす。  ここで一悶着。彼は何メートルが分かれへん。  へえっ、そんなんあり????  確かに長い5mと6mともなると人によりチト分かれへん事もあるかも知らん。それは距離感を掴めない女子供にはありがちやろう。大の大人がその全て分かれへんちゅうのはオレには分かれへんぞなもしい~~っ。  んで、その時高所に挑んでたオレはそこから降りて、長さごとに並べている単管の長さをユックリハッキリと説明して元の持ち場に帰って単管を渡してもらう訳なんやけど、もう、内心はかなりイラついているんやなぁ。  またまた信じられへん井口君の姿が目に飛び込んできた。彼の息が上がり始めてんやん。十本程の単管を上に差し上げ手渡すだけやのに、それも間をおかず連続したものでなく、手渡された単管を一本ずつクランプを取り付けラチェットで締め上げていくには何分かは掛かる。  ってことは、その間井口君は所在なげに下からオレの動きをボーっと眺めているだけやのに。あのなぁ、君は酒屋で鍛えたんちゃうん。酒屋の兄ちゃんは皆が皆、力持ちやし、と声に出さんけど思わず愚痴ってしまう。  一ヶ月以上に渡る四国遍路。  トボトボ歩いている内に力が削げてきたかも。トボトボは途中からで最初の内はテクテク勇んで歩いていたかも。徒歩での長い旅の果てに本来の体力をすり減らしきた。
体力をすぐには回復できない、四十八歳とは既にそう言う年齢なのか、そう思うと理解できそうなんやけど。  オレは今年六十三歳。十分、はっきりジジイと言われる年齢。
それでも内から湧き上がる力は五体に漲っている。若い時から少しずつ鍛え続けてきた。スキーが上手くなりたい、それには体をバネのように鍛えてゆかねばと三十六歳から走ったり鉄棒に挑んだり、木刀を振り回したり、チョッとした格闘技も真似たりと鍛え続けてきた。
それが、九年間建て続けた巨大ログハウスの山荘が数時間で全焼して、再建を誓ってからは、再建に必要なのは体力と更なる鍛錬を重ねてきた。
老いによる衰えを吹き飛ばし、独りで再建できる体力を保持せんと、再建は幻想に終わってしまう。体力こそオレの資本と確信すればこそ鍛え続けている。
それやからこそ、そんなオレは特別であって普通とはちゃう。普通とはちゃうオレの力量と井口君の力量とを同じように重ねてはアカンやろう。

 オレの意識の中で四国遍路を徒歩で全うした井口君に何処かで過大評価しようとしていた。
 彼の全ての貪盾のうらにも彼ならではの意識の在り処があって、それは今、此処にある現実を現象と捕らえ見つめるだけに留めている。
 その現実に対して能動的に何かをするものでなく、現実が自分に働きかけた時、彼の力量の範囲内で自然な対処をしていく。
 要するに己の存在が自然の現実で、目に映る他者もそれなりの現実で相対してどちらも在るべき現実として遭遇しているだけで、そやからどう対処するのは、在るがままで無理せず。う~ん、何やろあれは、結局は自分も見えないで他者も見えないでテクテク、トボトボ歩き続けてる。  ならば、行き当たったそこの状態を自然に受け入れるのかと言うと、これがその範疇に反して俗物的な反応があった。  建てている山荘には少なくとも数人が手足を伸ばせて寝れる場所がある。  一昨年は大阪のおばちゃん達約10人二日泊った。昨年は大阪のおっちゃん達が4人泊まった。  ただその頃とは部屋内も大きく変わっている。  度重なる漏水で床の隅にカビが張り付いていり、荷物も何かと増え散乱していたから、それを井口君にある程度片付けてもらった。  そやから彼一人が寝るには充分過ぎる広さがあるってぇのによぉ。  「自分の車でねます。」  カチンと来た。  オレが誘って強引に連れて来た訳ではない。来たい、と言うから連れてきた。  部屋は散らかり放題やったのを彼がそこそこ片付けた。それでもその様では絶対おねえちゃんは誘えない。そやけど男同士ならかまうもんか、それをイヤがる奴はオレの範疇には入れへんし。  ポリシー。安っぽい外来米語。  そんなモンが脳裏を過ぎった。 
井口君のポリシーが垣間見えた。  自尊心を持たへんポリシーなんかあるのか。遍路をして色んな宿に泊まってきたんやろう。  野宿はせえへんかったと。野宿するには荷物が増えるからと。  やっぱりカネを払って泊まる宿は安いにしろそれなりに居心地は良かったんや。 で、オレの部屋より自分の軽自動車の狭い中で寝ると当り前のように決めている。それはそれでオレの横で彼が寝ているよりオレは気が楽や。楽やけどチョッとちゃうんやな。  んで、まぁ昨夜は温泉から帰ってビールに始まり焼酎と遅くまで飲んで寝ますと前に留め置いてある愛車で寝た。  結構色々と話したんやけど、どんな話しやったんか、何を喋ったのか浮かんでけえへん。浮かんでけえへんてことは取りとめないコトであり印象に残る会話ではないちゅうコトや。  今朝六時起床。 
外に出る。空は昨日に引き続きどんよりした灰色の雲がオモッ苦しく覆いかぶさっていた。それでもヒンヤリした空気が目覚めには心地よかった。
井口君の車は林道から外れて山荘にへばりつくように止められていた。
覗き込むと彼は未だグッスリと寝込んでいる。彼へのオレの気持ちは既に投げやりで、起こすことすら面倒で、オレはいつものように一人で林道を登り見晴台まで歩き、そこで折り返していつものように鍛錬を兼ねて下ってきて、いつものようにミニ滝で顔を洗い体を拭いて帰ってきた。その間は小一時間。 遠目にも井口君の車はひっそりしていて彼はまだ深い眠りの中にいた。
面倒臭さにチッと舌打ちをしてフロントガラスをコンコンと叩いた。  ビックリしてガバッと上体を起こしガラス越しにこちらに向けた顔は、目覚めというには程遠く、顔全体が渋っ面。それが落ち込んだ目を一層小さくさせていた。
井口君はいつもは朝飯はキチッと摂ると言うていたのが、昨夜飲み過ぎて二日酔いときた。珈琲は飲むがメシは要らないと言う。  丁度良い。オレはよっぽど我慢でけへん限り普通は昼まで餌を取らへん生活がこの3年ほど続いている。それで面倒臭いメシの用意が省けてホッとした  省く。省くならついでに今日からこの井口君も省けばオレのイライラは解消して一人の快適な作業に移行できると、後ろめたいような少し邪悪な思いに駆られた。  この場合、人間性とか言うのは何の価値もない。今のオレには酔狂にしても彼に傍に居られるコト自体が邪魔でしかないとの結論に至った。  彼の存在を意識しながら、彼なりに何か出来る事を、それを考えるコトすら億劫になってきた。それは時間の無駄と言うより邪魔。  遂に雨が落ちてきた。  我慢できるまで単管を組んで足場を作っていたが、雨脚は時間と共に激しさを増してきた。これ以上濡れては足場作りには危険と屋内に駆け込む。  雨で屋外の作業が不可能なら作業場に入り残りの屋根の梁や柱を刻んだり、壁に渡す丸太の加工とオレにはやるコトが際限なくあるんやけど、井口君には何も思いつかへん。  そうなると先ほど抱いた邪悪な思いは的を得た正論になる。「天気も悪いし、チョッと疲れたやろう。この辺で切り上げてのんびりドライブしながら帰るか。」 「そうですね。明日の昼頃そうさせてもらいます。今日はまだ何かやるコトはあるでしょう。」  ふ~ん、エッエエ、それってかなり思惑が外れてるやん。  オレとしては「君にやってもらう事がもう無いし、今からでも帰って欲しい」と本音を直接的に言いたかったんや。そやけど流石にそれは躊躇われて遠回しな言い方をしたんやけど、彼はオレの意図を逆に捉えていた。
それは疑いようもない彼の善意で、そうなるとオレも邪悪な思いを引っ込められずにはおれず、しょうがない、何か彼に出来る事はないかと頭を搾り出した。
あった! 資金がない。そやからあるものを利用したり、只で手に入る物とか、頂ける物は知恵を絞り有効に使っていくのが、オレのゲリラ的精神。  建物には断熱材がいっぱい要る。相当な量になるから当たり前に購入するとかなりの金額になる。
そこで発泡スチロールを全焼したかつてのログハウスにも利用した。今回も、いや今回こそ資金がないので断熱材の全ては発砲スチロールと決めていた。飯山郊外のアウトレットに買い物に行ってはその都度集めて持って帰っていた。  二階に上がって錆びた古いノコで箱の発砲スチロールの箱を効率よく切って壁の間柱と間柱の間に貼り付けるように収めるのを実演して見せた。  これは実は重要な作業なんや。  北信の山の中腹。冬は半端とちゃう寒さに包まれる。断熱は隈なくやっとかんとアカン。  とは言え、力も技術も要らへん単純作業を今、オレがやるちゅうには時間の無駄遣いのように思えて、ま、これ位なら時間はかかるやろうけど彼でも出来ると。  雨は断続的に降り続いていた。  弱い雨で道路にも敷地内にも水溜りが出来るほどでもなかったので、雨が上がる度に直ぐ外に飛び出し裏に廻って一人で単管を組む。  高さ七mの足場を一人で作るなんてのは多分オレ位やろう。先ず誰もやらへん。少なくとも二人でやる。プロの鳶でも三、四人でやる訳で、しかし足手まといが相棒ではイライラする、それより一人の方が遥かに作業がはかどる。  また雨になる。  作業場に戻り丸太の加工に精をだす。 「マスター、出来ました」  井口君がオレを呼ぶ。二階に駆け上がる。 「おっ。見事やん。こんな面倒なコトを綺麗に仕上げてるやん」 「いやぁまぁ、性格ですかね」  彼がチョッと照れて珍しく表情にだす。ホンマ、見事で外側からコンパネを張り付けた内側の下地の角材と角材の空間にジグソーパズルのように隈なく合板一枚分の発泡スチロールを収めてあった。 「よっしゃっ」とオレはその上に新しい合板を被せ、ハンマーで釘をトントンと軽快に打ち込んだ。  それからも雨の状況に合わせて内と外の作業を振り分けやってると、
「マスターできました。」の声で2階に駆け上がり次のコンパネを張りつける。 昼、井口君も流石に腹が減ったと。
定番の炊き込みご飯と海苔だけの質素な昼食を雨の合間の路上に椅子を出して二人で頬張る。もちろんロング缶の発泡酒を一本ずつ。
「鼾かいてましたよ」 「へぇ、そう」  炊き込みご飯で腹が満たされ発泡酒で程よい気分になり椅子に抱かれて寝入っていたんや。時間を見ると小一時間も眠っていたようだ。  昼食に続き夕食も炊き込みご飯の同じメニュー。  炊き込みご飯だけと言えば品祖で愛想がないようやけど、オレの炊き込みご飯は具沢山で栄養タップリのなかなかのバランス食なんや。
ベースは五穀入りの米で、鶏肉、豚肉、椎茸、大根、人参、アサリ、油揚げ、筍、ワカメ、何とニンニクまで入れて、そこに昆布と雑魚の粉と寒天も入れて、酢と酒と醤油で味付けしてあるから、オレとしては毎食それでいいのだ。
要するに、店を休み再建作業に費やす短い時間を最大限に生かすにはあらゆる処で無駄がないよう努める訳で、食事にしてもその都度料理するなんて悠長な事はしてられへん。
バランスを考えた炊き込みご飯を一回作っておけば三日は凌げるのや。
 ヒグラシが三方の森から心地よく聞こえてくる。  夕暮れ前のしっとりした静寂が辺りを包み込む頃、弱々しく清楚で何処か寂しさを帯びて森で控えめに奏でられる、この季節のこの時刻が大好きで森の精霊達とオレの魂とが穏やかに溶け合うひと時であって、緩やかにに癒されるんやな。  普通はカナカナと表現されるヒグラシの鳴き声やけど、どう聴いてもオレにはそんな風に聞こえへん。  ではどうなのかちゅうと、これまた表現し難く、言えるコトは大阪でも爆発的に湧いて出る油蝉のけたたましい下卑た騒音とは違い、控えめに涼しげに黄昏時をよぎり、何処か遥かな侘しさを呼び寄せる鳴き声とでも言うか、そやから身を委ね心を預けるかのように耳を澄ましているんや。 雨脚は弱まりオレは単管の足場に取り付く。  クランプのネジをラチェットで締め上げる作業が延々と続く、このネジの絞めは力を出し切るように絞める。数が多いから腕の筋肉の鍛え上げるのと同時に疲労も重なってくる。  しっかり絞めておかんと、緩んでずれれば、体重を乗せた時、突然バランスを崩して危険で、時には組み上げた単管そのものが倒れたりもするから気が抜けへんのや。
更に重い単管を担いだり、持ち上げたり、引っ張り上げたり、また組んだ上を横に移動したり登ったり降りたり五体の隅々をこき使う。  その中を時折「マスター、出来ました。」の井口君の声が籠った中にも朗らかさを含んで聞こえてくる。  その声の度に躊躇うことなく足場を降り、表に回り二階に駆け上がり合板を当て釘をトントンとリズミカルに打ち込む。  釘を打つ。  この単純な作業は意外と難しいんや。  四十五㎜の細い釘は打ち損じると曲がったりヘシャゲたり、一本二本なら未だしも数を打ち込むからは失もが多く、その上、体を屈めての横打ちもあり、右手では無理ならば左手で打つなんて年季がいるんやな。  以前は釘ではなく殆どをビス留めにしていた。ところがこいつが以外にも脆いと判明。
豪雪と中越地震で二階部分が崩壊した。
無残に散らばった残骸を無念な思いを抱いたまま片付けていたら、数多くの捩じ込んでいたビスが、頭の処で断ち切られていた。ビスは横からの衝撃に弱いのやと思い知らされた。最も材質にもよるのかなと、オレが常用しているのはコースレットで、単価の高いものならどうかと試してみたら、結果は大して変われへんかった。
以後、構造的に重要な部分は面倒でも全て釘に変えた。
壁の合板は耐震性を高める重要な役割を果すのだ。
 ヒグラシの爽やかな演奏から二時間も経過する七時前には黄昏が濃くなり山と森に闇の気配が忍び込んでくる。  井口君が作業をする二階に電灯を二つ灯す。  オレはそのまま裏に廻り単管を組みクランプのネジを締めていく。  淡い蒼い闇が急速に暗闇に変わってきて流石に手元が覚束ない感じになったきた。それを潮時に足場から降りて、作業場に戻って丸太の加工に切り替えた。  八時を回った。九時になった。  十時前に井口君の声がまたした。  二階に上がる。猫背が更に肩を落とし疲れた表情が明らかに見えた。 「ご苦労さん。疲れたやろう」
「ええ、やっぱりもう疲れました」正直に言う。  さもあらんと思う。  力とスタミナの消耗はオレの比ではないやろうけど、長時間立ちっぱなしでさほど体を動かさず細かい仕事はいたって疲れるものや。
オレ一人ならこの時間からでもまだ動き続ける。そやけど、まっエエか。 「腹も減ったやろ。」 「エエ、まぁ。」 「炊き込みご飯喰うか。」 「いやぁ、それはぁ。」  ウンザリって感じ。ほなビールでも飲むか。  もうこのまま寝ます。そやけど何か喰うとか飲むとかせんと。  何処かで適当にやって道の駅で寝ます、ときた。  あっそう、ほな勝手にしたらってのが本音で、居なくなるのを素直に喜ぶオレであったりして。  一人きりの時間が欲しいってのがオレであったりして、いや待てよそれは彼も同じかそれ以上かもかな。  何も飲まず喰わず彼は闇に包まれた夜更けの道を飯山豊田IC手前の道の駅まで去っていった。  曇に覆われた夜空には星の一つも見えない。それが闇を深く濃いものにしていた。静まりかえった山と森。時折狐の鳴き声が闇を裂いてこだまする。寒気が急速に辺りを包み込んできて身体の芯を刺してきた。  この季節、北信の山の中腹とは言え何でこんなに寒いんや。ブルッと胴震いをして部屋に入る。  井口君が消えた空間に独り。
 独りが当り前で彼が存在してたコトが異質やったから、解放感が心地良くホッとする。
 お椀に軽く炊き込みご飯を入れ、オイルサーデンの蓋を開け発泡酒とをテーブルに置き、マイチェアに深々と体を沈める。  井口君も性格に合った作業とは言え、数時間没頭したら、流石に疲れが全身を侵し、独りの孤独な時間を占有したかったんやろう。  寡黙で会話を楽しむ術を持たず、沈んだ空気のように生きてきて、若い頃通い続けた『街』が忘れられずネットとで検索して、現在の街山荘を見つけて、そのタメだけに四日市から訪ねてきた。  多分思いが交々募っていたのかも知れへん。そやけど自分の思いを口で伝える器用さはなく、四国遍路を終えてオレの街山荘に直行してきた。  四十八才で独身の一人の男の語らぬ情念をオレは推し量ってみる。  四十数年に及ぶこの稼業を通して、よく似たそんな現象には何度もお目にかかった。  では、オレが何者か。  オレと言う存在が人の心のどこかに鉛のような重さで居座るのか、そんな訳はないでしょう。  オレと巡り合った多くの人達のある人には、めくるめく過去の思い出が走馬灯のように回り始めるトキ、オレの存在が一瞬目にとまる淡い光でも放っているのか。  オレが酔って嵩じてお客に語る内容は今も昔も大差はない。  差別を怒り、権力を呪い、闘い続ける尊さを語り続け、負けても負けても夢を捨てない思いをいっぱい語り尽してきた。  そんな時、目の前で聞き入る輝く瞳を幾つも幾つも見てきた。  トキが流れ時代を重ね青年が壮年に、そして初老を迎える人達が増えてきている。  かつて輝いた目は澱み、いつまでも変わることのない、むしろあるところでは更に過激さを増すオレの情念と生き様を、非現実的なものとして時には揶揄したり非難したりと、見る目も言動も変わってきている。  それがある故に、若さを自ら消していく年配の人達とは相容れないオレであって。 井口君の遍路の旅は多分自分を尋ねる道程であったのではないかと思う。その最終の仕上げのようなものが、オレを訪ね信州木島平村まで同行する事にあったのか。それがオレの身勝手な推測であったとしたら・・・  にもかかわらずオレは彼へ何の答えも用意なく、むしろ一方で疎んじてもいる。  それでエエんかな。  エエ訳ないし。そやけど・・無理に何かを見せてどうする。  オレはオレでしかなく、虚飾の仮面を被ることはなく在りのまま。それしかでけへん。  全焼した街山荘を再建する。
その情念がオレの全てであり、その枠から一歩も出られない自己をを冷徹に見つめ噛み締めて生きているんや。  他人の思惑や情念も一応は考えてはきた。しかし、かと言ってそれに対して自己の在り様を如何に装うなんてオレの頭にはない。  ま、エエかと焼酎を飲んでる内に眠りについた。  朝の鍛錬とミニ滝での洗顔を終えて帰ってくるとI君がきていた。 「どうやよう寝れたか」 「いえ、あんまり寝れませんでした」 「今日は天気が良さそうやな、ドライブ日和ちゃうか。今からユックリ走って帰ったら丁度エエやん」 「そうですね。そやけど昨日の続きを少ししてそれから明るい内に着けるよう昼頃帰ります」  懲りてへんねんや。  意外性が僅かな驚きとなって胸中で小さく爆ぜた。  珈琲を共にして、それからそれぞれは昨日の続きに没頭した。  足場はまだ全部出来ていない。  高所に移るほどに一人でやる難儀さを思い知らされる。さりとて井口君を呼んでも役に立たないどころか邪魔になる。  正にエエ天気や。  エエ天気て言うのは、晴れもせず雨でもなく空一面に高く薄く雲が広がってるコトなんや。野外の仕事はこの季節晴れていては暑いんやな。かと言うて雨では仕事になりまへん。薄く曇ってるのが最高。  しばらくすると「マスター、出来ました。」その声が懐かしく心地よく聞こえてくる。  力も技術も要らない単純作業。  そやけど重要な作業。いずれ誰かがせんとアカン。それを淡々と黙々としていく井口君は得がたい労力になっている。  それを自覚してかどうか回を重ねる毎に彼の声に晴れやかさが響いてくる。慣れたのか時間も短縮されていた。
二回目の声がかかったトキは昼前。  発泡スチロールも底をつく感じになっていた。それだけにジグソーパズのパーツは小さく細かくなっていて無駄なくその精密さに唖然とさせられた。  昨夜のような肩を落とした疲れた様子が嘘のようにニーっとした満面の笑顔が別人のように爽やかであって。
「メッチャ、いけてんやん。凄いっ!発泡スチロールももう無いみたいやし、それに昼近いし、そろそろ切り上げるか」 「そうします。何か足を引っ張ってしもうて、何にも役に立てへんかったんですけど、ホンマにスミマセンでした」 「んなコトあるかいな。これは大事な作業やったんや。オレはなかなか手をつけられへんかってホンマに助かったわ。ホンマおおきに」  一緒に二階から降りて彼の車の前に立った。
昨日と一変して青い空に雲が浮かんでいる。眩い陽射しが彼の彼の窪んだ目の辺りに濃い影を作っていた。影を伴った顔に静かで穏やかな表情を浮かべていた。
 酒屋の前掛けを外しクルクルと巻き込む。  帰る身支度は何もない。  前掛けを右手に車の前で深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」  稲妻に撃たれたとは大袈裟かも、そやけどその位の衝撃が瞬時に胸を撃ち思念がハッと覚醒され底から熱いものが迫ってきて瞼の裏に熱いものが滲む。  その瞬間、突然深い熱い連帯感がオレの五体を駆け巡っていた。
 井口君の車は林道を静かに下りていった。
見送るオレ。 下って行く林道の遥か向こう唐松林の陰に車は吸い込まれ消えた。
それでも佇み動けないオレ。
邪魔扱いにした。疎んじた。イライラを常に内包させていた。た。
 あれは一体何やったんやろう。そんなコトがまるで嘘であったのでは。
 時間をかけて交わってみなければ分かれへん、人の感性の底での触れ合いをしみじみ感じられさせられたような。

 忘れ得ぬ、思い出に残る人がまた一人増えたようで。

2010年1月26日火曜日


 

 

 

鳩 

慌てず、焦らず、投げ捨てず、諦めない

        

 

 

 

 

 はっ?えっ?

 鳩? ハトやん。何でこんな処に居るん?

 買い物から帰って無意識に店の階段を上りきった。

十六段。それだけ天井が高い。外からの淡い明りが踊り場を幽かに浮かび上がらせている。その踊り場の二段下。ふと目に入ったのがチョコンと居る一羽の鳩。

オレが近づくと心なしか後ずさりした。
 シッと追っ払おうかなと思ったのも束の間、彼女(オスかメスか判然とせえへんが何となく可愛い感じがしたので)と目と目が合った。
 円くちっちゃな目が可愛い。
 しかも穏やかに見えて、細く突き出した口ばしも可憐で可愛い。

お互いしばし見つめ合っていた。
 「何してん、こんなトコで」
 もちろん、彼女は答える訳もなくオレを見つめた。
 あれー、左の羽がだらりと垂れているやん。
 「は~ん、怪我したんかいな」
 手当てと言うても近づくと逃げるやろうし、捕まえるにしても手荒な真似になってしまいそうで臆してしまう。ま、エエか。その内何処かへ飛んでいくやろうとオレは店に入り買い物を整理したり、片付け物をしたりでいつしか鳩のコトは忘れていた。

 「あんなとこに鳩が居るやん」
 開店時の夕方、最初に来たお客ご婦人第一声。
 えっ、まだ居るんかいなと、どうでもエエと思いつつ見に行った。
 鳩は階段を二段上がって場所を上に移して踊り場の端に悄然と立っている。
 近寄って「どうした、よう飛ばんのか」と声をかけた。
 彼女はだらりと垂らした左肩の羽を退けるようにしてヨチヨチと横に動きながらオレから遠ざかろうとする。

それがシナを作るようで妙に色っぽい。
 
「あのな、オレはな、鳩なんて大キライなんや。鳩とカラスは駆除してもエエ思ってねんや。鳩はな群れて糞をそこらじゅうにして汚しまくるやろ。何が平和の使者やシンボルや。大嫌いやど。それが何でそんなトコに居るねん。怪我したらしたで何処か他に行くトコあるんちゃうんかいな。そやのに選りによってなんでこんな建物の奥に来るんかな。鳩は嫌いやけどメッチャ気になるやろう」
 チッチャイ円い目がオレを見つめて話を聞いているようで、その姿が清楚で毅然としているように見えた。
 踊り場を挟んで向かいの店はダーツバー。
 二階建ての建物で踊り場を挟んで二軒だけを振り分けたテナントビル。あちらさんは先輩でもう何年も営んでいるから次々とお客が入って来る。
 それに比べたら開店未だ一ヶ月も経ってへんオレの店にはポツリポツラとお客が来るだけ。
 どっちにしても両店に来るお客はこの日は迷い込んだ鳩の横を通るコトになる。当然誰しも鳩に目が行き怪訝に思うやろ。

そやけどまさか怪我してるのが一目瞭然の彼女に誰もおかしなチョッカイはかけんと思う。
 オレはしゃぁないなと踵を返して店に戻った。

来るお客は一様に彼女のコトを口にした。そやからお客との他愛のない話の中でもオレの頭は、あの鳩をどうしようどうしたらエエんかなと、案じる気持ちが膨らむばっかりで気が気でないようになっていた。

 最後のお客が帰る。
 見送って店から出る。
 ツクネンと彼女は同じ場所にさも何事もないように立っている。
 何時間も目の前を人が通り過ぎて行くのに慣れてきたのやろう、チョッと近寄った位では身を退こうとせえへんようになっていた。
 ヨシッ、とオレは心の中で手を打った。
 帰るお客に彼女の気をひきつけさせる陽動作戦にでた。
 先に出たお客に彼女の視線が向いた瞬間、オレの手は彼女の背中を掴んでいた。
 体を捩り首をねじって振り向いてオレを見つめながら身悶えし抵抗しようとしているが、オレの右手は彼女の小さい体を鷲掴みにして、更に空いていた左掌で彼女の腹部をそっと包み込んだ。
 そのまま抱きかかえお客に別れを告げて誰も居ない店内に戻った。

テーブルの上にそっと置く。もちろん暴れないように軽く押さえ込み逃げられないようにして左の羽をそっと広げた。

プシュプシュと魔法の水(濃厚なミネラル液)を霧状に噴きかけた。

羽の上からも裏かも丹念にかけた。その度に彼女は体全体をピクンピクン震わせて微かな抵抗を試みていた。それはほんの十数秒のコト。それからそっと彼女を床に置き手を離し解放した。
 かなり慌ててオレから離れていく。
 店内は照明を落としていて薄暗い。テーブルの下へ潜り、椅子の下を横切りヨチヨチフラフラと兎に角オレから少しでも遠くへと懸命な気概を後姿に見せて。
 もう彼女がこの店内の何処へ行こうが好きにすれば良い。 
 オレとしてはやるだけのコトをやって彼女を無事保護したんやし、後は意に介さず酒を喰らってそのままソファーで眠りに落ちた。


 家の中が大変なコトになっている。

煙が充満している。煙の向こうに火炎が渦巻いている。

まるで映画でも観ているような感覚。

そのくせその真っ只中に居て何をどうして良いのか、動こうと必死で焦るが体がズシッと重たくスローモーションの映像のような動きしかでけへん。
 妻が居る。

その妻を絶対に救い出さねばと焦り、思うに任せぬ動きに怒りが阿修羅のように滾る。鼻腔に煙が這い上がり息が苦しい。
 突然、九十八年山荘火事中に居て逃げ場を失っているオレ。

絶体絶命のピンチやんけ、妻を、妻だけは何が何でも助けなアカンねんや。
 その時、燃え盛るログの隙間から何やら飛び込んできた。
 鳩や。そう思った瞬間、鳩に導かれて妻もオレも燃え盛る山荘の外に出ていた。

 おぉ、夢やったんかいな。
 久しぶりに紅蓮の炎に包まれた山荘全焼のシーンが鮮明に浮かび上がってきた。まあまあ、汗までかいてまんがなと苦笑してみた。
 鳩?
 そう言えば鳩は?
 そうか、鳩を保護したのを思い出した。
 既に広い窓から眩しいばかりの陽光が店内いっぱいに広がっていた。
 そうか、昨夜も店で寝てしもうたんや。
 相変わらず独りで飲み続けてたのを思い起こし、そして保護した鳩の事も思い起こした。

広い店内の何処かに彼女は居るはずやと、音を立てないように這いつくばってテーブルや椅子の下を探るように覗き見渡したが見当たれへん。
 夢の中に何で鳩が出てきたんやろう。そうか、鳩を保護して良いコトをしたと思い込んでいたから多分あんな夢を見たんやな。
 鳩の恩返し、アホやでホンマにいい気なもんやと自嘲しながら振り返る。
 その時、ステージのピアノが目に入った。
 腰を屈め音を立てないようにピアノの下を覗き込んだ。
 光が遮られて陰になっている薄暗いピアノの下。

そこに置いてあるバスドラの向こうに斑で灰色の羽が見えた。何してねんやろ、まだ警戒は解いてへんやろうな。
 しゃあないなぁと、そのまま様子を窺うように観察を始めた。
 待つコトしばし。
 尾羽を振り振りヨチヨチと彼女が姿を現した。オレとの距離は約2m。
 「ゆっくり休めたか、腹減ってんちゃうか。喉も渇いたやろう」
 首を少しこちらに向け、やはり清楚つぶらな瞳でオレをジーッと見つめながら問いかけを聞いている。
 コイツ、人の話が分かるんかいな。そんなアホなとは思いつつも分ってるような錯覚に陥ってしまうのは、やっぱり彼女のつぶらな瞳のせいなんやろな。
 「チョッと待っとき」
 空いた灰皿二つを手にしてカウンターの中に入り、灰皿の一つに米粒を僅かに掴んで入れ、一方の灰皿に水を入れユックリ静かにピアノの方に引き返した。
 彼女との距離二mほどの処で止まり、ゆっくりしゃがみ込んでそうっと両手を伸ばして二つの灰皿を彼女のほど手前に音を立てないように置いた。
 慌てる風でもないが警戒は怠らないというように彼女は二三歩後ずさりしてやっぱりオレをジッと見つめている。
 「ほな、ここへ置いとくで。気が向いたら食べ、飲み」

オレはカウンターに戻り頬杖をついて対極にあるピアノの下の彼女の動きを注意深く眺める。
 窓からの陽光がキラキラと照り返している。

眩い店内は天井の高さがm近くありゆったりと大らかなゆとりのある空間

内装は丸太を駆使してログハウスを装い、その殆どを焦げ茶色に塗装しているから古い田舎家のようでもあってしっとりと落ち着けるんやな。

オレは自作のこの空間が好きや。

一歩外へ出ると天神橋商店街一筋東裏通り。

立ち飲み屋や飲食店が軒を並べていて、それぞれが競って看板を出しているから狭い路地を更に狭くしている。それでも昼前からどの店にも客がやってくる。何でそんな昼から酒を飲む人が多いんやろと不思議に思う。

狭い裏通りながら人の往来が頻繁にあって途絶える事がない。

そやからここなら商売は上手く行くやろうと割り込んできた訳やけど・・・

オレは本来人が群れるとことか、ビルがひしめき合ったりする処とか、車が多いとか、要するに都会がイヤなんや。

とは言うものの自分の店がお客で溢れるのは大歓迎ちゅうからチト矛盾しとるが、商売してるんやしそれも在りかなと。

そんなことで用がない限り何処にも出かけず一日中店に籠るのがほとんどと言うのがオレの日常になっている。

ログハウス風の趣きで深い静かな空間に保護した鳩と音も立てずゆったりしてるなんて現実感が薄れておとぎの世界に入り込んだような錯覚に陥る。その妙にふわーっとした幻想に浸っていた。

 

分ほどが経っても彼女は水にも米粒にも何の興味も示していないようや。
 むしろ時々首を捻りキョトキョトと辺りを見回している。
 そのうち窓の方に視線を移しジーッと見つめだした。
 その位置からだと建物と建物の間に細長い空が見える。その空を見つめているのか。
 今日は陽光がさんさんと降り注ぎ青い高い空なんや。

そんな大空を自由に羽ばたいていた昨日までの日々を思い起こしているのか。
 或いはあの空に戻るコトを真剣に考えているのか。
 どう見ても今の彼女の羽の状態では飛び立つことはでけへんやろう。
 そやのに空を仰ぎ見たまま微動だにもせず静止している。

体を覆う灰色の斑模様の羽毛、特に首筋の玉虫色が艶を帯びて陽光を浴びキラキラしている。

そんな彼女を見ていたら妙に切ないものが込みあげてきた。
 何とか元の状態に戻して羽ばたかせてやりたいものやと切に思いながらオレは彼女から目を離せないでいた。

と、その時、彼女に動きが出た。
 二つの灰皿を横切ってヨチヨチと移動を始めた。
 窓の直ぐ横のスピーカーの前まで歩いて止まってまた動かへん。
 ただ首だけを時々上下してスピーカーと窓を見ている。

高さ八十㎝ほどのスピーカーは三角の形で、上から下に向かって手前の方にと傾斜しいる。
 オレはカウンターから離れもう一方の窓辺に置いてあるソファーに移動した。
 先ほどまで眠りに落ちていたソファー。ソファーの端とスピーカーの間はm程。
 オレがソファーに寄りかかると彼女はキッとオレに視線を向けてきた。
 しかし表情にも眼差しにも変化は見えない。まあ単純に出来た鳥類の顔では何を感じ何を思案してるのか窺い知る由もないけれど、明らかなのは動いたオレが思案に耽る彼女の邪魔をしたのや。
 オレは構うコトなく足を投げ出してソファーに横になり彼女を見続けた。
 彼女の視線もオレから離れない。
 つぶらな清楚な瞳がジーッとオレを見つめる。
 表情の無さがかえって無垢な深遠さを滲ませているようだ。
 彼女の澄み切った瞳は感情も理性も一点に絞り込んだ一途さを秘めてオレの心の奥まで見つめているような。
 波紋が緩やかに揺らぐような微細な感動、そう言葉では通じへん魂の通い合いが鳩とオレの間で生まれている。
 「分かった。飛べるようになるよな。そのタメにはオレも最大限の協力をするし、それには君も滋養を採らんとアカンやろう。先ずは水を飲むコトやな。その水には少し魔法の水も入れてるし回復のお手伝いになるよ」
 聞き分けたかのように彼女はツト身を翻しヨチヨチと元の位置に戻って、そこでまた改めてオレを見つめなおすと、次には又窓の方に視線を移しそれからやっぱりスピーカーを見つめ何かを懸命に探しているようだ。
 しばらくしてスピーカーの方にヨチヨチ歩いてきた。
 立ち止まり、スピーカーの下から上へとチラチラと何度も視線を送っては時折神妙に居住まいを正し窓を見つめている。
 窓からの陽射しに眩しく浮かぶ彼女の姿がどこか幻想的で、それに陽光の柔らかい温もりが重なりオレに睡魔がさしてきた。

オレは心地よくうつらうつらとし出した。

朦朧とした思考は妖気に包まれて意識が店の空間を漂い、その意識にあわせて鳩がふわりふわり浮かぶように飛んでいる。

そこがまるで無限の空間であるかのように、不確かに漂うオレの意識と、不思議な鳩の浮遊とが仲良く連れ立っていた。

バタバタドサッ!

その不調和な音が夢見るオレの幻想の世界をパチンと弾き飛ばし、突然現実の小さな事件が目に飛び込んできた。

彼女を凝視した。
 彼女はバタバタと羽を懸命に羽ばたかせスピーカーの下部の枠に飛び乗ろうとしている。それは時には成功するもののスピーカーの斜面が直ぐに彼女の小さな体を弾き飛ばして転げ落ちさせる。落ちた彼女はもがきながらもヨタヨタと起き上がり体勢を立て直しジーッとスピーカーと対峙する。
 力の回復を粘り強く待ってるんやろう。感情を包み込み一つの目的へ静かな不動の闘気だけを滾らしてるんや。

 「そうか、スピーカーから窓辺に行きたいんや。そやけど今は無理やで。もうチョッと力を蓄えてから挑戦した方がエエで。それにしても窓辺に辿りついたとしてもまだまだ飛ばれへんし、危険やし、とに角無理したらアカン」
 オレに声をかけられ、彼女はそのまま首だけを捻って視線をじっとオレに当ててきた。

そんな訳はないと思いつつも、その仕草にはこの子はホンマにオレの言葉を理解してるんやと当たり前のように錯覚させられてしまうオレであって。

 「なっ、そう言うコトやからもうちょっとジッとしとき。ほんでなやっぱり何か食べなアカンし水も飲まなアカンやろ。オレはな、チョッと買い物に行ってくるさかいな、くれぐれも無理なコトしたらアカンで」
 睡魔から開放されたオレはそのまま買物に出かけた。


 天神橋商店街、実に活気のある商店街や。
 天一から天六までの約kmのアーケード。
 その長さが日本一、いやアジア一と言うのも充分頷ける。

 中学校は私立で大正区の大運橋から阿倍野区の昭和町まで通ったから、当時、市電から地下鉄に乗り換えるのはナンバやった。
 そんな少年の頃からナンバに馴染みミナミで群れてヤンチャの限りを尽くしてたから、キタという所には殆ど縁がなかった。
 縁がないというより意識して敬遠して敵視さえしていた。
 大阪の心情はミナミやでとガキの頃から一徹に思い込んでいた。
 何ちゅうか、大阪と東京を対比する感じでのミナミとキタやった。
 そやからキタちゅうのは梅田界隈だけでその他はまるで異国のように思っていたオレであって。いやもっと酷く僻地くらいに思っていたのに、キタの堂山に店を出し天六で住み始めてオレの無知さ加減が顕かになり、で、毎日が発見のサプライズになった。

 天神橋商店街の賑わいと長さに驚嘆し、梅田を少し外れた中崎町界隈の静かなセンスの良い賑わいに好感を抱き、いつしかこの界隈が大好きになっていた。特に天六、天満の賑わいはミナミや堂山町辺りのギラついた夜の膿のような禍々しさは見えず、明るい庶民的な活気にも親しみが持てる。チャリで少し行けば大川の畔の清閑な緑と水面も愉しめて、昼オレ孤独を癒してくれる。
 それでもチト物足らないものがあった。

年間馴染んだ生玉には店の直ぐ裏手に生玉神社と生玉公園があってそこには鉄棒やタイヤを埋め込んだ遊具などがあったし、何よりも都会にしては樹木が生い茂り広さもそこそこあったからオレの格好の鍛錬場にもなっていた。
 ジムとかと言う狭い空間に大勢人が集まってくるような処は一人を愉しむオレの肌には馴染ない。

人気のない処を好むオレは野外での鍛錬が好きなんや。

信州木島平村へ行けば山の懐の中で伸び伸びと思い切り暴れられる訳で。

ま、大阪のような都会では身近にそれを望むべくもないのやが、それでも生玉公園は充分楽しめる鍛錬場であって馴染んでいた。ところがこの天満界隈の公園は小さく品祖で、しかも午後になると学校を終わった子供達が群れ集い騒がしく肩身の狭い思いする。

今度の天満の店は天井が高く広々している。
 鉄棒も設置して体はいつでも鍛えられるが、やっぱり野外での鍛錬とは比べようもない。
 この天満の店の内装工事の初っ端は丸太と資材の搬入やった。何せ二階建ての建物やからエレベーターもエスカレーターもない。

体力と力持ちを自負するオレは十六段の階段を重い丸太や資材を担いで連日搬入に勤しんでたんやが、五日目に突然激しい腰痛に見舞われた。
 それを耐えて忍んで内装工事に入ったものの腰痛は益々激しくなるばかり。

病院で検査した。何と背骨ずれて椎間板が磨り減ってしまって無いちゅう結果やん。

医者は手術以外にないと断言しやがった。手術なんかしたら何ヶ月も寝たり、更にリハビリも加えてたら半年は動かれへん。

膨大な借金を抱えながら我武者羅に強行するオレにはそんな余裕なんてある訳がない。

激痛が続き歩くのも困難な状態が続くと、老いとはこう言うところから始まるのかなと六十六歳のオレは流石に心細くなってきたのを跳ね返すが如く、ならば医者の世話にもならんと自力で治したるやんけとそれまでも続けていた鉄棒の逆上がりやる頻度を小まめに増やして行った。

逆上がりをして股関節を軸に体をくの字に折って頭を下にぶら下げていると背骨が伸び圧迫から開放されて楽になる。それを繰り返すコトで腕力や背筋腹筋も徐々に鍛えられ、年齢を超えて体は更に強化されていく。

先日も若者三人を相手に逆上がり大会をやって、オレはいきなり連続三回やって見せて、精々一回しかでけへんかった彼等に「オレは六十六のジジィやで」と得意満々に見せびらかして若者達を大いに悔しがらせてやったもんや。

 JR天満駅から天六に掛けての界隈は飲食店が多く、不景気に侵食されている大阪の現状を尻目にかなりの店が当たり前のように繁盛してんねんやな。何故かすし屋が多く行列が出来る店も稀ではない。 
 店の裏の窓を開けると少し離れた場所に高層マンションがそそり立っている。
 その一階と地下は大きな市場「ぷらら天満」になっていてその北側が天満市場でとに角物が安い。安いからもっぱら買物はそこになる。
 仕入れがほぼ目と鼻の先ちゅうのは実に便利や。
 数日前には天満駅を横切った直ぐ先の商店街にあの『スーパー玉出』が進出してきた。
 で、その日鳩は気になるもののその玉出を視察に行き、折り返してぷらら天満でも買物をして小一時間ほどで店に帰ってきた。

 「あっ、危ない!」

と思わず叫びそうになった声を呑み込んでジイッと様子を窺った。
 出かける前彼女はピアノの横、スピーカーの後ろの窓辺をしきりに見つめていた。
 それが今、その窓辺に止まってる。背中をこちらに向けている彼女の姿が真っ先に目に飛び込んできた。
 一瞬オレに驚愕が走った。

絶対に未だ飛べないとオレは確信している。
 そやから今、彼女がどんだけ危険な状況であるか瞬時に把握するオレであって。
 窓辺から外の通りのアスファルトまではm近くの高さ。

足を滑らせて落下でもしたら致命傷をこうむる可能性は大なんや。

かと言ってオレが慌てふためいて大声を出したり駆け寄ったりしたら警戒心と恐怖で彼女がバタつきバランスを崩して足を滑らせる恐れがある。その咄嗟の判断がオレを冷静にさせた。即座にスイッチを切り替えて、そおっと音を立てないようにそろりと静かに近づいていった。 

 彼女から二mほどのところで立ち止まる。気配を察したのか首をひねりその視線がオレを捉えていた。 無表情やけどあどけないつぶらな黒い瞳がジーッとオレを見つめる。 それがオレには何かを訴えているように思えた。
「何してん?危ないやんか、そんなトコに居ったら。どないしてそこへ上がったんや」
 答えは直ぐに分かった。
 オレの居れへん間に何度か挑戦してスピーカーの短い斜面をよじ登り隣の椅子に移りそして窓辺にたどり着いたのやろう。
「あのな、そこまでは必死で何とか上がれたやろう。そやけどお前はな、その羽では飛んでいかれへんねんで。危ないからもう少し辛抱してそこから降りておいで」
 ジッと聞いているのか首をひねったまま視線を外さず見つめている。
 オレが傍に行って抱き上げて床に下ろすことはでけへん。

実際は、彼女は一切オレを信用してへんやろ。その証拠に水も米も口にした形跡はない。ただ、距離を保っていれば逃げようとしないのだけはハッキリしていた。mの距離を保ったままオレには何の行動もとられへん。

説得して諦めさせて彼女が自主的に降りて来るのを待つしかないがそれは現実味のない不可能なコト。
 突然、彼女はひねっていた首をクルッと正面に向けそのまま前を向いて動かない。オレを完全に無視してるやん。

隙をついて一挙に彼女のトコまで行き手でこちらへ引っ張ろうと、咄嗟に思った。跳躍して彼女を引き寄せようと思ったが、直ぐに諦めた。
 それは大いなる賭け。
 もし、失敗したら彼女は窓の外に転落する。
 それは命に係わる超重大なコトや。
 そんな賭けはやっぱりでけへん。
 第一、今オレはそんな事ができる体ではない。
 m先まで一気に跳躍なんかしたら折角治まってきた背骨の痛みが激しくぶり返すのは必至や。
 そっと引き返して買した荷物を片付け、またそっと近寄りなす術もなくソファーに腰を下ろし見守るコトにした。

 午後の陽射しが広い窓からいっぱいに射しこんでいる。その目映い明かりの中にチョコンと鳩が佇み陽射しを浴びて羽がキラキラ照り輝いている。

微動だにせずただ前方を無表情で見つめて照り輝く姿はどこか神々しく妖精か精霊の化身のような錯覚さえ覚えさせる。
 侵しがたい聖域をただ見守るオレはいつしか居ずまいを正し神妙にしているのが当然のようになっていた。

だらりと垂れた左の羽。それでは飛びたてる訳でもないのに、ジッと立ち尽くし一点に視線を向けている。

そこには宇宙の大いなる摂理を悟り、その計り知れないエネルギーを一身に受け取ろうとしているかのような輝く崇高な小さな小さな存在があった。

小さいながら強固なその存在がオレを圧倒してくる。
 十分が過ぎ、二十分が経ち、更に時間は経っていく。

一心に窓外を見つめる彼女、小さいが無色透明な彼女の尊厳に引き寄せられてただただ見守るオレ。

痛ましくだらりと垂れた左の羽。にもかかわらず、抗えない強固な意志が彼女のつぶらな瞳に宿り、オレの懸念がいかにも無用のようにも思えた。
 飛び立とうとしているんや。
 そやけど自分の今ある力が如何に頼りないかを彼女は悟っている。
 そやから動かへん。
 動けるパワーを体内の底から念じるように呼び起こしているんや。

小さな不動の姿勢に思う。

その時が来るのがいつなのかおそらく彼女自身は感知しているんやろう。
 「分かったよ。多分、君は無謀なコトはせえへんやろう。自分の在りようを冷静に理解してんねんな。もう邪魔せえへんからな」

 目映い彼女の輝きと午後の陽射しに包まれてオレの体は気だるい脱力感が浸透してきていつしか眠りに堕ちていた。

 バタバタバタ、激しい羽音でハッと目が覚めた。
 どの位眠っていたんやろうと、彼女の居る窓辺に目をやる。
 居れへん。床にもおれへん。
 彼女の姿が消えた。
 慌てて窓から身を乗り出して下を見る。
 下の焼肉屋の突き出したテントが邪魔をして視界をさえぎる。
 それでも更に身を乗り出して覗いたが見える範囲に彼女の姿はない。
 う~ん、やっぱりオレの懸念は正しかったんや。
 睡魔の中でエエ加減な妄想に捕らわれて保護せなアカン処置を怠ったと、悔恨が途轍もなく沸きあがり、そのまま身を翻して下へ降りようとした、その時。
 バタバタと羽音がまた何処からか聞こえてきた。
 それは多分、極近距離。周りを見渡す。
 また、羽音がした。窓から視線を真っ直ぐ前に移した。
 居った。
 向いのマンションのベランダ。
 その角に爪を引っ掛け滑り落ちまいと羽をばたつかせている懸命な彼女の動きが目に飛び込んできた。
 「おおぅっ」思わず呻くオレであって。
 「ガンバレ」続いて小さな叫びが口から飛び出していた。
 爪の力が尽きて滑り落ちようとするのを懸命に羽をばたつかせて浮き上がらせベランダに上ろうと何度も試みている。

 やった。とうとう登りきった。
 鉄柵の間をヨチヨチとすり抜け通りを見渡せるようにこちらに向き直り、一度羽を大きく広げてゆっくりと沈むようにうずくまった。
 流石に疲れたとみえる。それからまたその姿勢のまま微動だにしない。
 やっぱり、彼女は冷静に自らを推し量っていたんや。
 窓を見上げ、窓までの距離と自らの力量を測り、微動だにせず外を見つめていたのは冷徹な思惟の表れであったんや。
 命を全うしようという至上の摂理に従い、自身の体力と置かれた環境を冷静に推し量り、投げ出さず、諦めず、慌てず、着実に一つ一つの段階をクリアしていく。
 動物の本能というだけでは済まされない意識された熱い個の輝きがある。
 窮地に追い込まれて冴えわたる個としての静かな闘志が孤高な魂を生み神々しいまでにも高められていく。
 深遠に思いを巡らし、ここぞと確信した時の判断で躊躇うことなく敏捷な行動力で一歩ずつ前へ前へ確実に道を切り拓く。

こににあるは前進のみ。振り向くことも後退すると言うことを拒否した揺るぎのない強靭な意志を見せ付けられた。
 集団や群れでパニクルことの浅はかな行為などとは比べるべくもなく。


 人間でもこうはいかへん。
 いや、人間こそ一人では何も出来ないというのが現代人かも。
 群れに寄りかかり個の尊厳と輝きを失くし他者と同一化と言う方向へ流されがちな現代の多くの人間には無縁とも思える「個の輝き」。
 個の輝きとは大袈裟なものではなく増してや英雄を気取るのでなく、窮地に遭遇した時こそ、確りと目標を捕らえて目立たず静かに淡々と向かう一途な姿勢なんやろな。

 

 窮地に立つ。  
 オレは何度も窮地に立たされてきた。
 九十八年の信州木島平の街山荘全焼、コイツは最大の窮地であった。
 なってしもうたモノはしょうがないと現実を速やかに受け入れ、精一杯冷静になり次の行動を考えた積りでいたが、後から振り返ってみると、仕方のないコトやけど動転して慌てて随分と間抜けなコトの多かったことか。
 もっと冷静であったなら、消火が不可能と判断した時に持ち出せていた物はかなりあったはず。

押しかけた野次馬を前にして下手な気取りを演じていたような気もする。

その時のオレは、状況を見極め自分を見つめるという、この鳩のような冷静な行動をとれなかったんやな。

悔しさが込みあげてくる。

文字通り取り返しのつかない悔しさはオレの胸中で常にくすぶっている。

そのコトが次へ進む大きな原動力となって今もひたすら駆け続けているがそれでも色んな窮地が後を絶たず今では窮状慣れしているようでもあるんやな。

 この鳩は人間の愚かな懸念より、もっと高いところから自らを見つめていた。
 どんな人間の格言や説法よりも、感動を持って身に染み込まさせる教えを受けたと思う。
 ふと、思う。
 慌てず、焦らず、投げ捨てず、諦めない。
 日ごろ自分に言い聞かせている言葉を、鳩が摂理の化身となって身を持って示してくれた。

 小一時間も経ったころ、パタパタと羽音がして彼女は更に高く舞い上がっていった。
 その羽音はバタバタからパタパタへと軽やかな響きに変わっていた。
 大空に舞い上がり何処へか姿を消していった彼女の残像を瞼にしたとき、熱い滴がオレの目から流れ落ちていた。
 否めない感動を体は素直に受け止めてんねんな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はらだ よしお  原田 譽志男 著