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2016年5月15日日曜日

征生男


番長

 

「アホンダラ何しとんねんボケッ」

言葉と同時に正面から水平にコブシが飛んでくる。おでこにガーンと当たる。衝撃の痛さよりも怯えが全身を拘束して抗えなく下を向き言葉を失い、涙が出る。
「モタモタするな、ボケッ」

少年達の草野球。成績も優秀で運動感覚が優れた兄の正紀(まさのり)は群のリーダー的存在だった。草野球にはほとんど征生男(ゆきお)も連れて行く。運動音痴でドン臭い征生男はドジの繰り返しでその都度兄の叱咤と鉄拳制裁を受け周りの少年達からも白い冷めたい視線を浴びせられる。その辛さに萎縮するだけでなく涙が溢れついシャクリあげる。
「泣くなボケッ」

泣くと今度は必ず頭上に兄のコブシが打ち下ろされる。

小学校三年生までイジメられっ子だった。学校では常に苛められてチョッと殴られただけでも直ぐにビービー泣いていた。家に帰ると三つ年上の兄正紀の鉄拳制裁に晒され、怯えと悔しさで辛い辛い哀しさを子供心にいつも胸に宿していた。

学校での辛さや家での兄の鉄拳から逃れ唯一の楽しみは近所で一つ年下のマイちゃんたち女の子に混じってママゴト遊びをするひと時だった。それすらも正紀に見つかると「ボケかお前は、女の腐ったようなことするな」と頭を叩かれ引っ張って行かれた。

「あのな、お前いつも泣いてばっかりせんとシャッキッとして男になれや。だいたいガキのケンカなんか先に殴ったもん勝ちや」

 年長の従兄弟がじれったく詰るように激を浴びせてきた。その翌日。教室でいつものようにひっそり座っていると、いつものようにガキ大将がドカドカ近づいてきた。怯えで全身が硬直し思考が闇に沈む。ガキ大将が不敵な笑みを浮かべ征生男の前で仁王立ちになった。と同時に椅子が跳ねてガタンと倒れる音がした瞬間、征生男のコブシに鈍い衝撃が跳ね返ってきた。

そして次に聞こえてきたのはガキ大将の突然の泣き声だった。恐怖と萎縮が弾けて子供ながら一恨を込めた唐突な行動だった。征生男のコブシがガキ大将の頬に小さく炸裂していた。年長の従兄弟の言葉を思考に硬く括りつけ登校して自分の机で固まっていた。「ガキのケンカなんか先に殴った方が勝ちや」一か八か当たって砕ける。子供心に怯えを抱いたまま賭けにでた。ガキ大将は瞬時に泣き出し従兄弟の言葉通り意図も簡単にアッサリと勝てた。勝利は大いなる自信をもたらした。

その日を契機に逃げる事から縁を切った。逃げてもやられるなら逃げずに当って砕けよとの信念で生き続けてきた。以来、イジメられる側に、差別される側に、少数の側に自分を置いてきた。そやから理不尽は許せない。身にかかる理不尽な力には一歩も退かず、時には拭いきれない恐怖を抱えたまま必死で挑んでいった。

 

 

それは突然湧き上り一挙に膨らみ弾けた。窓外の狂気を孕(はら)んだ喧騒。粗悪で凶暴な渦が今にも怒涛(どとうの)ごとく窓を蹴破って襲いくるように伝わる。

誰も居ない教室。誰もが何処ともなく消えた。いや、逃げた。狂気は罵声の乱気流となり、怒号(どごう)が奮え猛る。

「嶋田ってドイツや。出てこんかい」
「イテもうたるぞう」「殺すどうっ」

 僅かに振動を見せていた怯えも既に消えていた。鼻孔の奥にツーンとした冷たいものが広がり、湧き出る闘気の迫りあがりを意識して緊張感で胃がチクチク疼くのを征生男は冷静に受け止めて、ただ闘気の巡るのを待ちながら何かを測っていた。

一人に多勢。味方は全て逃げた。いや、初めから味方なんて居なかった。全ての生徒が飛び出した後の教室は机、椅子が雑然と並んび灰色の乾いた意識のない景色を映しだしていた。その後方の自分の机に頬杖(ほほづえ)をついて瞑想するかように時を測っていた。飛び出す間合いか、ふわっと浮き立つ覚悟の捕まえどころか、何かドシッと腹の底に居座る不動の覇気の位置を測って時を刻んでいた。長く感じたのは五体に走る緊張と鋭利な闘争心の振幅で、実は数分の短い時間だったのだろう。
 前かがみになって緩んだスニーカーの紐をギュッと締めなおした。立ち上がりガクランを脱いで机の上に置いた。カッターシャツの上のボタンを一つを外し、腕まくりをした。

窓からの陽射しが教室の壁を斜めに仕切り明暗をクッキリ浮かびあがらせ、人気のない室内でたった一人きり闘いの序曲を奏でているような。深く息を吸い吐き、胴振るいをして、肩を回して筋肉を解した。 


「おうっ出てきよった。アイツや。あれが嶋田や」
「袋叩きや」「殺せ殺せ」「イテまえ」
 何十人と思ったのがざっと二百人か。辺りを埋め尽くすような群れは全て二年生。
「お前か、嶋田は」

 晩秋の陽光は正午近くともなれば強く射しそれを真上に浴び額に僅かな汗の粒を浮かび上がらせ目の窪みのくっきりした影は何度か見た番長と呼ばれる二年生のリーダー。このグループは三年生も恐れて敬遠していた。背丈は征生男と同じ位で頭髪をリーゼントで固めガクランの前は開けっ放し。顎を突き出し反り返っている。
「ま、こっちへ来んかい」

 平屋の校舎からかなり離れた校庭の中央に有無を言わさず連行された。群が嶋田を取巻いて移動する。

拡散した陽光が強い光を広げる中で群れの罵声が交差して渦を巻き、その場の空気を震撼させる。幾つもの小さな群れが遠巻きに屯(たむろ)していた。事態の推移を見ているのは三年生か、あるいは同年の一年生か。言えるのは、学内で一番恐れられている二年生の凶暴な集団に誰もが触れたくない。それでも事の推移は見届けたい好奇心いっぱいの野次馬の眼差しを向けていた。


「嶋田、北村が二年生にやられてんねん」
 誰かの注進が教室の開け放された窓の向こうで炸裂した。征生男の体は反射的に席を蹴ってそのまま窓を飛び越え「こっちやっ」と促す仲間の後を追った。真新しい平屋建ての校舎。先導する仲間はその裏手に曲がる、殆ど同時に征生男も曲がる。

校舎と裏の塀の幅三メートル程の路地、日陰で育ちの悪い低いひ弱な雑草が斑に地面を這う上で頭を抱え、くの字に体を曲げて横倒しになっている北村が目に飛び込んだ。と同時に北村を取り囲み足蹴りにいたぶっている三人も視野に収めた。

 傍らに壊れたベンチ。征生男は躊躇(ためら)うことなくベンチの板を一枚剥がし斜めに構え、暴行を繰り返す三人の二年生に「おーりゃあー」喊声をあげ突進。一番手前の背を向けている奴の背中に板を上段から叩き込んだ。
「痛い!」弓なりに仰け反る。

透かさず横に構え右の一人の胸元へ板を水平に打ち込んだ。勢い余って板は掌から抜けてすっ飛んでいった。「うぐっ」と相手は胸を抱えしゃがみこんだ。後一人は虚をつかれ征生男を振り返る。

他の二人の目線は恐怖で泳いでいる。最初にしゃがみこんだ奴が、やおら立ち上がるや否や踵(きびす)を返してダッシュして逃げ去る。呆気にとられ棒立ちの残り一人の前へ飛び込む。顔面を右手の拳が横様にぶっ飛ばした。よろけて姿勢を崩したところを髪を鷲掴んだ。力を込めてぐっと持ち上げ、更に力を込めてそのまま膝頭に叩き下ろした。相手は鼻を強打して鮮血が飛び散った。再度髪を持ち上げ顔面に拳の一撃。蹴り倒した。ドタッと倒れた。倒れた奴はあらん限りの力を振り絞るかのようにそのまま這いずって亀のように必死で逃げ去っていった。

まだ倒れたままの北村に駆け寄った。

「どやっ、大丈夫か」
「うわぁっ、やっぱ、嶋田、来てくれたんや」
 それは一時間目が終わった時の出来事。

 微風が頬を撫でていく。温かい乾いた風。
 熱っぽいうねるようなざわつきで群れの中に取り囲まれている。連行されながらも、じわじわと校庭の塀の方へ逆に誘動していった。塀は一メートルほどの低いコンクリート作り。いざと言う時は飛び越えて逃げられる。そして、後ろからの攻撃はない。そこで群れは止まった。罵声は止まない。

カッと目を見開き鋭い眼光で睨みつけながら胸を反らしたリーダーがつっと征生男の前に立ち塞がる。
「ワレー、さっきはよう俺の子分を可愛がってくれたな。ええ根性しとるやんけ。その根性もっかい見せたれや」

絶対に逃がさんとばかりに威圧をかけてくるのを、征生男は唇を歪め不適な笑いを浮かべて受け止めた。
「おおっ。なんぼでも見せたるで。どいつからやお前か」
 どうなろうとここまで来たらやるのは一つ。このリーダーだけはイテこましたる。巨大な群れの敵。一瞬諦念が白光して、死ぬかも、脳裏をよぎる。
「何や口だけは達者みたいやな。今からその口を利けんようさらすど」

「それはこっちの科白(せりふ)じゃい。お前等二年生や。一年のオレ一人に一人でよう来んのかい」
「偉そうにぬかしやがって、オレがイテもうたるわい」
「おおっ結構やんけ」
「このガキが!粋がってもオレの後も次々行くんやど」
「おおっ、来んかい」

つと一歩前に出る。居合い抜きで使うすり足で攻撃的で体制は崩れない。闘志が猛り掌に冷気が澱み冷たい汗を滲ませていた。相手は歩調を合わして一歩引く。思考の全てが闘気に傾き獣じみた凶暴な猛りで相手を冷酷に見据えていた。更に一歩。相手も更に一歩引く。

勝った。征生男は確信した。
「いくど、ワレーッ」

ツッツと出た。踏ん反りかえって両腕を腰に当てていたのが今や両手は力なく下がり隙(すき)だらけの相手。やや腰を落とし上目で相手を見据える征生男には、相手の懐に飛び込む勢いで腹に膝蹴りを叩き込む、次の瞬間髪の毛を鷲掴み顔面を膝に叩き落す得意の攻撃が意図も簡単に見えていた。
「まぁ、ちょっと話ししようや」

相手の腰は引けている。泳ぎ腰に両足が浮き立っていた。険しい表情を辛うじて維持しながらも征生男の闘気に圧倒され、突如生まれた恐怖を精一杯の虚勢で装っている。

勝った。間違いなく勝った。
「じゃかましいわい。何の話じゃい。いくどワレーッ」
「ええやんけ、ま、は、話し、しようや。なっ」
 群の気配にわずかな変化が生じた。邪気を発散させていたリーダーが後退するに合わせて前面の二年生達もきょろきょろと他を伺いながらその輪がじわっと緩み既に戦意が失せていた。ただ、状況が見えない後方からは「殺せ」「殺せ」の罵声が後を絶たない。
「子分を可愛がったから覚悟せぇ?殺したる?イテもうたる?ほんで何の話しがあるんじゃい。やるしかないやろ。男なら勝負せんかい」征生男は意思的に声を一段と張り上げ響かせた。
 ドッと前に出た。よろよろと下がる二年生のリーダー。
 と、その時。
 後方でどよめきが起こり群が散る。群を左右に割って突進してくる一団。足音も粗く数人の集団は真っ直ぐ征生男を目指して駆けてくる。コブシを握り締め身構え不動の征生男にその集団は取り囲んだ。ウソのようにあの群が一人も居なくなかった。
「何しとんねん。嶋田。ま、とに角職員室まで来い」
 守るとも連行するとも受け止められるように、教師の集団は征生男を職員室へ。


 ペンキ屋の仕事はキツイ。

ほとんどが野外の仕事だけに暑さ寒さに晒され余分な体力が要求される。跳ね返る塗料で作業服はペンキだらけになる。鉄骨の錆止め塗装は建築物の鉄骨を組み上げた最後の仕事。殆んどが高所の作業で危険と隣り合わせだが、回数を積む内に慣れて恐怖も遠のいていた。叔父のやる塗装屋に征生男は時折バイトにいった。キツイ仕事だけに高校生としては高額の収入になった。それに仲良しの従兄弟で同年の勝之(かつゆき)と一緒に働けるのが何より楽しかった。 勝之は征生男と私立桃山高等付属中学校に入学した。兄弟以上のつながりで二人はいつもつるんでいた。
 大阪の大正区。工場と煤煙に煙る下町。
 貧困と差別と如何わしさが、腐った魚の腸のようにむせる下町。

下町の路地を入ると、古びたどう見ても如何わしい一軒の小さな旅館があった。飛び込むように入って行き、薄暗く踏むと軋(きし)む狭い階段を駆け上がった。廊下も薄暗く薄汚い。征生男は目指した部屋の襖(ふすま)を思い切りをパッと引いた。裸電球の淡い灯りの下、布団を数枚敷き詰めた上に一人の少女を囲んで数人の少年。皆、征生男と同年齢。勝之もその中に居た。タバコの臭いに汗と男女の精液の臭いがムッと鼻をつく。少女はほぼ全裸。少年の半数も全裸に近い。性遊戯の濁った絵巻。
「カッちゃん、何しとんねん。帰ろっ」

征生男の大声が周りを圧した。
 少女の父親が、勝之の父で塗装屋の叔父の所へ娘が少年たちの慰め者になっていると訴えてきた。居合わせた征生男は飛び出し一人旅館に向かった。それは学校からの帰りで、征生男の家と隣接する叔父の塗装屋を覘いた時のことだった。ヤバイッ、征生男の判断も行動も早かった。塗装屋を飛び出した。

オレンジ色に輝き大きく膨らんだ夕陽が、正に沈もうしている方に向かって駆けた。ダッシュする身体に風が脇に流れる。酒屋を横切り、散髪屋の前を駆け抜け、駄菓子屋の角を曲がり、二つ目の横丁を入って直ぐの旅館。
 不意を突かれ狼狽も露わに慌ててズボンを履き、服をまとい、勝之は征生男の後に従った。
「お前等も直ぐ帰れ。警察が来るど」

征生男は残った少年達への一喝を忘れなかった。廊下に飛び出し、手すりを支えに階段を数段ずつ飛び降りて旅館を出た。来た方角とは逆に早足で歩く。低いひさしの民家が連なる路地を抜け、市電の通る大通りに出た。そこで、初めて歩調を緩め征生男は勝之と向き合った。
「アホすんなや、ヤバイやんけ」
「ゴメンな征生男ちゃん。そやけどな、あの娘が俺らを誘てんで」
「そらぁそうかも知らへんけど、あそこのオヤジなカッちゃんとこに泣いて来よったで。ほんで、なんやねん、一人の女を何人もでやるのん、オレは許されへん。そんなアホな連中の中に入るな」
「うん、分かったからもう怒るなよ」
 一緒に中学校へ行ったが、いわゆる素行の悪さと成績の悪さと、それに一番は大阪でも名門の私立桃山学院高等学校付属中学校の費用は、当時の勝之の家の経済では大変で、三年生に上がることなく地元の市立中学校に転校せざるを得なかった。
 この中学校が名だたる不良中学校。それは勝之にとっては水を得た魚のようなものだったが、学校に勝之が居なくなったという事は征生男にとっては半身をもぎ取られたような寂しさになった。その分、外での結びつきは深く堅く二人はいつも連れ添った。
「なっ。ナンバへ行こうか今夜」勝之が言う。
「う~ん。そうやな」乗り気でもない征生男。
 ナンバに出たところで少年のこと、ただウロウロするだけで、何てことはない。征生男は学校の仲間と心斎橋筋や戎橋筋に道頓堀でナンパしたり、玉突き屋に入り浸ったり、三本立ての映画館で遊んだり、喫茶店で仲間と屯
(たむろ)したりと、学校が終わっても真っすぐ家に帰ることが少なかった。勝之はそんな征生男の行動パターンに相乗りしたかった。二人で心斎橋、道頓堀をブラつきながら
「オレな今日、二年生をやってもうてん」
「えっ、二年言うたらアイツ等やろう。三年のボクシング部もビビッてたやん。どないしてやってん」
 事の顛末を勝之に淡々と話す征生男。
「ホンマかいな。カッコええやん。ほんで職員室に連れてかれてどうなったん」
「セン公等な、オレに色々聞くねん。そやけどな、上級生がわんさと来ててやで、オレはたった一人やん。な。突然やし、オレかってビビッたり興奮してたやん。結局ケンカばっかりすなよ。それしか言われへんやん。それにしてもな、腹が立つ。何でオレ一人にぐちゃぐちゃぬかすんかな、アイツ等」
「征生男ちゃん。前から言うてるやろう。お前な、目立つねん。二年も狙ろうてきたやろうけど、次はセン公等はお前狙ろうてくるで。大学が出来てカネが要るやん。で、なんやねん、今まで十二クラスやったのが二六クラスにお前等から増やしたやろ。あれってカネが欲しいだけやんけ。アホの俺でも見え見えやん」
「そやな。オレ等が高校に入ったら二年や三年の倍以上の人数やもんな。ほんでいっぱい変な奴が入って来よったもんな。他の学校ダブったり追い出されたり、三つも歳上のヤツが同級生やで」
「そやからな、学校はカネが入ったら要らんヤツを追い出そうとしてんねん」
「ほな、何かい、オレ、要らんヤツ」
「多分な。悪ガキは処分の対象やで」
「何ぬかしとんねんそんなんお前に言われとうないわ。悪ガキはカッちゃんやんけ。だいたいな、さっきみたいなぶっさいくなことをしたヤツが言うことか」

「もう、それはエエやん。ちゃうねんな。俺なんかがワルをやったってそれだけやろ。そやけど征生男ちゃんはちゃうねん。ワルでなかってもな、お前は皆を従わせんねん。皆、お前についてくるんやど。あの二年生らやっつけたら学校では明日から怖いもんなしや。番長やんけ。ただでさえ目立つお前が番長になったら二年生の次に学校が今度はお前をねろうてくるど」

「そんな面倒臭いのんどうでもエエわ。おっ、それより此処でコーヒーでも飲もか」

二人の住む大正区の大運橋から市電で戎橋まで来て、戎橋筋商店街をブラブラと歩いた。一つ目の辻を左に曲がると喫茶コニーがあった。そこは学校仲間との溜まり場。今、勝之と居るのに誰とも会いたくない。コニーの通りを二筋越えて左に曲がった。
 モカと言う喫茶店があった。入るのは初めてだ。コニーではいつも地下の暗い処だが、この時は二階にあがった。店全体はマホガニー色で統一していて、如何にもコーヒーを味わわせる落ち着いた雰囲気の店。流れてくる音楽はクラシック。仲間たちと行くコニーの黒で統一した薄暗い雰囲気とは対照的な明るさと、高級な品の良さを出していた。席に着いた。早速ウエイトレスがお絞りと水を持って近づいてくる。ウエイトレスの制服はベージュ色のブラウスとタイトスカートで膝まで隠しているのが健康的な淑やかさを見せていた。

長い髪を頭の後ろの上に軽く丸めてそのままたらしたポニーテールのウエイトレスが、細い長い脚をサッサと軽快に運びながら近づいてきた。ハイヒールの音がコツコツと小気味良く響いて二人は思わずその足元に視線を移し見とれていた。何が何でも興味があるのは女の顔にスタイル。二人は近づくウエイトレスを同時に観察しだした。  

二人の前にきたウエイトレスが「いらっしゃいませ」を全部言い切らないで「いらっ」まで口にして征生男の目と合った。

一瞬どちらの目も更に見開いて静止。

「アッ」と声が出たのはどちらか、いや同時に。

 

 路面電車の終電は終わっていた。道路の両脇には一定の間隔で電柱に傘を被せた裸電球が闇の中でぼやけて頼りなく灯っている。ほぼ車は通らない人の姿も消えて夜が静かに降りている。路面電車のレールが電灯の光を淡く反射させ闇に浮かぶ。二人は二本のレールのそれぞれに両手を広げバランスを保ち一歩一歩歩いていく。

「征生男ちゃん、惚れたんかい」  

「よう分かれへん。そやけどホンマ綺麗になってたなぁ」  

「そや、メチャ美人やん」

「小さい頃な、あの妹とな、何ちゅうかママゴトなんかようやってたんや」

「へぇ、確かマイちゃんとか言うてたな。うん、覚えてる」

「そうそうマイちゃんな。オレよか一ッコ下やった。その頃な、あの照美ちゃんなんか二つ上のお姉ちゃんやったからな、あんまり話したことはなかったけど、綺麗なっとたな。う~ん。ビックリしたな」

「年上でも。好きになったんやろう。なかなかな、エエ感じやったで。お前やったらいけるで、付き合えや」

勝之は楽しく煽てる。


「何でお前だけが連れっ子みたいにされるんかな」

狭い廊下の突き当たり、便所の前の暗がりへ手を引っ張られ忍ぶように連れて行かれる。母はしゃがみ込んでそっと征生男を抱きしめよく泣いていた。
 母がどうして自分を抱きしめて泣くのか、幼い征生男には理解できなかった。ただ、兄や妹たちに比べると父の征信
(ゆきのぶ)からの愛は皆無と言うよりもあからさまに疎んじられていたようであった。それを征生男は当り前と普通に受け止めて辛いとも哀しいとも思わなかった。それよりも訳は分からないが時々母が泣きながら自分を抱きしめてくれる、その甘味さが兄弟の誰にもない自分だけのもと嬉しかった。
 病院にもよく連れて行かれた病弱な幼年期、母に手を引かれ病院や薬局へ連れて行ってもらうのが嬉しかった。手を引く掌を時折離して母は征生男の頭を撫でた。嬉しかった。病院や薬局に行くのは母と二人きりになる唯一の機会で幼い心を満たしていた。病弱な幼年期から小学校に上がるとイジメの中に晒され心の安堵は女の子達とままごとに高じるコトだった。貧しい作りの民家がせまる細い路地の片隅でそこだけが唯一の自由で疎外のない世界。
一つしたのマイちゃんとは一番の仲良しだった。マイちゃんのお姉ちゃんが照美ちゃん。二つ年上。時折顔を出して優しく微笑んでいた。中学校を学区外の私学に通いだした征生男には地元の関係も段々薄くなっていき、マイちゃんのことも消えていた。
 十数年ぶり「あっゆきおちゃんッ」「あっ、あけみちゃんッ」
 征生男はポーッと照美を見るしかなかった。綺麗、美しい。
 路面電車のレールの上を綱渡りのように歩く勝之は相変わらず征生男を茶化し煽る。
「照美ちゃんな。十数年ぶりの再会。何や、あの時の征生男ちゃんの顔。腑抜けやで。一目惚れやで。魂抜かれたんか。エエやん好きになったら付き合い申し込んだらエエねん。そやけどちょっとムカツクな、二人ともあの時俺のことなんか全然無視やったで。ま、エエか」
 

「アイツな何か三回ダブって来たから俺等よりは三つ上やで。ほんでも、やっぱり行くか。」

首を掲げて悲壮感を漂わせた北村が言う。
「挑戦されたら行くしかないやろ」
「そやけど、向こうは多分何人か連れて来るで。今日は瀬田も居れへんし嶋田は一人やろ」
「そやな一人やな。第一お前なんか当てにでけへんもんな」
「そんなん言うなや。オレ、やっぱりケンカなんかアカンねん」
「ワハハ、分かってるし。気にすんな」
 二年生の挑戦を気迫だけで砕き番長格になったら征生男には次々と新たな敵が現れてきた。他校の番長や、今度は同じ一年生の中からも。荒ぶる二年生を制覇したからには、既に一年生は制覇したと思っていたが同級の一年生には雑多な怪しげなのが入ってきていた。二年を制覇した征生男を超えると番長の道があると次々挑んできた。北村の組に三年ダブって入って来た梅木と言うのが居た、オヤジがヤクザの組長だとか。そいつが桃ケ池に来いと北村を通して挑戦状を送ってきた。

 重い黒い曇が低く空を覆い、今にも雨が落ちてきそうで冷たい強い風が身体を煽
(あお)りながら通り抜けていく。落ちた枯葉が旋風に巻かれて宙に飛んでいく。
 冷気が背中を覚醒させる。

土色に濁った桃ケ池が憂鬱に浮かび風を受けて細波を立てていた。名物の亀は姿を消していた。リーゼントの頭髪は蝋状チックで固められ風に髪が煽られることもなく、ガクランの上はトレンチコート。襟を立て両手はポケットに突っ込み、顎を引き背筋を伸ばしやや大股で大地を踏むようにゆっくり真っ直ぐ歩いている。
 嶋田、負けたらアカンでの言葉はいっぱい聞いた。
 同伴する者はない。独り歩く。
 風が舞う。風が走る。雲の流れは速く重い空。
 大きいバイクの前に五人か六人か。
 一人は木刀のようなもの。風が視界を暈
(ぼ)かす。
 前に進む一歩がやけに重い。指の尖端がツーンと冷たい。
 リーダーの梅木の顔は分かる。
 黒い皮ジャンバー、同じく黒い皮のズボンに身を固めた梅木はバイクに跨り腕組みしていた。リーゼントの頭髪に黒いサングラス。後ろの数人は他校の者と分かった。

 殺気、ヤル気が突出している。まともにぶつかると、多勢に一人、勝ち目はない。構うことなく梅木の前につっと立ち止まる。体はやや斜め、歩幅は肩幅より少し開いて両手はポケットから抜いて下腹の外側で柔軟に停止させた。
「梅木ってお前か」
「そや、えらい売り出してんやん。挨拶しようと思ってな」
「ほう、どんな挨拶やねん。何でも受けたるで。ほんで何かい挨拶に一人でよう来んかったんか」
「何や、お前、一人かい」
「こらっ、誰にお前ってぬかしとんじゃい。一人でよう来んヤツがオレにお前呼ばわりさらすな。ほんで何かい、一人ずつ来るんかい。全部いっぺんに来るんかい。どっちでもエエどぅ。とに角お前からイテもうたるわいッ」
 木刀の奴がそうっと上段に構えた。他は直ぐにでも飛び掛る構え。リーダーの梅木はバイクから降り両手を下げ仁王立ちに。
 風。旋風が嘲るように体を刺して通り抜けていく。
 つっと、前に出る。梅木は腕組みをした。
「何やお前、ヤル気ないんかい」
「やっぱりや、エエ根性してるやん。嶋田。俺等と組めへんか」
「何やと、ヤル言うから来たんじゃい。何カッコつけとんねん。映画の見すぎちゃうか。ヤルんかヤレへんのかどっちかや」
 木刀を上段に構えた奴はただ木刀を上げただけ、子供や。皆粋がってるが突っ込んで行けば容易くすり貫けていける。すり抜けた瞬間に反転して木刀をもぎ取り打ち据える、多分、その時点で何人かは逃げる。征生男の闘気は高ぶり尖り切っていた。
「一人で出て来れんようなヤツとは組まれへんな。梅木、お前、オヤジがヤクザや言うて傘に着んなよ。カッコだけでは男になられへんで」
「そんな、意気込まんとけよ。しょうむない奴やったら皆でイテこましたろ、根性ある奴やったら仲間にしようと相談して来てんやん。組もうや」
「アホ臭い。オンドリャ何様のつもりや。やる気がないんやったら帰るど。偉そうに組むなんて言う柄かい。頭下げてオレの下に入って来るんやったら考えんでもないな。忘れんなボケッ」 


「ハハハハッハ。カッちゃんやっぱり負けたな」
「しゃないやんけ。征生男ちゃんは毎日やってるねんやろう。俺なんか征生男ちゃんとしかしてないんやで。負けるのん当り前や」
「まあな、玉突きも場数踏んで何ぼのもんやな。さてっとルニーに行こか」
 大正区の通称『大運橋』。商店街を抜け市電の大通りを越えるとパチンコ屋。映画館。スマートボール。飲み屋。バーなどが密集している。パチンコ屋の上が玉突屋。征生男と勝之は既に常連になっていた。玉突屋を出て商店街を右に折れると直ぐに映画館。映画館の脇にスナック「ルニー」があった。カウンターだけの細長い店で八人も入れば満席。マスターの健ちゃんに征生男は可愛がられていた。健ちゃんの妹、早苗ちゃんが征生男の狙いだった。
 早苗ちゃんは征生男より多分三つ四つ上のお姉さん。細身で二重瞼の瞳が黒く澄んで小さな顔に笑窪が印象的、輪郭の緩やかさに幽かな色香が浮かび年下の征生男には吸い込まれるような優しさがあった。
「おっ、征生男。又来たんかい。勝之も久しぶりやんけ」
「征生男。今夜は何に挑戦すんのん。キツーイのん出したろか」
「そんなまだガキやし、キューバーでエエです」
 早苗の笑顔にポーとしながら勝之と席についた。
「あのな、お前等ガキでも入れたってるねん。今日はな俺の出したもん素直に飲め。言うとくけど半端ちゃうど。ぶっ倒れるかも知れへんけど、やってみるか」
 早苗がニヤニヤ笑っている。目は「行け」と言うてる。男は引かれへん。好きな女の前ではカッコつけな。
「おオーおっ。いったるで。健ちゃんの言うのん出さんかい」

「ほんで梅木ちゅうのはどないしてん」

桃ケ池の顛末を肩を怒らせ目を思い切り見開いて聞いていた勝之は次を急かせてきた。
「どないもせえへん。ボゥッとおれの後姿見てたんちゃうか。ただな次の日に北村が言うて来たのは、それまで北村って呼び捨てにしてたのが北村君に変わったってアイツ喜んでたな。ホンマにアホ臭い話や。そやけどな、カッちゃん。オレな、最近、真剣に考えてんねんな。高校に入ってケンカばっかりやん。中学の時は勉強せんでも首席に近かったやろう。高校に入ったら後ろから数えた方が早い成績や。このままやったらアカンで」
「まあな、勉強のこと言われても俺、アカンし。そんなに勉強せなアカンかいな」

勝之は中学校を出てからは夜間高校に行ったものの続かず、父親の塗装業に入り毎日ペンキを塗っていた。
「うん。ホンマ真剣に考えるねん。ケンカして番長や煽
(おだ)てられてほんでエエんかいな。もう直ぐ二年生やろう。マジで勉強せなアカンなぁって」
「う~ん、お前がそう考えるんやったらそうやと思う。う~ん、、アカン、俺しょうむないこと考えてるわ」

「しょうむないって何やねん」

「いやいや、ええねん。ホンマしょうむないから」

「変なやっちゃな。言えや」

「笑ろたらあかんど。征生男ちゃんが勉強に打ち込むちゅうことはやな、俺とこうしてつるむ時間が減るちゅうことやん。ほな、な、おもろないし」

「カッちゃんはホンマに征生男が好きやねんな。そやけど征生男がそう考えるようになったのは私もエエと思うで。カッちゃんも辛抱して協力したらなアカンし」

 早苗が年上らしい優しい笑顔で口を挟んできた。

 またオレは自分の事しか考えてなかったのかな。カッちゃんは自分にとってお袋と並ぶ位大事なヤツや。そのカッちゃんの気持ちを全然考えんと勝手なことを考えてんのかな‥‥征生男の胸中で妙に絡む複雑な思いが生まれてきた。

「何をちまちま言うとんねん。男はアッサリ行こう。勉強でも何でもやるときは気張るんや。よーしっ征生男。今日はこれ飲んでみいや。アブサンちゅうねん」

健ちゃんが出す。
「征生男。無理やったら止めときや。ホンマきついねんから」
 早苗に言われて征生男は絶対に男を見せようと決心した。
「分かった。一気にやったるで」
「征生男、一気はアカン。チビチビ飲むもんやし」

早苗は真顔になった。
 ショットグラスに入れられた琥珀色の液体を手にした。
 それがどんなものか、男は、男は酒も強くあって男と、征生男は一気にあおった。ノドにキーンと来た。それ以上何もない。ようーし来んかいと得体の知れない闘志。
「健ちゃん。もう一杯や」
「ホンマかお前。ほんだら出すで」
「アカン。止めとき」

早苗の真剣な眼差しが征生男を扇情した。
「健ちゃん。行こか。出してや」

 

「あんた、あの日はさんざんやったな。重たかったで」
 カウンターの隅に座った征生男と勝之。カウンターの中央にに座っていた女が征生男の横に移動して声をかけた。女は小柄ながら程よい肉付きでブラウスの胸元を大きく開けてこれ見ようがしに白く弾けた膨らみと谷間を覗かせていた。官能を否が応にもそそらせる。
「あっ、この間はどうも」

勝之がペコリと頭を下げた。
「何のこっちゃ」

征生男には合点がいかない。
「ははは、征生男、やっぱり何も覚えてないねん」
「あのな、俺とこのお姉さんとで担いで帰ってんやど」

 そう言えば、気がつくと自分の部屋のベッド。横に洗面器が置かれていた。中は新聞紙が拡げられていて別状はなかった。
 あれから数日、勝之とも会っていなかった。とに角ルニーで待ち合わせた。
「征生男、三杯やったんやで。アブサン三杯一気飲みしたらそらアカンわ。そのままヒックリ返って寝てもうてん」
「私がその時来てな。カッちゃんが困ってるやん。あんたなかなかエエ男やし抱き起こしてやってんで。カッちゃんと二人で両肩担いでぬんたの家まで送ってんやんか。途中な何回もゲェーゲェーやってたけど何も出てけえへんかったな」
「??」
「そやけど征生男の寝顔も可愛かった」
「やめてぇや、早苗ちゃん。オレ、やっぱりそんなブッサイクなことしたんかいな」
「征生男、男は何回か酒飲んでぶっ倒れるもんや。それでお前もちょっとは大人になったちゅう訳や。後、何回かそんな経験するんやな」
 健ちゃんがニコニコする。
「な、今夜ずっと遊ぼうか。私の妹も直ぐ来るし」
「遊ぼう遊ぼう。妹さんも来ますのん」

征生男を掻き分け勝之が身を乗り出して来た。
「遊ぶって、何やねん」
「あんたな、見た時からエエ男やん。私、好きになったわ。ユキオちゃんやったな、ここで飲んで、あんたの家行って皆で遊ぼう」
「オレのとこでぇ?」
「妹と四人で朝まで遊ぼう」
「ミヨちゃん、征生男はまだ高校生やで。一年やで。そんな誘惑したらアカン」

早苗の目がキッと射してきた。
「ほーう、なかなかオモロイ展開になってきたな。お前も男やミヨ姉さんに色々教えてもらえ。エエこっちゃ」
「何いうてんのん兄ちゃん。征生男はそんなんちゃうで」
「エエねん。男はな、いーっぱい経験していかなアカンねん」 

健ちゃんの「男は」に征生男は反応した。早苗の前で他の女と遊ぶなんて考えられなかった。しかし、男になるのなら健ちゃんに後ろは見せられない。

 三階建ての征生男の家は隣に建つアパートの屋根裏とつながっていた。四人で家の玄関からははばかれ寝静まったアパートの入口から忍び足で侵入した。勝之が先にミヨが続き歌子は征生男の腕に絡まって征生男と歩調を合わせていた。ほぼロフトに近い天井の低い三階は二階の客間の真上にあって誰も使わず時折勝之と格闘もどきをしてふざけあう場でもあった。

幅一メートル程のベッドが征生男専用に置かれていた。灯りを消したまま窓からの夜陰にぼやけた淡い明りが如何にも禁断の遊びを誘いかけミヨと歌子を妖艶にさせる。ミヨの予定では自分は征生男を相手にして歌子を勝之にあてがう積もりだったが、歌子は征生男を見た瞬間から征生男の腕に絡みつき離れようとしなかった。どうやら本当の姉妹ではないらしい。
 ミヨはいきり立った。歌子から征生男を奪い返そうと負けていなかった。ミヨは征生男の空いている片方の腕を抱え込んで征生男を強引に狭いベットに倒しこんだ。

征生男はミヨと歌子の狭間になり拘束されたように身動きを制限され二人の女は素早く全裸になるとその全てを征生男に密着させながら二人で征生男の衣服を意図も簡単に剥ぎ取り全裸にさせた。女の手が征生男の全身を這い回り、交互に唇を求めてくる。征生男の顔面は二人の女の唾液でべたつく。充血してそそり立つ征生男の男自身を口に含み巧みに舌を動かす。

ミヨと歌子は征生男に経験を競うように計り知れない性戯の数々を展開し、時の流れを熱くどろどろと溶解させていった。征生男は張り裂けそうな快感が全身を電流となって走り忘我の底で官能の虜にされるがままのたうち回った。
「オレはどうなんねん」

隣室の勝之の切ない声も征生男にはどうでも良かった。
「クソーッ征生男のボケー、だいたい最初は四人で遊ぶ言うてここへ来たんちゃうんかい、何で俺一人が相手にされへんねん」

女二人に挟まれた征生男の切ない呻き声を無念にも聞きながら勝之は虚しく自慰に耽った。

勝之は近所の不良仲間の少女達とこれまでも性戯の経験は積んでいたが、勝之の知る限りでは征生男は初めての体験と確信した。年上の女二人に征生男は魂を抜かれしまっているのだ。


 健ちゃんが出かけていて早苗一人で店をやっていた。
 まだ、客は誰も来ていない。

暗い店内。早苗の目がキラッと冷たく光った。征生男に投げかけた視線には、侮蔑で鋭く凍りきっていた。視線はそのまま勝之に飛び「カッちゃん何すんのん」
「早苗ちゃん聞いてぇや。俺な、征生男がこんな薄情な奴とは思えへんかったわ。一人でなあの女二人を独占してな、俺、隣の部屋で一人きりやってんで」
「そんなこと、ここで言うなや」
「所詮、征生男も普通の助べえな男や。私、そんな大キライや」
「そやっ、オレもコイツ大嫌いや。いつもオレに説教するくせに」 冷たい視線の早苗。吐き捨てる勝之。居たたまらない征生男。
 ドアがバーンと開いた。
「やっぱり居ったか。征生男、ちょっと顔貸せや」
 兄と同級の近所では不良のリーダー、高野が入ってきて獰猛な眼光を向けたまま近づくや否やその巨体で征生男の腕をとり有無を言わさず奥のトイレに引っ張っていった。征生男を先にトイレに押しやり後ろ手でドアを閉めた。裸電球が頼りなく灯
(とも)り男二人立てば狭い空間、高野は征生男の襟首を鷲掴み、体を密着させ鬼面を露に

「オンドレ、俺の女と寝さらしたな」
「高野さんの女って?」
「アホンダラ。しらばっくれるなボケッ。歌子が言うて来たんじゃい。ミヨはな、今、シバキ倒してきた。次はオンドレじゃい。半殺しにしてもうたろか。えっ。ガキのくせさらしやがっていっちょ前なことやってくれたな。この落とし前どうつけさらすんじゃい。ま、そやけど知らん間でもないし、俺も情けかけたるさかい二三日待ったるわい。エエか、しっかり考えんとどうなるか知らんど」
 パチン。高野の平手が征生男の頬に飛んだ。
 淡い明かりの狭い空間に疑念と屈辱が弾けた。

 高野はそのままバーンとドアを開け踵を返してトイレから出て店の外に姿を消した。
「どないしてん征生男ちゃん。顔、真っ青やんけ。」
「早苗ちゃん、ミヨさんはアイツの女か?」
「えっ、アホな。ひつこうされてミヨちゃん嫌がってるだけや」

 闇に浮かぶ半月が工場の煙突を照らし、吐き出され棚引く煙に淡い蒼い光を当てていた。 セメント工場専用のグラウンドも半月の明かりの下で曖昧に蒼白く広がり寒気が清冽な空気を呼び込んでいた。
 バックネットの裏。月明かりに照らされてブランコと鉄棒が冷たく置き忘れられたかのように映る。乾いた冷たい風が絶え間なく通り抜けていく。怒りがヒリヒリ背中を刺し、それでも隠せない怯えが胸を圧迫してくる。
「先輩もクソもあれへん。決着つけたんねん。オレがここに居ると高野に言うて来てくれ」
「大丈夫か征生男。二人でやったら何とかなるやろう」
「アカン。カッちゃんは見とくか消えるかせえ。一人でやるねん」
 夜目にも目立つ白いマフラーが首から風になびかせながら背広をを羽織るように被り、両手をズボンに突っ込んだ巨漢の高野が月明かりに照らされてニタニタと憎々しい笑みを浮かべて近づいて来る。征生男は月明かりを背にした。
「征生男。腹は決まったんか。ほんで、どんな落とし前やねん」
「女の尻を追いかけ振られた腹いせを持ってきやがったな」
「何いっ。ワレーッ。誰にぬかしとんじゃい。殺されたいんか」
「殺せるか。サシで勝負やど」
「お前、アホちゃうか。お前みたいなガキに俺をやられると思とんかいボケが。万が一俺をやっても俺には兄貴も居るしダチ公もいっぱいや。この辺で住めへんようになるど」
「ほー、兄貴やダチ公か。サシやったら何もでけへんのか」
「何ぬかしとんねん。お前はガキやないけ。ガキとサシで出来るかボケ。何やったら皆呼んで袋叩きにしてまうど」
「そんなヒマはないな。今すぐやってもうたるんじゃい。グダグダぬかすな。行くどっ」
「ちょっと待て。ちょっと待て。そんなに腹立つんやったら、ま、今回だけは許しとったるわ。そやから、もうエエ事にしたるわ」
 三歩程の距離。征生男は地を蹴った。初めから計算していた。月明かりに遮られ高野からは征生男の一瞬の動きがつかめない。
 ドスッと鈍い音と共に高野の巨体が後ろに仰け反った。征生男の水平に蹴りだした足が高野の胸板に飛び込んだ。その衝撃で高野の体はそのまま仰向けに後ろへのけぞりドンと尻餅をついた。
「立てっ。男やったら勝負さらせっ」

押し殺した征生男の低い声が薄い闇をを圧する。高野の目は大きく丸く開かれ信じがたいような表情の中に驚愕の色を滲ませていた。
「トイレに連れ込んでオレを脅した積もりかい。半殺しにするってぬかしたな。やってみいや。エエか、このままやったら大男の高野が三つ下のガキにやられたまま何もようでけへんかったと言いふらすど。ほんだらどっちがこの辺で住まれへんようになるかな。クソッタレーッ」

足を高く上げて、そのまま仰向けに倒れた高野の腹の上に鋭く落とした。

「ウギュッ」

 奇妙な呻きを漏らして腹を抱えこみ海老のように丸くなる高野。

「起きんかい、ボケッ。起きて勝負さらせ」

 叫んだ時は足の先端が丸くなった高野の背中にめり込んでいた。

「待て、待ってくれ。よし、起きたるさかい待ってくれ」

 右手をかざしいざりながら後ろへ逃げるように退いていく。

「おおっ、立て、立ちさらせ。キッチリ形つけんかい」

 腰をやや落とし体を斜に構えた征生男からやや距離を置いてよろよろと高野は立ち上がった。征生男はやや背を丸め、膝を落とし、瞬時に動ける体制で高野の立ち直るのを見届けた。

「よしっ、それでホンマに勝負できる。いくどぉワレーッー」

「ちょっと待ってくれ。話おうたらエエ事やんけ、そんな尖がらんでエエやんけ」

「何おぅー、話合う、そっちが半殺しにするとかぬかしやがって。何を今更話しじゃい。ちゃんちゃら可笑しいわい。行くどう」

高野は右足を引いた。前かがみになって両手を突き出し肘を締めボクシングの構えをとった。

「おおおっ、やったるやんけワレーッ。このガキーッ調子に乗りやがって足腰立たんようにいてこましたらーっ」
 征生男は両手をダラリと下げ体をやや斜めに構えなおした。

高野が動いた。右手が征生男の顔面に飛び込んできた。

 征生男の左手が垂直に挙げられ高野の拳を払いのけるのと同時に征生男の右拳が高野の顎に炸裂していた。たじたじと後ずさる高野。その鳩尾(みぞおち)に征生男の右膝が食い込んだ。

「うっ」と呻いて高野が腹を抱え前屈みになったところを、征生男は彼の頭髪を鷲掴み、ぐっと上に持ち上げた。次の瞬間、高野の顔は下へ征生男の膝頭に叩きつけられていた。崩れるようにうずくまった高野。ヒーヒーと喉を切るような擦れた呻きをもらし、両手で顔面を塞いで動きが止まった。

「何や、もう動けんのかい。そやけど、オレはとことんやったるんじゃい。ワレーッいくど」

「待ってくれ、頼むから待ってくれ。分かった。オレが悪かった。そやから待ってくれ」

「アホンダラ、何を待つねん。歳が上だけで先輩風ふかしやがって。許されへんのじゃいっ」

「オレが悪かった。そやからもうそんなに怒らんとってくれ」

寂しい風が胸の空洞を突き刺し通りぬける。ドイツもコイツもカッコばっかりで粋がって一人になったら何も出来ない。

そんな奴等を乗り越えた自分は何か。恐怖と緊張をぶつけ合いひたすら闘争の中へ五体を動かせる、闘争とはそんなものではないか。ところが恐怖と緊張を滾(たぎ)らせ突出しょうとしたその次にはポッカリ穴が開き、暗く湿った憂鬱しか残らない。こんな奴らと覇を競おうとしていた空しさ、徹底的に残虐なまでも渡り合いたかった。自分の体の骨身に、苛烈な痛みを受けてこそ闘争の証と思っていた。

哀れな高野を見ていると思いの底でスーッと虚脱感が広がり闘気がふっと消えていた。やるせなさが、いや、名状しがたい空しさが得体の知れない哀しみへと移っていった。
「高野さん。言うてもアンタは先輩や。先輩をどついただけで済ましとうない。オレにも一発どつけや。それもな思い切りな」
「そんなんもうエエって。俺そんなんでけへん」
「な、何か空しいないか。どっちにも借りは残したらアカンねん。アンタも男やったらやらんかい。それで、何も無かったことにしようや」
「そんなん言うても。もう堪忍してえや」
 高野はそのことによって新たな暴力の発生に震えを隠せないでいた。
 自分の体の一部にでも痛みを感じれば闘争の証が得られるかも。格闘の応酬の中で肉体に痛みを感じる形で覇を競い勝つこと、征生男にとっての男の証。兄の正紀に痛め続けられた今までの自分を乗り越える為にも絶対に必要だった。
「ほうか、ほんだらもっとどつくど。な、一発でも殴れ」
 巨体がうな垂れる。遥か彼方から時折車のエンジン音が風に乗って夜気の中を物憂く運んでくる。一人として人は通らない。数本の煙突が淡い闇の夜空に悄然と黒く立っている。
 スーッと胸に切ないものが染み込んでくる。
「図体がデカイだけか。粋がってオレを脅しにかかって来たのは何や、ドクサレ者のカスが。男の根性ちょっとはないんかい」
「征生男、ほな、行くで」

消沈の声。怯えの中の覚悟。
「おーっ来いや」

征生男は仁王立ちのまま足に力を入れた。
 巨漢だけあって並みの力ではなかった。思わず体がよろけそうなのを気力だけで踏ん張った。

「ふん、痛かったで。高野さん、心配せんでエエ。誰にも言えへん。終わりや。コレで貸し借りなしや」
「征生男、お前、年下やのに偉いな。ホンマにおおきにな」
 高野の目が月の光を受けてキラリと光った。
 頬に涙の航跡。


 

同胞(はらから)

 

 一週間が経った。
 谷間の清流は都会では味わえない清楚な心地を呼び起こす。
 夏なら多分、長逗留しても郷愁を呼び起こすでなく馴染んでいただろう。全身が凍えるような尋常でない寒さが襲ってくる。

多分、後一週間はかかるだろう。奈良の山奥の橋梁を塗り潰すのだ。アーチ型の吊り橋が三つ、高さ約一五メートルを上から下へ。高所は平気だが、足場に体を預けていても谷を抜ける風に体が持っていかれそうになる。そして、寒い、冷たい。手がかじかむと動きに的確さが欠け、塗料が指の間に絡みつき困難を極める。 最初の三日間はその闘いを必死でやってきた。今は一つ目のアーチを終えて二つ目の橋梁の中間辺り、風を受けるにも術を覚え身のこなしは柔軟になり手際も良くなってきた。
 兄の修平と三人の職人達で飯場生活が続く。年上の者ばかり、一日の仕事が終われば風呂に入ってメシを喰い飲むか麻雀に昂じていた。
 酒は少ししか飲めない。麻雀は分からない。分かっても四人揃った年上の中には入れてもらえない。マンガにエロ本。全部見たのを何度も眼を通す。時期が冬休みなら征生男もバイトとして一緒に来ていたはずだ。ただでさえ征生男とつるんでいたいのに二週間以上も会えない。しかもこんな山奥の寒々として殺風景な飯場で一日の仕事が終われば思わぬ孤独感に襲われて尚のこと征生男に会いたいのだ。
 征生男と居ると退屈というのがない。常に緊張感を漂わせ前を見る眼が好きだ。安心する。間違い無い。勝つというのを実感させてくれる。それがこうして離れているだけで落ち着きを失い何かにつけて頼りない自分を意識してしまう勝之であった。
 早く帰って征生男と話がしたい。征生男とつるんで夜更けの町を闊歩したり、玉突きをしたり、ルニーにも行きたい。見飽きたマンガのページを開けたまま見るでもなく漠然と征生男を思う。
 あの夜はブランコの陰で征生男と高野の全てを見た。
 夜風が身を刺して寒気の中で身じろきもせず、寒気よりも体の中を熱い血が巡り、もし、征生男が不利にでもなったら即座に加勢しようと固唾を呑んでいた。征生男が並外れて強いのは百も承知しているものの、近所でワルガキのボスの高野も辺りを威圧し恐れられていた。まさか征生男が単独で高野に挑むとは思ってもみなかった。勝之自身、征生男に言われて高野を呼び出しに行くのに恐れが先行してどれだけ勇気を奮い立たせたか。

月夜の下、巨漢の高野が禍々しく姿を見せた瞬間、勝之の全身は凍りついた。滲み出る恐れと並行して闘気が腹の底から迫り上がっていつでも飛び出す気迫で二人から目をはなさなかった。

 征生男が動いた瞬間格闘はいきなり始まった。征生男が跳ねる突出する。あっけなく倒れる高野が半月の光を受けてハッキリ見えた。飛び出して加勢しようと構えてたのが熱気を発してただ固唾を飲んで観戦するだけで終わった。

征生男の俊敏な動きが一つ一つ確実に高野を傷め短時間での一方的な勝利。征生男の勝利は自分の勝利でもある。
 近所では悪ガキのリーダーで三つも年上の大男の高野が泪を流す姿が如何にも惨めで初めは信じられなかった。それだけにあらためて征生男の凄さを認識すると誇らしさで誰彼に自慢げに話したい衝動を、征生男が「誰にも言うな」と釘を刺したのでもどかしく耐えていたが、この現場で兄の修平達と四六時中一緒にいると、修平だけには話しても差し支えないと勝手に判断して、得意に話して聞かした。
「征生男は流石にやるな。高野もなやっぱりカッコだけの奴や」
 修平と高野は同年で小学校、中学校と一緒に卒業はしたが相容れず張り合う間であった。修平は勝之の得意満面に話すのを小気味良く聞き入ったものだ。

征生男の勝利に得意になりつつも、ふと疑念が湧く。征生男は高野を何であんなにあっさり許したのか。あのまま徹底的にやってしまえばと思う。勝之の理解する征生男には一つ行動に出ると突きっ切るように呵責なところがあるのだ。だがあの夜は違う。

勝利を収めたはずの征生男が最後は高野に一発殴らせた。二人が何を言い合っていたか距離を置いた勝之のところまで細部は聞こえなかった。

高野が去った後、二人でしばらく公園のブランコに揺られながら夜風を受けていた。時折雲が行く。蒼い半月が見え隠れする。それに合わせて征生男の横顔の影も淡く映り征生男の心の陰りまで浮き沈みさせているよであった。

黙したままいつまでも夜空を見上げる征生男の陰りが痛いように伝わるようで、一方、その正体の見えないもどかしさに勝之は沈黙に耐え切れなかった。

「やっぱり、やったな征生男ちゃん。あんだけ一方的にやるなんて、ホンマ、お前って凄いわ。俺な見てて自分が高野をやっつけてるような気分になったで」

「;;」

「そやけどなぁ征生男、俺にはチョッと分かれへんねんけど。何で最後に高野に殴らしたんや‥‥考えてんねんけど、征生男ちゃんはホンマはケンカなんかしとうない‥‥逃げるのはイヤやといつも言うてるよな。弱いもん庇うだけとちごうて、何て言うかな、上から一方的に偉そうにされるのが極端に許されへんねんや。そんなんがなかったらホンマはケンカなんかしとうないんやろ。ホンマは皆が同等で付き合えたらエエと思てんのか。つまり‥‥上も下もないつき合いとちゃうか。なぁ、世の中そんなんちゃうし」

勝之が次々と投げかける言葉に征生男は応えるでもなく、ゆらりゆらりとブランコに揺られながら無表情なまま蒼い闇の夜空をただ見上げていた。話しかける自分の言葉が征生男の思いの外で浮いてしまっているようでしっくりくるものがなく、勝之も次の言葉を失い掴みどころない思いで同じように蒼い闇の空を見上げていた。

「なぁ勝っちゃん」

「うん‥‥」

「ハラカラって知ってるか」

「ハラカラ?」

「同胞と書いてハラカラって言うねん」

「うん、それが」

「オレらは従兄弟同士やん。つまり親が兄弟でそれぞれ母親が違うやん。それでもオレらは兄弟より他の誰よりも仲がええやん」

「うん、そうや。で、それが」

「同胞ってのは同じとこから生まれ育ち深い絆で結ばれた仲間以上の間やん。オレら、オカンは別々やけど正にその同胞やんけ」

「そうかぁ。そうやな。俺らはハラカラや。それは俺ら二人だけやで。征生男ちゃん、俺ら同胞やな」

 それっきり征生男はまた黙って空を見上げていた。

話している間の征生男は抑揚のない静かで低い穏やかな声だった。今思うとそれが、深い哀しみを湛えていた声であり表情であったような。闘争の勝利に酔いしれる征生男ではなかった。それが征生男なんや。とは思うものの、征生男が何故あんな無表情なのに哀しみを湛えていたのか、勝之には判然としない。ただ、漠然と思うのは、いつも覇を競いながらも征生男は決してそれを楽しんだり自慢にもせず、むしろ征生男自身をより過酷な状況へ追い込んで行っている。
 アイツは気持ちの底のどこかで絶えず哀しいものを持っている。

今に始まったことではない。子供の頃から俺と居る以外はほとんど独りみたいやった。俺が行くとふざけまくっていた。いや、俺らは常にふざけあっていた。それが俺が中学校を途中で止めた頃から征生男の中に何か別の、何やろう、いつも何か考えているような、そいつが何処か寂しいものに見えるんやな。

それでも真っすぐ前を見る眼。「エエ感じや、アイツのそんなとこが好きや」そう思うと早くこの現場を終えて大阪に帰り征生男とまたつるんで闊歩したい。俺とあいつはハラカラやもんな。

 

 

抵抗

 

「兄貴は真面目で勉強も出来たのにお前はどうしようもないアカン奴やな。廊下で立っとけ」

 少し遅れただけだ。英語は好きな科目の一つ。なのに何度も兄の正紀と比較して露骨に叱責してくる英語の教諭。殴りたい衝動を抑え一人廊下に立った。征生男は試してみた。次の英語の時間もワザと二分遅れて教室に入った。
「嶋田、お前はホンマにどうしようもない奴やな。ケンカしか能ないんかい。兄貴とはえらい違いやな」

 同じように言われてまた廊下に立たされた。

 
 母は教育熱心だった。公立の近所の中学校は伝統的に名だたる悪名を売る生徒の多い中学校。母はそれを由とせず初めから計画的に、私立で名門の桃山学院高等学校付属中学校に先ずは兄の正紀を入れた。三年後、弟の征生男も入学させた

 更に母は自分の兄の武松をも説得し勝之も同時に入学させた。兄の正紀とは三年違うから征生男が中学に入った時は正紀は高校。征生男が高校に入れば正紀は大学。
 その年、学院は大学を新設した。
 優秀な正紀は学院からそのまま大学へ進学するようにたって推薦された。同志社を目指していた正紀は学院と母の説得で新設桃山学院大学に推薦入学。 

新設された大学の資金の必要性からか、この年の高校の新入生を倍増した。一クラス六〇人弱、二六クラス。異常とも思える増強に付属中学五〇人余が約一五〇〇人以上の新入生の中に散らばった。その一部は「外から来た奴等に大きい顔をさすな」と一五〇〇の覇権を目指したが、次々打ち破られその都度征生男に訴えて来た。征生男が高校に進学してからのほとんどは本人の意図とは別に括弧撃破に舞いそうした。そんな征生男を何人かの教諭達は優等生だった兄正紀と比較した。
 中でも英語の教諭は何かつけそれを持ち出す。兄の正紀は父の次に許しがたく憎い。その兄との比較は征生男の逆鱗に触れ憎悪を掻き立てるだけでしかなかったが当初は無視していた。度重なる今となってはこの教育指導の無能さをさらけ出す教諭を徹底的に潰すと決めた。クラスの仲間全員に英語の時間は遅れるように指示を出した。 遅れたら廊下に立たす罰則を征生男で実証したものだから、中には「遅れました。廊下に行きます」教諭の指示を待たず勝手に廊下に出る者も出てきて、英語の時間は常に廊下で十人以上が立つと言うより屯する光景が生まれた。英語も勉強も教諭も嫌いな連中にとって廊下での時間は楽しみでさえあった。英語教室は空洞化していった。
 担任の教諭は世界史担当。
 征生男は歴史が大好きだった。熱心に授業を受けた。
 担任の横溝教諭は当初征生男に興味を持った。授業中も征生男を指名し質問を浴びせてきたりした。世界史は好きなものの横溝のそうした態度が鼻についた。鼻につくと言えば彼は授業の中でしばしば得意気に自慢話をする。例えば、自転車を走らせながら前かがみになって手を伸ばし路上の石を掴めるとか一日に二冊の本を読破できるとか、愛妻の事細かな心遣いを話し出す。それが自慢話になっていると自信は全く思ってもいずむしろ人生訓をさも気安く話しかけて生徒たちを優しく導いていると錯覚しているようで征生男を白けさせていた。
「嶋田も一緒に横溝先生の家に行こうや」
「何でや。オレ、アイツ好きになれんな」
 クラスで成績が一、二で優等生の菊池が突然誘いをかけてきた。

「先生な、お前を連れて来いと俺に言うた。俺もそれに賛成やねん。俺も含めて三年生まで何人か先生の家で集まるねん」
「何のタメ?」
「ま、勉強を教えてもろたり、先生の話を聞いたり、それに先生の奥さんが色々料理したりお八つなんか出してくれたりや」
「ふーん。オレには興味ないな」
「あのな嶋田。お前等付属中学から上がって来たもんはケンカばっかりしてるのが目立つんや。ほんでお前がリーダーや。そんなんでエエんか。お前は中学の成績は首席を争ってたと言うやないか。本当は勉強したら優秀やねん。それをケンカばっかりに費やしてるのが惜しいと俺も先生も心配してるねん。な、ま、一回横溝先生とこへ俺と一緒に行こう」

 横溝教諭の住まいは学校のある地下鉄昭和町駅から歩いて十分ほどの西田辺駅寄りにあった。安普請の煤
(すす)けた佇まいの二階建て長屋。菊池が慣れた手つきでガラス格子の玄関戸を開けた。直ぐ視界に飛び込んで来たのは顔見知りの上級生数人。どれも学校では優秀と折り紙付の二年生と三年生。
「菊池で~す。先生、嶋田も一緒です」

征生男は菊池の後に続いた。
「おおっ嶋田、よう来たな。上がれ上がれ」

得意満面の笑顔で横溝の声が飛んできた。ステテコに腹巻、ランニングシャツ、その上に着古した着物に兵児帯とくつろいだ格好。 周りの上級生達もズボンの上は全員がランニングシャツだけ。
 許しあった者同士の和みと温かみが充満していた。
「おっ、あの有名な嶋田君やん。皆で歓迎しようや」

異口同音の言葉が飛び交う。それが征生男には演技された大げさな振る舞いと白々しく感じるしかなかった。座卓にはミカンや駄菓子が木の器に盛られていて、ジュースのグラス。そして征生男がキッと眼に捉えたのは横溝の脇に広げられた『赤旗新聞』。
「三年生の誰々、二年生の誰々」と菊池が得意そうに紹介する。紹介されるまでもなく半数以上の顔ぶれは知っていた。中には兄正紀を慕い征生男の家を訪ねて来た三年生の顔もあった。
 如何にも貧乏暮らしが板についたと思わせる室内。貧乏に上手く溶け込み片づけが行き届き清潔さが質素にかもし出されていた。暗く見せない演出をしている横溝の奥さんは清楚な美人だった。

「嶋田君、はじめまして。いつも主人から聞いていますよ」
「嶋田君、僕らはな君の来るのを待っとってん。ここではな先輩も後輩もナシや。横溝先生を囲んで楽しく勉強したり将来について語りあうとこやねん。付属中学から高校に上がってからの嶋田君の活躍はたいしたもんやな。特にあの二年生の皆を向こうにまわしたグランドでの対決、僕は二階の教室で全部見とってん。ま、そんなんを今夜は聞かせて欲しいな」
 一番優秀とされる三年生がにこにこ語りかけた。
「嶋田君、ケンカ強いねんな。僕の学年の悪等がいつも噂してるわ。あんな奴等をやっつけてくれてスーッとしたな。これから仲良うやろう」

顔見知りの二年生。
「俺もここに来て先生や先輩達と時間を過ごしてきたけど、学校では得られへん色んな勉強できるし、皆仲間やと実感できるねん。嶋田、な、お前が来ると俺は嬉しいし心強い。何か一緒にやって行けるかも知れへんやん」と菊池。
「ウチの人はあんまり器用とちゃうので生徒には受けが悪いとこがあるでしょう。それでもね、いつも生徒の事は真剣に考えてるの。その中で嶋田君が一番気になるみたい。帰って来てよう君の話をしてはるの。ケンカは多いけど授業態度はエエし他の生徒とは違う視点があって将来頼もしいって」
「正直言うたらな、番長やし近づきにくいなと、思っててん。けど何かどう云うかな、こうして前で見たらメチャ感じエエやん。一緒にな勉強して行こうや。エエ仲間が一人増えたやん」
 征生男はただ正座したままそれぞれの話を黙って聞いていた。
「皆、お前が来るのん楽しみにしててん。よう来てくれたわ。ええ仲間が増えてエエやろう。お前はホンマは優秀やねん。それに根性もある。今からでも遅おない。しっかり勉強したら好きな大学へは行けるぞ。ただな今のままやったらアカンな。ま、一緒に気張って行こうや」

「貧乏所帯でエエもん出えへんけど、そろそろご飯にしましょうか。嶋田君もいっぱい食べてや」
 畳みかけ、包み込んでくる。どこかで演出された仮装の愛。息が詰まるのをぐっと耐えていた。征生男には仮にも迎合できない仲良し意識。
「メシにしよう。嶋田もくつろげ」

横溝は征生男を既に虜にしたと。
「オレ、帰ります」
「何でや」「遠慮するなや」「緊張してるんか」
「オレ、帰ります。お邪魔しました」
「急ぐ用事でもるのか。せっかく来たんや、ゆっくりしようや」
「先生。オレ、アカが大嫌いやねん。オレを捕り込もうとしても無理や。仲良しこよしって言うのも大嫌いや。ほんでオレは優秀でもないし。ここは優秀な人達の集まりや。帰ります」

「はいっ。それは偏向教育!」

挙手で征生男は大声を出した。
「それは違うぞ。歴史は真実を視なアカンねん」
「イエ、偏向です。退場します」

征生男は席を立って周りを睨みつけた。同時に数人が席を立った。席を後に教室を出る。後に続く数人。
 反抗ではなかった。許せなかった。
 横溝の世界史の時間、横溝は戦争の天皇責任を話し出した。
 父の征信は憎い。本気で殺そうと思う時がある。
 征信は詩吟の師匠をしていて子供達には剣舞を習わした。剣舞は楽しかった。真剣を振り回し、必修科目に居合い抜きも習っていた。その世界は、武士道であった。武を磨き義を重んじ、闘いに背を向けない。征生男の芯にはそれが刻みつけられていた。
 そして武士の上が天皇であった。幼少から征生男はそんな獏とした思想を植え付けられていた。そして信じていた。日本は天皇を頂点にもう一度アメリカと戦争をして勝つべきと。
 アカが本性を現し世界史の授業に天皇を否定する教育をしてきた。横溝の家に行ったその時から征生男はそれを警戒していた。横溝の家に行って数日後の世界史の時間。征生男に取れる行動は抗議して退席する事だつた。そして、配下の仲間も意味は理解できなくとも当然征生男の行動に従うべきなのだ。

配下の仲間は無邪気なものだ。日頃は征生男の大好きなエルビスの影響で征生男と同じく頭髪はリーゼント。そのまま粋がって玉突きに嵩じたりミナミの喫茶店で屯して時にはナンパした女高生と悪ふざけをしても、征生男がどう考えて横溝と対決するのかは理解の範疇を超えていた。ただ、先公に反抗して勝利するかのように困らせるのが何とも痛快だった。
 一学期が終わった夏以降、世界史の時間はそんな場面が続き、横溝と征生男の間に憎悪が絡んできた。アイツは優秀な生徒を取り込んでアカに仕立てようとしている。これは絶対阻止しなければならない。英語の授業に続いて世界史も空洞化していった。征生男と横溝の対立は憎悪も交えて激しいものに展開していった。



   
陰 謀

 

「私は息子さんの影響を深く憂慮します。授業を妨害するだけでなくクラスの生徒を恐怖で従えています。先日は息子さんが校内の散髪屋に行って頭を坊主にして来たのは良かったのですが。仲間、いや子分と言っても良いでしょう、クラスの十人ばかりが坊主になりました。聞くとハサミで皆の髪を切って全員散髪屋に行かし坊主にさせました。この影響力が憂慮されるのです。良い方向に行けば問題は無いですよ、残念ながら悪い方へ行っています」
「悪いってどんなんですか。坊主頭は学校も奨励してますね 」

「生徒の多くは私の言うことを聞きませんが、息子さんには従います。従わせる恐怖を彼は出すのです。これは無言の暴力です。もちろん学校も坊主頭は奨励していますが強制はしません。息子さんは暴力で強制したのです。それは良くないと考えています」
「お言葉ですが、それをリードして行くのが先生の勤めとちゃいますか。息子の話では先生は優秀な生徒ばかりを大切にして、そうでないものは切捨てているような印象を感じますね。教育とはダメな生徒ほど率先して導くものではないでしょうか。親バカと言われればそれまでですが、 うちの征生男は小学校のころからイジメられッ子をかばうような優しい子です。小学校の頃からケンカは絶えない子でした。でもね、それはね、いつもイジメられる子を庇いイジメッ子や上級生とのケンカであの子はケンカの為のケンカはしません。
 こんなことを言うと何でしょうが、母としてそんな息子を誇りに思っています。家に遊びに来る子は弱い子等ばっかりで、それに勉強の嫌いな子達が多く、あの子は一緒に勉強したり教えてもいました。学校の先生はそんな征生男を好いてくれていました。中学校に上がっても友達が増え、先生にも受けは良かったのですよ。何で高校に上がってからケンカが多くなったかお考えになったことがありますか」
「ま、子供は成長の過程で色んな方向へ育って行きます。小学校の頃の性格が必ずしも高校生位になって変わらないと言う保障は何も無いでしょう。ただ、息子さんの反抗的な性格は先天的なものか、或いはご家庭の中での環境とか、近所社会の環境とかで大きくなっていったのではないでしょうか」
「では、学校には何の責任も無いと仰るのですか」
「いや、そうは言ってません。ただ学校からの影響よりもそれ以外の要素が強く感じられたものですから」
「私は逆です。学校は大学をお作りになった。新大学には教授はもちろん学生も優秀なのが欲しい。設備も良いものにしたい。良い教授を入れるのにはお金が要る。優秀な学生を獲得するにはなり振り構わない。
 兄の正紀を大学へ勧誘するのに私は学校から毎日のように攻勢をかけられましたよ。その時は息子がこんなに学校から嘱望(
しょくぼう)されるのを母として嬉しかったですよ。ところがどうでしょう度重なる寄付金の要請。それは仕方ないとして、征生男達が高校に上がってみれば、それまでの倍以上の新入生の取り込み。今まで厳しかった入学基準を無いもののようにとに角数だけ入れてましたね。高校の入学金もバカにはなりません。資金を大量に稼ぐことが出来た。でも、その結果今までになく不良生徒も大量に流入して、今の一年生の混乱が始まった。その中へ征生男は体ごと入って行ったと思います。 ところが学校はそれを初めから見越して大量の生徒達をふるいにかけ、そこで計画通り元の基準を適用して大量処分しようとしています。つまり、大学と言う大義名分で一年生、征生男達に犠牲を強いているのですよ。教育も何もあったもんじゃないですね」
「確かに仰るように私も学校の姿勢には矛盾を感じています。その上層部の計画に一教師として正面切って関与できないもどかしさは私も正直抱えています。仰る通り、息子さんは非凡なものを持っています。それが違う方向に行く時に導くのが教育です。ただ、もう押さえ切れないと言うのも事実です。今、一年生は一五〇〇人と膨らんでいます。その多くが息子さんに従っています。学校の許容としては一五〇〇人は多すぎたのです。それが今、悪い流れになっているのは事実です。今、それを正しい軌道に乗せないと学校の今後に憂慮する問題が出てくるでしょう」
「卑怯ですね、今更。征生男から聞きました。一度、先生のお宅に伺って先生は優秀な生徒しか相手にしないと言ってました」
「それはお母さんの誤解です。私が教諭をさせてもらっているのは、一人でも多くの子供達がしっかり物事を考え巣立っていけるようにするのを信念にしてきています」
「先生はお宅に優秀な生徒だけを招いているとか。そして私塾のようにしてご自分の思想を植え付けておられるのでは。また、教室でも先生の思想を押し付けていると息子は言います。思想は自由にお持ちになって表現されるべきと思います。私もあの戦争を潜り抜けて来ました。もう二度とあんなのはイヤです。
 その駄目な所を先生なりに伝えるのは厭
(いと)いません。そやけどそれが上からの一方的に押し付けた教えになってしまうのはいかがでしょうか。正しいと思うのを一方的に押し付けて良いのですか。そして、それに逆らう者は排除する。それが教育とは思いません」
「押し付けてはいません。語りかけている積もりです。そして執拗に繰り返しましたが、息子さんは直ぐに拒否反応を示し、クラス全体を引っ張り授業を妨害します。それは私の力量を超えています」
「先生の力量を超えたから排除するのですね。卑怯ですね。学校も先生も。貴方は征生男が坊主頭になり仲間の全員を同じように坊主頭にさせたから征生男を恐れています。私は承服できません。征生男は二年になるからもっと勉強もしてこれから変わって行くと頭を坊主にしたばっかりです。この処分も知りません。それで退学にになったらあの子はどうなると思います。明日を見つめている子供の思いを残酷に踏みにじるのですよ。母である私がそれを許してはいけないのです。再度、職員会議を開いて下さい。必要なら私もそこへ出かけます。この要望が聞き入れてくれないとなったら、私は私で取る手段もあります」
「そうですか、分かりました。担任として何処までできるか。お母さんのご要望を確かに受けて再度、会議に計りましょう」

 

夫の征信は弟の徹(とおる)と自分の仲をずっと疑ってきた。
 征信が召集された昭和一七年。当時は荷馬車屋を生業に手広く

していた。そこへいつの間にか徳島から征信の兄弟達が頼ってきて所帯が膨らんでいた。兄弟たちの子供達は夫の先妻の落し子だった孝司とほぼ同年代の少年達。更に若い衆が数人と男ばかりが寄宿する大所帯だった。
 千代は姪の一人を使い大勢の男達の世話をやり続けていた。
 征信と所帯を持ってから苦渋の種は酔うと暴力を振るわれることだった。男気があって他人には慕われる征信なのだが、妻である女はまるで所有物で意にそぐわないと殴る蹴る。髪の毛を掴んで引きずり回す、そんな男だった。征信の末の弟の徹が居ればいつもそんな兄を遮
(さえぎ)り千代を庇ってきた

 大阪空襲で何もかも失い千代は孝司、正紀、歩き出したばかりの征生男を連れて一時故郷の徳島へ疎開して、母の近くの土間の台所と一間だけの一軒家に身を寄せていた。

そして敗戦。
 敗戦後間もなく呉の海軍に居た征信は復員してきた。征信と連れ添って心底歓喜したのはその時だけだったろう。征信は当初、出征中に生まれた征生男をこよなく愛した。
 ところがある日、酒に酔った征信は征生男の顔を凝視しだし弟徹とソックリだとわめき出した。出征時と微妙な妊娠時と、そして征信の暴力からいつも千代を庇っていた徹とを重ねて、あらんことか二人の仲を疑いだした。征信と徹の兄弟はソックリな位似ていた。
「コイツは俺の子と違う。俺が居らんのをエエ事にお前等が生んだガキや」
 征信は酔うと喚きながら千代に暴力を振るう。
 手紙で征信に「この子には貴方の名前の一字をつけます。それに出征中に生まれた男の子で征生男。良いでしょう」と書いて手紙を出したら、征信は喜んで直ぐに返事して来たのに。

以来、征信の征生男に対する愛情は消えむしろ憎悪を含む嫌悪へと転化していった。征生男以外の兄の正紀や妹達には小遣いに時には千円札を惜しげもなく与えていたのに征生男には一切小遣いを与えることはなかった。
 千代にはそれが如何にも不公平で不憫で征信に隠れて征生男に時々そっと小遣いを与える。それでも千代に許されている家計からは百円札しか与えられなかった。何も知らない征生男はそれが当り前で、中学の時から色々なバイトをして自分の小遣いを稼いで、時には妹達へ何かと買い与えていたようだ。
 征信の千代への暴力は止まず、征生男は小学校三年生頃からは父親の母への暴力に身を挺して征信にしがみつき必死で阻止するようになった。しかし、まだ少年の小柄な体は意図も容易
(たやす)く征信の強い力で弾き飛ばされていた。
 中学にもなると背丈も伸びて、千代を庇い征信の前に立ち塞がり身構えて打って出る勢いを見せると征信は「お前の教育が悪いからこんなガキになりさらしたんや」と捨て台詞を残して踵
(きびす)を返すに止まるようになった。
 千代は自分を守る征生男の後姿にふと、徹の後ろ姿を見た。そして、ハッとする。
 何度かあった、自分を庇う徹の背中を見つめこの人が夫であったならと思った時が。一瞬の心の揺らぎは確かにあった。征信に立ち塞がる征生男は父の征信より背丈も伸び、その後ろ姿に若かった頃の徹の頼もしい背中が甦り、自分でも徹の子と錯覚してしまいそうな。そんな訳がない。
 父に冷遇され兄の正紀の暴力も陰であったようで、それに耐えている内にいつしか弱い者の側に立つようなっていた征生男。それが学校の非情とも言える勝手な方針で犠牲になるのは絶対させてなるものか。この子が今退学にでもなったらどうなるのだ。グレるのは由としても、本当は繊細で弱い。それを隠す為に虚勢を張っているのだ。

千代には恐ろしい何かが待っていそうな予感を拭えない。

「確かに学校の方針に私も大いなる矛盾を感じています。ですから職員会議でも息子さんの退学は何とか阻止しました」
「そうですか。別の先生のお話では貴方が中心になって息子を誹謗していると聞きましたが」
「いや、それは誤解です。確かに息子さんの危険さを説明しました。それ故に教育指導のあり方を今後の課題として定義して、息子さんを条件付進学として何とか取り付けたのです」
「詭弁です。うちの子が具体的に何をしましたか?ケンカの多いのは確かです。でもそれも同級生を苛める上級生に一人だけで立ち向かったり、多人数の相手でしょう。その上級生にも処分はあったのですか。何もないでしょう。授業を妨害すると言っても征生男だけが一方的に悪いのですか。貴方やほかの先生の指導の仕方は問われないのですか。執行猶予付で進級させるなんて、子供に対する卑劣な脅しです。母として私は絶対納得できません」
「すみません。何と仰られても既に決定された事です。先日のお母さんの抗議を真摯
(しんし)に受けて私は会議で退学だけは何とか阻止出来ました。後は彼がどう立ち直るかです」
「横溝先生。私は貴方と言う人を恨みます。一番弁護して当り前の担任が自分で指導できないからと率先して息子を窮地に追いやってるのですよ。私は別の先生とも懇談させてもらいましたが、先生が征生男の危険性を煽り立てたことで大多数の先生方が退学処分決定側に回ったと聞きました。確かに先日の私のお願いを先生はもう一度職員会議に諮ると約束してくれましたが、その席で一番尽力されたのは平川先生と聞いています」

 社会科を受持つ平川教諭は中学校から征生男を、と言うより全員を見守って来たたった一人の教諭だった。
 平川は教諭になってこれ程悔しい思いをしたのは初めてだった。学校はあからさまに人員減らしの方針を打ち出し、いや、初めから数だけ取って一年後に整理する方針だった。何でも良かった。僅かな理由で退学処分者を多く出し、不良たちをはじき出す。恐喝、万引き、不純異性行為、校規を守らない反抗者。少しでもそれに引っかかる生徒を対象に執拗な処分をしてきた。
 横溝はそのリーダー格を先ず処分の対象にしないで真の整理が出来ないと嶋田を名指して熱弁を振るった。しかし、それはどこか曖昧模糊として明確な理由が見えない。
 ケンカ騒動は多いが外部から入ってきた不良を一人で相手にして従え、極めつけは二年生の不良グループを相手にこれも一人で向かったものの暴力沙汰には至っていない。授業放棄にも、それを訴える横溝や松田の言には利己的で釈然としないものを大半の教諭達は感じていた。だが、殆んどの教諭の一致する思いは嶋田が多くの生徒を引っ張っていると言う事実。
 それが今後どう悪く展開していくのかを恐れていた。
 三年間、平川から見る嶋田は弱い者を苛めていれば果敢に対処する姿は正義感に満ち溢れた優しさが伝わっていた。授業時間も真面目に受け、風紀も乱していない。彼は彼なりに必死で前に進もうとしている。それを私達が強い指針をもって望めば必ず良い方向に向く。教育は可能性のある少年にこそ正面から取り組んで指導していくものでしょう。
 平川の懸命の訴えで、とに角様子を見よう。適切なのは条件付進級。何か少しでも不遜の事態が起れば即刻退学処分にと体勢は固まった。その結果を敗北とするのか、一つの成果とするのか、隠しきれない無力感が重く宿り憂鬱の中に沈みこんでしまうのだ。
 平川に出来るのは可能な限り嶋田を引っ張り支え無事に卒業させる事だった。
「ゆっくり話がしたい。遠いけど俺の家に来るか」
「オレなんか行ってもエエんですか。行きます」
 嶋田の一瞬輝いた瞳が平川を勇気付けた。
 

初めて訪れる岸和田は遠かった。
 ナンバから南海電車に乗って岸和田駅。
 駅から十分以上歩く。学生帽は被っているものの坊主頭に冬の風は殊更寒い。それでも征生男の心は弾んでいた。。
 平川教諭の家は新興の府営住宅。同じ形の平屋の一戸建てが整然と並ぶ中にあった。初めて見る岸和田城は大阪城に比べると小さく平地に建っていて可憐にさえ思えた。
「これにはお酢を少しかけると美味しいの知ってる。嶋田君」
「ええ、知っています。お袋もよくこんな風にアジを揚げて料理します。オレは酢が好きです」
「そうかなあ。俺は酢が苦手やから要らんわ」
 その日のメイン料理はアジの揚げ物だった。
「そうやねん。これは本当は南蛮漬けにしたら美味しいのに、この人は酢が嫌いでしょう」
 どう見たって新婚ほやほや。そして何と綺麗な人なんやと、征生男は平川の妻に眼を合わせるのが怖かった。
「先ず、お前に謝っとくわ。俺の力がなかってこんな結果になったのを。俺はな、今度のお前の件にはつくづく無力な自分を思い知らされてな、お前にあらためてちゃんと侘びて話をせなアカンと思たんや。ホンマに堪忍してくれ」

「えっ‥」

「とは言うものの、ま、何とか退学は免れた。そこでな、とに角二年になったらちょっとは大人しゅうするんやな。嶋田もそうして頭を坊主にしたからそれなりの覚悟しているのは俺にはよう分かってる」
「そやで、嶋田君、負けたらアカン。ホンマに勝つと言うのは辛抱が要るねん。この人から君の話はよう聞いてるねん。私は君が立派と思うの。ケンカしても君に悪いとこなんてないやん。それに男の子やしケンカする位の元気かてあってもええと思うんよ。そやのに学校って卑怯やな。出る釘は打つしか能がないのかしら。そんな学校に負けたらアカンよ」
「ま、そう勝った負けたの話だけではな。な、嶋田。勉強はやっぱりやらなアカンやろう。好きなものだけやっとったらエエんちゅうもんちゃうやろ。お前の好きな社会や歴史はエエとして、高校に上がってから数学と英語それに国語が全然ガタガタやんけ。それは好きなもんだけ勉強してると言うよりも好きやから殊更勉強せんでも理解していってるねんな。やっぱりな、勉強は苦手なもんから取組まなアカンやろう」

「はい」

「それと、俺かってお前が色々悔しい思いをしてるのは分かるで。そやけどなぁ、やっぱりな横溝先生に面と向かって逆らうのはアカンと思うな。もう一人英語の松田先生やけど、二年になったら変わる。あの先生も怒らしたしな。それに同調する先生も何人かいて職員会議で俺はタジタジやったな。お前にとっては一々兄貴と比べられるのが腹に据えかねるやろうけど、それもしゃないと我慢するんやど。優秀な兄に比べてただの暴れん坊としか皆思とらへんねん。それを巻き返すのには成績を上げるんや。中学校からずっとお前を見ている俺は、あの頃の勉強への意欲が見えへんやんけ。お前はやったら出来るんや」
「‥‥」
「嶋田、ケンカは好きか」「いえ」
「ケンカは楽しいか」「いえ」
「お前をケンカに駆り立てるのは何やと思う」
「‥‥」
「怖いと思った事は無いんか」
「怖いです」
「ほんだら何でケンカするんや」
「男は負けたらアカンのです。逃げたらアカンのです」
「そうか、負けたり逃げたりするのんが嫌いなんやな」

「いえ、それは男として許されへんのです」

「そうか。逃げたりするのが許されへんねんな。ほな訊くけどな、これから長い大きなケンカが待ってんねんど。それも負けたり逃げたりせえへんな」

「?」

「今度のケンカの相手は誰か分かるか」
「誰でも挑んで来たら相手します。負けても絶対に逃げません」
「そうか。今度のケンカの相手は学校や。お前は今、学校にケンカを売られてんねん。勝てるか。逃げへんか。闘えるか」
「どう云う事です。学校の誰とドツキ合いですか。横溝ですか」
「違う。学校側全体や。ドツキ合いのケンカちゃう。そやけどケンカには変わりあれへん。やるかやられるか妥協は無いねん。これからお前に何か不祥事があったら学校は直ぐ退学させると脅してきてんねん」
「そやったら、オレは何処で暴れたらエエんですか」
「違う。このケンカは暴れたら負けや。逃げた事になる。学校の狙いはお前を退学に追い込もうとしている。退学になったらお前の負けや。絶対勝つねん。お前がな立派に卒業して、お前を退学させようとした人達を見返すねん。それがこのケンカに勝つ事や。逃げたらアカンねん」
「‥‥」
「嶋田君。私も悔しいわ。ケンカ、ケンカって言い方好きちゃうけど。ホンマに負けたらアカンよ。ちゃんと卒業して勝ってね」

 誰とも一緒に居りたくなかった。
 勝之は当分帰ってこない。本当は征生男も勝之達と一緒に行きたかった。山奥だろうと何だろうと勝之や修平達と塗装のバイトはいつも何処でも楽しく、しかも良い小遣い稼ぎにもなった。学校なんてどうでも良いという思いと、どうしてもこのままでは駄目という思いが交差していた。学校の仲間は自分を頼りにしてくる。考えたら、それはケンカに長けた腕力への一方的な依存のような気がする。
 条件付進級。もし今後何か問題があれば即退学。
 退学が嫌でもない。そんなのはどうでも良い。思うだけで煩わしい。母が泣いて「ゆきおちゃん。頼むからこれからは大人しいしてや。ケンカ一つもアカンねんで。分かる?」分かっていた。と言うか征生男自身そんな状況が疑問で不快感を膨らませ学校と横溝への憎悪が滾
(たぎ)り、一方で頼りなくも方向性を失った陰りだけの自分しか見えてこない。それは学校の仲間には理解の範疇を超えていると思う。分かって欲しいとも分からせたいとかの思いはない。骨の髄にまで湧いてくる怒りが、いつの間にか転化して揺れ動き壊れそうな切なさと向き会い対処できないでいた。
 切ないと思えば負けなんや。踏ん張る。敗北こそ惨め以外の何物でもない。闘いが、心の闘いが立ち塞がり孤独な切なさが離れない。勝之が居れば、勝之さえいれば、揺らぐ心にもう少し強靭な何かを得られるはず。勝之はまだ一週間は帰って来ない。
 学校が終わり、地下鉄をナンバで降り路面電車に乗って大正区の奥まで三、四〇分はかかる。戎橋の市電停留所を横目で見て御堂筋を渡り戎橋筋から道頓堀に出た。夕暮れ時、茜が消えて物憂い暮色の下で商店街の灯りは煌々として原色の派手なネオンが所構わず浮かび上がっている道頓堀を、東に折れて堺筋の少し手前に通いつけた玉突屋がある。ドアを押す手が気だるい、既に数人の仲間が来ていた。

「ちょっと待ってや、もう直ぐ終わるさかい」

北村が寄ってきた。
「そやけど冬に坊主にさせられて外に出たら寒うてしゃないわ」
「ああ、今日も嶋田に持って行かれるんやな」
 ボヤク仲間の声に憂鬱さが更に募る。

「ええわ。お前等やっとけや。オレは見てるさかい」
「何でや、何で一緒にせえへんねん」

コイツ等はまだ何も知らん。知らせる気にもならなかった。どうせ明日には全員が知るはず。
 仲間がローテーションに昂じるのを壁にもたれただ眺める。玉と玉がぶつかる軽やかな音。ナイスショットを決めた者へ送るキュウのタップを床へリズミカルに叩くコンコンという音。いつもなら心地よく感じるのを虚ろに聞き走る玉の行方を無感動に追いながら仲間達の顔を一人一人眺め認識していくと、抱え込む憂鬱さは誰にも共有できない自分独りだけのものと今更のように思う。誰とも共有できない孤独感が突然居場所を見失い胸を圧する虚しさで迫り上がり、心底一人でいたいと思った。
「オレッ、先にいぬわ」

「何でや、どないしてん」

仲間の声を背中で受けながら玉突屋のドアを押して外に出た。既に濁った闇が寒空を被い猥雑に彩られた夜の都会の灯が刺激的に目を刺す。それを避けるようにうつむき加減に視線を落としながら物憂いに歩く。
 学校に勝つ。暴れたら負け。

先公の殆んどを殴り倒して暴れまくりたい衝動を思考の中で駆け巡らせトレンチコートのポケットに両手を突っ込み夜の道頓堀に足を止める。思いが揺れ勝之の顔が浮かんだ。会いたいなあ。

 平川先生夫妻は「このケンカはお前一人とちゃう。俺等がついてる」それは嬉しかった。そやけど体を張った乱闘のケンカと違う。しかも聞いていたらただ辛抱するだけやないか。
 胸の底を凍える冷たさで撫であげる悔しさがひたひたと満てきて息苦しい。勝之さえ居たら。うな垂れたまま一歩二歩歩いた。
 ドンッと右肩に衝撃があった。
「アホンダラ、何ボケーッとさらしとんじゃい」
 征生男は振り向き立ち止まり、相手を見る。高校生らしい二人。こんなことは今まで無かった。そうあるかもと想定して絶えず身構えて歩いていた。今夜の自分は身構えも忘れて寒気でひび割れしそうな切なさだけが全身を被っていた。

「おっ、何や、やるちゅんかい」

二人は正面左右に並び体を仰け反らせてきた。
 威嚇
(いかく)だけで征しようとしているがまるで隙だらけ。征生男はただじっと睨み据えた。

母の言葉、平川先生夫婦の言葉が頭の中を回る。
「何や、コイツ等。お前らイテまうど」

後ろで北村の恫喝する声が響いた。
「コラッわれ、根性あるんけ。相手したるど。来んかい」

 瀬田の威圧する太く響く声も。
 振り向くと玉突屋にいた全員が出てきていた。七人対二人。こんな勝負は嫌いや。弱い北村が自分が居るのと数を頼んで息巻いている。二人は既に腰が引けていた。恐怖で視点が泳いでいる。

「何でもない。話してたとこや。もう話済んだしお前等も帰れや」
 征生男の一言で二人は後ずさり踵を返し一瞬に走り去った。
「なんや、ケンカ売られとったんちゃうんかい」北村。
「アホンダラ。余計な口出しすんなボケ。一人やったら何もでけへんやろう。弱い相手やと分かったら息巻く奴はオレはキライや」
「何、怒ってんねん。嶋田が出て直ぐに大声が聞こえたから飛び出してきたんや」

「俺はそんなんちゃうど。そうか、嶋田は俺をそんな屁タレに思おてんのか」 瀬田。

「オレの事に口出すな。それに人数を頼んでオレはやらへん」
「分かった。俺と勝負せえや」

征生男と同じような体格の瀬田は一年ダブって一つ年上。配下の中では抜きん出た根性の持ち主だった。
「何やと。何でお前と勝負せなアカンねん」
「屁タレ扱いにされて黙ってられへん。嶋田が強いのは分かってる。そやから俺が何もでけへんと思われるのが腹立つねん。俺が負けのん分かってる。そやけどサシで勝負してくれ」
「そんなん言わんと、もうエエやんけ。仲間で揉めんとこうや」
 哀願するような北村の声を尻目に

「そうか。分かった。明日でもエエか。今夜は一人になりたい」
「明日の昼二時。映画館の裏の法善寺の墓地や」

 

 

芽生え

 

 歩いた。ただ歩いた。しかも精悍さを欠いた蛇行。
 華やかに賑わう道頓堀の繁華街。寒風に煽られながらも人々の往来は密になっていく。また突き当たられないように周りの気配を読みながらも苦悶の心は張り付いていた。誰とも遊離したい苦しさを伴った寂寞が四肢まで萎えさせ胸の中でやり切れなく蠢く。
 戎橋を北に折れ心斎橋筋で群衆の流れに身を任せて歩いた。人の群れも左右に連なる商店の有様も目には止まるが意識に入らずただ歩いた。大丸百貨店が見えた。その入口の飾られたイルミネーションにふと我に返りあらためて群集の雑踏が意識の中に入ってきた。
 群れるのは好きではない。しかし今はこの関係のない人の群れの動きの中に自分の孤独がどこかで隠れていられるような僅にも救いのようなものを感じた。
 群れて輝きを放つイルミネーション。その一つ一つは鋭いが小さな光でしかない。群れる連鎖が鮮やかで華麗な存在を顕わす。皆が同一で群れの中で連鎖して群れの有様だけが浮き出てくる。
 オレは嫌や。どこか独りで輝いていたい。輝かずとも独りの存在でありたい。そう叫びたいような思いの反対に今夜の独りは何と微弱な心か。左右前後、何処に進んでも塞がっているようで哀しみだけが張り付いて彷徨う矛盾に苛まれている。

戎橋まで帰ってきた。立ち止まり欄干から宵闇に黒ずんで濁り辺りの明かりを揺らめいて反射している川面を眺めた。川面を見る。
●● 涙。

欄干に両肘をつき、流れる涙。落ちる。川面に小さく透明な滴が落ちていく。
 子供の頃はずっと泣いていた。泣き虫の汚名も被せられた。今は人前では絶対に涙を見せなくなった。
 子供の頃から辛い事がいっぱいあるような気がする。いつも胸の底に渦巻く哀しいもの。征生男にはその正体が掴めない。
 正紀への恐れは今では憎しみになり兄弟でもいつか絶対決着を着けるのだ。ただ兄であり、年が上だけで何で抗えずやられ続けられきたのか。今は正紀への怯えはない。それでも正紀はいつも蔑みの眼を冷たく刺してくる。優等生、お利口さんを笠に着ている。相容れない。
 父の征信、いつかは殺す。母への虐待は絶対許せない。父と兄を思うと家には帰りたくない。しかし、征生男の居ない時、又いつ征信の暴力が母を捕らえるかと思うと少しでも家に居なければ。高校に入って流石に征信の暴力は影を潜めてきた。征生男だけでなく正紀も父を諌める。妹たちも泣いて父を制するようになってきたので以前ほどの不安はなくなった。

そして、母の千代も強くなってきた。
 今回の条件付処分を聞くと正紀は「恥さらし」と大げさに喰ってかか●●って来るだろう。征信は直接自分には何も言わない。冷たい一瞥を与えるだけだろう。その代わり「お前の育て方が悪い」と子供達が居ない時、母に暴力を振るうかも知れない。起こりえる事態を想定して重い憂鬱が生まれ出口の見えないもどかしさ。母さえ居なければ家なんて出た方が良いのだ。幼児の頃からずっとそう思ってきた。そんな思いの時はいつも勝之の家で泊った。学校だけではなく、親戚の殆んどが兄の正紀と比較してくる。何でこんな子が嶋田家に出来たのかねと。
 勝之の父、武松だけが「おいっ、ユキオ」と何時もニコニコ呼び止めてくれるのと従兄弟の四つ上の敏江だけが例外だった。
 照美ちゃん。
 敏江の優しい笑顔を思い出した時、照美の面影が川面に映し出されたかように不意に浮びあがった。そや、あれからモカには行っていない。勝之を誘うと「俺は又邪魔もんになるやろう。征生男ちゃん一人で行けや」で、一人で行くなど考えもしなかった。かと言って配下の誰をも連れて行く気にはなれなかった。
 一人で行って照美と眼が合った瞬間全ての思考が停止して何をどう喋ったら良いのか、それを思うだけで緊張が走る。それを突き破る勇気は自分にない。ずっとそう思い続けていた。
 今夜の自分は違う。緊張や恐れがない訳ではないがそれに打ち勝つ程、無性に照美に逢いたいと思った。道頓堀を渡り戎橋商店街を真っ直ぐ南下した。
 モカの前に立って、「えっ、ちょっと待てよ」ポケットをまさぐった。やっぱり無い。出てきたのは十円玉三枚。珈琲代は八〇円。
 玉突は常勝するから自分で払うなんてまずなかった。むしろ終わったら僅かだが掛け金が入りそれで遊んだ。
 今夜は玉突もしていない。コーヒー代もない。
 諦めて帰ろう。帰ろうとして歩く。どうしてもモカを中心にグルグル回っていた。
「征生男ちゃん」

ハッとして俯いていた頭を上げ前を見た。
「いやーっ。こんなとこでおうて。何してんのん」

 征生男は言葉もなくしばらく棒立ちになった。

「店に来て。もう直ぐ終わりやし、一緒に帰ろう」 

照美が眩い。
「オレッ、今夜、カネないし」
「そんなん心配せんでもエエ。うちが出すし」
 照美が胸をポンと叩いた。叩いた胸の膨らみが幽かにプルンと揺れた。ゴクッ、征生男は思わず眼をそらす。
「アカンの?うち、今、出前の帰りやから早よ店に帰らなアカンねんエエやろう。一緒に行こう」
 トレンチコートに手を突っ込んだまま椅子に座ってテーブルの一点を見つめてはいるものの、チラッチラッと照美の動きを追う。ハイヒールを履いた照美の長い足が視野に入り近づいてきた。ほっそりして躍動する脚線美に目をやるのも眩しく何故か罪の意識を覚える。「はいっ、コーヒー。コーヒーで良かった?後二〇分程したら終わりやねん。ほんだら一緒に帰ろう。待っててくれるやろう」
 大きく頷いて「うん」と言った積りが声にはならない。

 最終電車に乗った。
 人息れで混雑していた。アルコールと汗とが混じったすえた臭いで充満しいた。二人は吊革を握り黙って電車に揺られていた。チラッと照美を見る。
 照美の笑顔が返ってくる。慌てて眼を伏せる。
 鼓動がやたら煩
(うるさ)い。胸が詰まる。切ない何か。何でどう言う経路で照美と自分が吊革を握り密な人の中で同席して居るのか、喜びの後ろに予期せぬ運命に戸惑いつつ甘い恐れを感じていた。
 コツコツと照美のハイヒールの音が闇に小さくこだまする。所々に点いている街灯が家々の軒を淡く浮き立たせていた。並んで歩いてはいても互いの表情は薄闇の影に包まれ見えない。例え見えても征生男には照美の顔を見つめる勇気はない。
「ほんまぁ、うちに会いたいって歩いてたん。嬉しいなぁ。あれからな、絶対、征生男ちゃんまた来ると信じててん。そやけど高校生やしそんな来られへんわな。そやけど征生男ちゃんホンマに大人に見えるね。子供の頃と全然ちゃうもんね」
「照美ちゃん、いつもこんな遅いんか」
「遅番の時はね。ま、半々やねん」
「仕事は喫茶店ばっかりか」
「う~ん。事務員もやったりしたけど、結局なうちみたいな中卒は喫茶店みたいなんが時給もエエし丁度やと思ってねん。今はあそこで落ち着いてんねん」
「そうか、中卒か」
「当り前やん。うちの家は昔から貧乏やったやん。征生男ちゃんとこみたいにお金持ちちゃうし。働かなアカンねん。と言うても、ま、適当やけどね」
 オレもヒョッとしたら中卒になるかもと脳裏を霞めた。
「照美ちゃん、彼氏は?」
「アホなこと言わんていて。そんなん居れへんわ。征生男ちゃんこそ何人も居るんちゃうん。結構悪ぶってるし大人びいてるからモテるやろう」
「‥。オレな‥」

逢いたかってん、言葉が消えた。
「オレ、何?」
「‥。ええ、何でもない。それより、こんな時間に帰ってくるんやったらオレの家の前通りや」
「それって、ちょっと遠回りなんやけど、何で?」

「いやぁな、そやったら照美ちゃんが帰って来た時にオレ出て行けるやん」
「そんな遅い時間までいつも起きてんのん?」
「うん。あの窓な、オレの部屋やねん。見てたら直ぐ分かるやん」
「何でそんなことするの?。うちと逢いたいん?」

「は~いっ。逢いたいで~す」

こみ上げる熱い塊を叩き込んでワザとオドケて見せた。「ホンマ、ほんま?都合エエこと言うてんのんちゃうやろな」
「違う!オレッ、ホンマ、今夜は照美ちゃんに会いたかってん」
「‥‥」
「今までも会いに行きたかってん。今夜はどうしても会いたかってん」
 仲間と外れ、夜の街を彷徨い壊れそうな心を引きずって脆くなっていた感情が堰を切って突然込みあげてきた。思いもよらない信じがたい言葉が自分の口から唐突に飛び出した。くそっ、くそっ何で、何でや。哀惜の袋が裂けた。涙がでる。女の前で。
 白いものがスーッと視野に入ってきた。ハンカチ。そして照美の細いしなやかな指先。
 恥や。女の前で涙なんか。女に涙を拭いてもらう。恥や。唇を噛む。顎を上げ首を横向けハンカチを払う。
「征生男ちゃん…何か辛いこと、あったんやね」

 征生男の手が照美の掌の中にあった。柔らかい、幽かに冷たい感触。涙と激しい動悸。
「ウチな、征生男ちゃんと何かいっぱい話しがしたいねん。帰ってきたら征生男ちゃんの部屋の前を通る事にするわ。そやけど無理して起きとかんでもエエねんで」
「うん」

何とか声になった。
「征生男ちゃんやないの。何かエエとこ見せ付けてくれるやん」
 突然揶揄する声。ミヨ。
「そ、そんなんちゃうわい。何でそんなとこにおるねん」
 不意打ちに狼狽し声が上ずった。
「私が何処に居ろうとそんなん勝手や。たまたま通っただけや。綺麗な彼女やな。そんな彼女がおったら私等とはもう遊べへんのん。私、殆んどルニーに居るし。ほな邪魔してゴメンな」
 闇の中で街灯に淡く浮かんだミヨの顔は冷やかな眼差しの笑みを浮かべていた。
「征生男ちゃんルニーなんかに行くの。ウチのお兄ちゃんもよう行ってるらしいけど、不良の溜りちゃうの。それにあの女の人は誰?」
「うん。玉突きした後、カッちゃんと時々な。そこの常連さんや」
 胃に鋭利なものが突き刺さり胃液が込みあげ胸焼けを苦しく飲み込んだ。
「もう、あんまり行かんとき。その分、うちと逢おか!」
 照美は無邪気にも弾けた笑顔を見せた。

 

 

 少し遅れて校門に行くと既に瀬田は待っていた。北村と数人。
「嶋田も瀬田を説得せえや。仲間で止めようや」

哀しい目の北村。
「北村くどいで。これは俺の意地や。ケンカとちゃう。決闘や」

「ま、とにかく皆でナンバに出よう」

一人が言った。
「お前等、ここに居るもん以外に誰にも言うてへんやろな」 

征生男の圧する言葉に全員が頷く。
 土曜の昼。千日前商店街は未だ人通りが少ない。
 映画館の裏。法善寺横町の一つ南の路地。コンクリートの塀が続く。塀の向こうは墓地だ。墓地の中央に少し広場があった。滅多に人は入って来ない。何故かそこで時々皆でタバコを吸ったりしていた。
「お前等は来るな。ここで待っとれ」

征生男は先に瀬田を行かせ皆を制した。誰も逆らえない。潜り戸の板戸を引く。ギギーと軋(きし)む音。戸の向こうは都会とは遊離した別世界。多様な墓石が整然と並び妙に静寂が包み込んでいた。冬の陽射しがのどかに墓石を照らす。磨かれた墓石が陽射しを眩しく反射させていた。中央に水汲み場がありその前が少し空き地になっていた。二人は向き合い互いを見つめる。瀬田の表情に緊張が走る。
「やっぱり、やるんか」
「負けても恨まへん。今まで通りや」
「分かった。瀬田っ、来いっ!」

鋭い気配が瀬田を包む。張詰めている。
 瀬田はボクシングのジャブの構えをした。そうか、コイツと一緒にボクシング部に入ったんや。征生男はボンヤリ思い出した。三年の部長が征生男を口説いて来た。縛られたくない。
「エエねん。練習はせんでエエねん。席だけ入れてくれや。嶋田が入ったら他も入ってくるはずや。もちろん一生懸命やってくれたら一番エエねんけどな」
 横に居た瀬田が入りたいと言った。嶋田が入るのならボクシングやりたいと、それで何となくしばらくボクシング部に席をおいた。席だけ置いて顔を出した事がなかった。相撲部、バスケット部、空手部の主将が同じように勧誘に来た。全部を転々と周り全て抜けた。瀬田は止めずに試合にも出ていた。
 征生男は体を斜に両手をダラリと下げ瀬田を正視した。
 フットワークを使い今にも一撃が飛んできそうな瀬田の構え。ビューンと耳の横を一撃。首を傾げるだけで簡単に避けれた。二発、三発と瀬田の拳は空を切る。

四発目は腕で思い切り払いのけた。
 瀬田の顔が一瞬歪んだ。
「やめよう」が声にならず、つーんと白けた冷たいものが胸を掠
(かす)めた。何故そうなるのか。顔面に痛撃が走った。左頬にフック。続いて左の股に鈍い衝撃。スボンに瀬田の革靴の土のついた足跡がクッキリ張り付いた。
「本気、出してくれや。本気でやってくれや」

叫び声がどこか切ない。瀬田の右手が顔面に飛んできた。左に体をかわし右手で瀬田の右手首を掴みグイッ引く。瀬田は反射的にグゥーっと力を込め右手を引いた。その時は征生男の右足が瀬田の体の向う側に、瀬田の引く力に合わせ右手を瀬田の喉元に押した。
 瀬田は呆気なく仰向けに倒れた。
 サッと馬乗りに跨ぎ両膝で瀬田の両腕を押さえ込み、左手で頭部を押さえ右手はしっかり首を掴んでいた。
 掴んだだけで力は入れていない。起き上がろうとするが足を空しくバタバタするだけの瀬田。目は鋭く征生男を捉えたまま。
「もうええやろう」

自分でも穏やかと思うほど静かな声。
 瀬田は首を左右に振ろうともがいた。掌にズンと力を加える。瀬田は動かなくなった。征生男はサッと立ち上がり瀬田の手を引き上げた。見開いた瀬田の目に涙が溢れ出ていた。僅か数分の時の流れ。冬の日差しはやはり穏やかに墓地を包む。
 何の音も聞こえてこなかった。時が静止したように対峙し相手の目を見つめ合ったのも、実は何十秒か。
「嶋田、おおきに。俺、今、メチャ嬉しいねん」
 笑顔の戻った瀬田の目にはまだ泪が溢れていた。

 

 

性遊戯

 

「カッちゃん、帰って来たんやん。お帰り」
「叔母ちゃん征生男ちゃんは」
「それがな、カッちゃんが行ってから帰りがいつも遅いねん」
「そうかぁ」
 キツかった。親父がこの現場をやり遂げたらエエ仕事がドンドン入って来る。仕事は来るが単価の低い儲けにならん現場ばかりとこぼしていた親父の面子を立てようと修平の言葉に勝之も頑張った。悪天候も影響して山奥の仕事は苦闘の限りで予定を大幅に過ぎてやっと大阪に帰って来た。家に帰るより先に征生男に会いたかった。兄の修平は親父への報告もあり鶴町の家へ先に帰った。
「そやけど、もう帰って来ると思うで。カッちゃんしんどかったやろ。ご苦労さんやったな。お父ちゃんが修ちゃんとアンタが頑張ってるって嬉しそうに言うてたわ。そやけど征生男はな、何かカッちゃん居れへんかったら淋しそうでな。ほんでなかなか家に帰ってけえへんみたいやな。学校が終わってあの子何処へ行ってんのかな。カッちゃんやったら知ってるね、叔母ちゃんに教えてくれへん」
「征生男ちゃんが言うてへんねんやったら何ぼ叔母ちゃんでも言われへん」
「そうか、男同士の契りって言う訳やね」
「へへへっ、ま、そんなとこかな」
「ほな、叔母ちゃんも聞くのん止めとこ。そやけど寒かったやろう」
 数多い甥の中でも勝之は殊更可愛いかった。征生男と従兄弟同士の二人が兄弟を凌ぐ仲良しにいつも心を慰められていた。
 勝之は兄の修平より利発だった。この兄弟仲は良かった。
 征生男は自分の兄の正紀より修平、勝之兄弟と気が合っているようでそれはそれで微笑ましく映る。正紀と征生男はまるで水と油のように相容れない。正紀は従兄弟間でも常にリーダー格で優秀と言う評判で皆より一歩前に出ていて慕われているのに、征生男は修平、勝之兄弟としか遊ばなかった。兄の息子達というより征生男の一番仲良しと楽しく認めていた。
「叔母ちゃんな、今度の現場はそらぁキツかったわ。飯場だけでな何もあれへん。寒いのはしゃないとしても風がエゲツナかったな。そやから早よ帰って征生男ちゃんと遊びたい、そればっかり思って来たのに、あのアホどこへ行ってんねんやろな」
「うふふふ、何処へ行ってんのかはカッちゃん知ってるんやろ」
「うん。まぁ、だいたいアイツの行動パターンは分かってねん」
「そやから、それを叔母ちゃんに教えて言うてんねん」
「アカンって。僕らには僕らの世界があんねん。何ぼ叔母ちゃんやから言うても教えられへんな。ゴメンな」
 ガラッと玄関の戸が開く音がした。
「カッちゃんやろう。カッちゃん帰って来たんかぁ」

歓喜を露わにした征生男の声。
「ウホォ~イ。帰って来たでぇ」
「長かったなぁ。どやった向こうは。オモロかったか」
「何言うてんねんな。もうさんざんやったわ。兄貴等と居ってもオモロないやん。何かずっと一人みたいでな。お前に会いたかってん」
「オレも、オレも。カッちゃんの居らん人生なんて考えられへんで」
「ウワーッ、俺もやーっ」
「何か、お前等、仲のエエのん通り越して愛し合うホモやん」
「叔母ちゃん上手いこと言うやん。俺らホモ以上やで」
「叔母ちゃんな、お前等見てたらホンマに楽しいわ。征生男ちゃんお腹減ってんねんやろう。カッちゃんは何か食べたん」
「ううん。叔母ちゃんの料理楽しみに帰って来てん。何せな俺のオカンの料理言うたら何ちゅうかな、変化がないねんな。文句言うたらアカンから黙って喰うてるけど、アレって不味いわ」


「アンタの歳は純愛が一番。エエ感じやったで。私、羨ましかったな。征生男は私のもんにならへんな。そやけど、時々は遊ぼう」
「ミヨちゃん。これ以上征生男を誘惑したらアカンで。それで純愛って何のことやのん」
「早苗ちゃんな、征生男のお姉さんみたいやけどな、この子はしっかり彼女居るねん」
「煩
(うる)さいな。ミヨちゃん勝手なこと言うなよ」
「アホ臭。ほんだらこないだのあの子は何やねん。エエってエエって、別に私はアンタをどうこうしようなんて思てへん。何や、アンタ高野をやった言うやん。アレ聞いた時、胸がスカーッとしたわ。アイツなガキのクセして私につきまとうねん。うっとうしいかったわ。やっつけてんやろ」
「もう、ケリついた話や。どうでもエエねん」
「征生男。純愛って何?」
「ハハハハ、早苗、気になるんかい。純愛は純愛や。そやけどなホンマ綺麗な子でな、背がスラーッとして足は長いスタイル抜群の上に目がバチッやろう、鼻筋がこんなんや、スーやろ、口元が又可愛いってきてる。ま、アレだけの美人はちょっと居らんで。残念やけど早苗も負けやな」
「そんなん勝つも負けるも私は関係ないやん」
「ホンマか、何や見てたら征生男のお姉ちゃんぶってるけど、私が 征生男を誘うた時のあの顔はちょっと尋常とちゃうかったで。そやけど、もうアカンわ。征生男いうたらなそのオネエチャンに手を、こう、握られてや、ほんで涙なんか流して泣いてハンカチで涙を拭いてもろて、ああぁたまらんでアレ」
「ウルサイッ。黙れ」
「ホラな、これや」
「何でそんなコト言うねん。早苗ちゃんに関係ないやろ」
「アンタな。一回は私と寝たんやで。分かってる。アンタは遊びでも私はな、遊びも本気もあってん。征生男とあのオネエチャンが電車から降りたのを見てな、気になるやん。ついついつけてしもうてな、ゴメンな、ずうっと見とってん。怒らんといてや、何か羨ましいのと二人がな何て言うんかな、私なんかにはないキレイな世界の中で、そうやな輝いて見えたんや。エエな、エエな、あんなんエエなぁと見てしもうてん」
「そうやったんか、征生男ちゃん。やったやんけ。そやけどお前っちゅう奴はケンカもそうやけど女にも隙なしやな。ああ、それに比べたら俺なんか山奥で寒い思いをして、女いうたらメシ炊きのオバハンしか居らんと、マスばっかりかいてアホやで」
「カッちゃん。マスなんかかかんでエエ。ウチがエエ気持ちにさせたる」
「ホンマ!俺なんかイヤなんちゃうん」
「そんなことないよ。カッちゃん可愛いもん。それに征生男に振られたも同然やしな。アンタみたいな男の子とゆっくり遊びたいわ」
「ワーッ。ミヨちゃん遊ぼう遊ぼう」
「もう、二人とも品が無いな。征生男ちゃん。その子、好きになったん」
「もうええからオレのことは放っとってくれ」
「征生男、それはないやろう。早苗はなぁ、アンタをいつも気にしてんねんで。彼女出来たら出来たってちゃんと言うたりぃ。ほんでな、もう私等とは遊ばれへん。これからは彼女だけに誓いをたてますぅってな」
「ミヨちゃん。エエ加減にせぇや。オレ、怒るで」
 バタンとドアが開いた。
「歌子、何しに来てん。」

ミヨの目が一瞬尖った。
「征生男、やっぱり居ったんや」

歌子はそのまま征生男とミヨの間に入り込み征生男の腕を絡めとった。
「もう、この子はこれやから。自分勝手なんやから」
「高野やってんて。アタシが余計なこと言うたさかいアイツいきり立って半殺しにしたるなんか言うてたから、アタシはホンマ心配で心配で、そやけど征生男やってんてな。アンタ凄いわ。それを聞いてからアンタに会いとうて会いとうて、な、な、やっと会えたやん。嬉しいっ」
「ボケかコイツ、最低や。征生男と私を引き裂こうとして高野なんかに要らんこと言うてな。そやけどアカンで。征生男にはちゃんとエエ彼女が居るねんから。お前みたいなスレッカラシなんか相手せぇへんて」
「エエねん。誰が居っても征生男と少しでも居れたら」
 歌子は美人ではない。
 長い髪。少し下がった目に憂いがあって小さいが鼻筋が通り少し厚い唇が妖しく愛くるしく。適度な胸の膨らみ、締まった腰。それらがそそるように征生男の官能の中にズンズン入り込んでくる。腕に歌子の胸の膨らみが温かく伝わる。
 目の前に早苗がいる。早苗の前ではお利口でいたい自分。それよりも思考の全てに入り込んだ照美が自分を見ているようで、にも係わらず感覚の全てが今、歌子の密着した体の温もり、熱く触れてくる吐息の感触で動転している。
「アカンわコイツ」

とミヨが勝之の横へ席を移した。明美もミヨに合わせて勝之の前に移った。健ちゃんはカウンターの端でタバコを吹かしジャズに聴き入っている。

 歌子は征生男の掌を握ったままドアをもどかしく開け、部屋に入るといきなり征生男の首に両手を回し抱きついた。小柄な歌子はそのまま爪先立って征生男の唇に唇を重ねてきた。
 激しく舌を絡め隙なくまさぐる。吐息に熱がおびる。
 二人はバランスを崩して思わず倒れ込む。下になった征生男の背に畳の感触が堅く伝わった。
 唇を離さない歌子の熱を帯びた柔らかい肉の感触が胸苦しく官能を煽り立ててきた。歌子は唇を離すとそのまま征生男の首筋に舌を絡ませ舐め回し、右手は征生男の胸元のシャツのボタンを一つずつ器用に外しながら左手は征生男の股間を妖しく這い遂に征生男の熱く漲った男自身を捕らえた。

脳髄に狂おしい衝撃が飛び込んできた。衝撃は理性と思考を感情の扉の向こうへ押しやり、熱い官能が溶解しドロドロの欲望となって動物的な行動に駆り立てた。その狂おしさのままゴロっと転がり征生男は歌子に覆いかぶさった。
 下から歌子が唇を重ねたまま征生男の上着を剥ぎ取ろうとする。征生男も歌子の胸元のボタンを外し衣服を剥がす。ブラジャーがあった。色黒の歌子の肌が赤く染まり波打って喘いでブラジャーの紐が細く絡んでいた。肩にかかった紐を外側へずらす。ブラジャーをそっと下げた。そこだけが浮き出たように白い肌。幽かにピンク色に染まり弾けそうな盛り上がりが揺れていた。顔を埋める。柔らかさが熱く伝わる。頬をはわし密着したまま横へ移動する。柔らかい弾みのある膨らみ。乳首を口に含む。手は無意識に弾みのある乳房を揉み上げる。歌子は弓なりに身体を反らし胸を左右に揺らし喘ぎ、切なく細い吐息が尾を引いた。

 
 故郷の鹿児島から先ずミヨが大阪に来た。
 ミヨは迷うことなく水商売に入った。そして後を追うように歌子も鹿児島からミヨを頼ってやって来たのが一七歳の春。
 父親は歌子が五歳の時三池炭鉱の落盤事故で亡くなった。母は故郷の鹿児島に戻り弟二人と自分を含め三人の幼児を女手一つで育ててきた。中学を卒業して直ぐ働いた。養豚場で働いた。傍目には過酷で汚い仕事ながら動物が好きで年長の人達が優しく思いやりのある接し方をしてくれる居心地の良さで長く居た。

やがて母に男が出来て家に居つくようになった。
 トラックの運転手をしていた男は母より五つも年下で、母が働く居酒屋の客だった。普段は明るい気遣いが行き届いた男だったが、酔うとひつこく絡む癖があって歌子には受け入れられないイヤなタイプだった。ある日、母の居ない昼下がり男は酔って帰って来て勤務明けで寝ていた歌子を犯した。

歌子を犯した後の男の寝顔を見ていて汚ならしさと屈辱の憎悪、それに母を思いこのまま家に居れないと、家を出る決意をして大阪に行った先輩のミヨを頼った。
 故郷の鹿児島しか知らないで初めての大阪、当初はミヨのアパートの部屋で居候を決め込んでいたが、ミヨの男出入りの多いのに居辛くなった。ミヨが連れ込んだ男と六畳一間に歌子も横で小さく寝ていた。
 歌子はミヨのように水商売には入りたくなかった。当初は町工場の清掃員の仕事を始めた。その日は清掃の仕事がいつもより遅くなった。当番の中年の上司と仕事が終わり事務所のソファーで一緒にビールを飲んだ。犯された。抗しきれないとと覚った時、裸電球を涙ぐみ見つめた。次の日から歌子はその工場に行かなくなった。
 何でも良かったのに次の仕事が思うように見つからない。ミヨの部屋で一人籠る夜が多くなって寂しく頼りない不安がいつも付きまとって悶々とする日々だった。そんな時、ミヨが時々連れ込んできた男がやって来て「歌ちゃん一人かいな。何か寂しそうやなぁ。ヨシッ今夜は俺と一緒に飲もうか」警戒もせず一緒に飲んだ。酔った歌子に男は覆い被さってきた。

明日が見えない哀しさと酔いが投げやりな気持ちにさせてもうどうでも良いと歌子は抗わず男の成すがまま体を開いた。男の巧みな性戯にその時初めて性の歓喜を覚えた。
 男はミヨの居ないのを見越して連日やってきて歌子を抱いた。好きではない、むしろ嫌な男だったが哀しみが底をついて自分の未来が閉ざされている。本当にどうでも良いような、性の快楽の僅かな時だけ自分が別の自分でいられる安堵感、それにしても行為の後の更なる虚しいさは増幅する一方で、少しづつ荒んでいく自分を覚めて見つめていた。
「アンタら、何やってんのん」

ある夜、行為の最中にミヨが不意に帰って来た。歌子は思わず男を突き飛ばし離れ、衣服を鷲掴み全裸の前を隠した。パチン。ミヨの平手が歌子の頬を打った。
「アンタな、歌子はまだ子供やで。何てことしてくれたん。出て行け。サッサと出て行って。もう二度と来んといて。このケダモノが」
 男は飛び出していった。
 ミヨは歌子の頬を再び打って、歌子を抱きしめ泣いた。
 歌子は昼はパチンコ屋。夜は二日に一回の割りでミヨの行くバーも手伝ったが、荒んでいく歌子にミヨの叱責が畳みかけて激しいケンカが絶えなかった。一年後、ミヨの部屋を出て隣の部屋を借りて一人で住むようになった。
 別の洋酒喫茶で働くようになった。客に進められるまま酒を飲んだ。酒も強くなって飲みっぷりがママに気に入られ給金も倍ほどになり時折店を任されるようになると、絶えず男達が言い寄ってくる、適当にあしらうのも長けてきた。適当に寝た。男たちはその都度歌子に金を与えた。性行為を通じで愛とか恋とかはまるで生まれなかった。汚物が身体の中に徐々に溜まっていく汚らわしさが自分には分相応なんだと虚しさと哀しみを背負ったまま淡々と過ごす日々だった。
 征生男を見た瞬間、歌子は今まで覚えたことの無い感情が激しく胸を打った。真っ直ぐに見つめてくる眼。その眼はいつも挑戦的なのにフト眼を伏せたときの蔭りが哀しいもののように歌子の芯に鋭く突き刺さり感性の奥を揺るがしてきた。
 自分と何か共有するような、掴まえ所の無い哀しい何かが自分と同じように征生男から匂いが刺激的に伝わってくる。魂に直撃してくるようで官能が震えた。抱きたい。初めて自分から男を抱きたいと思った。
 独り占めにしたい。ミヨには取られたくない。ミヨとも共有したくない。ミヨに尾きまとう高野を煽ってミヨを引き離そうとしたが、思惑は外れ高野は征生男を制裁すると息巻いた。
 自分の愚かさに腹を立てながらも征生男を案じていたら高野が征生男に敗れたと聞いた。その瞬間、眩暈が、熱いものが体を激しく駆け抜けた。
 時々仕事を早く引き、ルニーを覗く。征生男は居ない。
 高校生とは思っていなかった。年下もどうでも良い。
 瞬時でも良い。征生男を独占したい。征生男と溶き込めたい。

 征生男と歌子は全裸のままお互いを激しく求める。歌子が初めての征生男。それなりに鍛え上げた若い身体は何度精を放っても終わりがないように歌子の中で狂おしく弾けていった。

 兄の修平達に連れられて九条の松島新地に女を買いに度々行った。春を売る女は勝之より遥かに年上の年増だけ。小柄で悪戯っぽいくクリッとした眼がいつでもどの年増にも可愛がられ、性戯の手練手管を教えられた。それを近所の不良少女相手にも実践して楽しんだりもした。それは征生男にはない世界だった。硬派の征生男はそんな勝之をいつも諌めてきた。しかし、もう征生男と言えど仲間入りしてきた。自分は今、ミヨと全裸でキャキャと戯れている。征生男は隣の部屋で歌子と、アイツのことやからセックスも真剣にやっているはず。真剣になったらアカン、遊びにせんとアカンな、アイツが惚れてるのは照美ちゃんや、多分、真面目に悩むに決まってる。ミヨと溶け込みながら勝之は征生男が妙に気になった。

 

 

混迷

 

「そんな言い方ないやろう。何で俺が横溝先生の回し者やねん。そらな横溝先生は尊敬している。先生もお前を気にして俺に連れて来いと言うてた時もあった。今は違うなお前を危険視している。それがな俺には納得でけへんねんな。俺は俺でお前を見てんねん。先生等が思うように嶋田、俺はお前をなタダの悪とは思えへんねん。そやから一回な嶋田等がいつも学校終わって何処で何してるのかメッチャ興味があるねん」
「菊池、俺もお前を買うてる。優等生だけとちゃうとな。そやけどお前は優等生でエエやんけ。わざわざオレ等のアホな遊びに付き合うこともないやろう」
「優等生、優等生って言うな。そう言う眼で俺を見んとってくれ。俺かって普通の高校生や。勉強だけと違うて色々遊びたい」
「菊池、お前、彼女とかおるんか」
「あっ、それ言われるのん一番辛いな。小学校の頃は好きな子も居ったけど、何て言うか女の子と付き合うなんてアカンな。そら、彼女は欲しいとは思うてるけどな」
「ほな、お前、童貞か」
「当り前やんけ」

「うわーっ、井川久しぶりやんけ。それに菊池、お前みたいな優等生がなんでまた、こんなとこへ。今日のメンバーは異色やでぇ、おいおい皆そうやろう」

北村が大げさに騒いだ。
 夕暮れにはまだ早い。道頓堀の玉突屋は相変わらずのメンバーが先に来ていた。他に客はまだ来ていない。ローテーション五台、四つ玉三台、スリークッション一台とそこそこの店だ。店内にはニールセダカの「恋の片道切符」が小さく流れていた。

夕方七時までは学生割引があって半額で遊べる。学校が終わると皆はまずそこに行った。
「オッ、北村元気にしてる。役者の方はどうやねん。チョコチョ映画に出てんのか」

両手をズボンのポットに入れすくめ肩を左右に振りながら井川勝之がニコニコ人懐っこく北村に話す。
「ウン。こないだな勝新の映画『悪名』にチンピラ役でチョイ出のな、台詞なしの殴られ役だけやったけどな」

北村はタレント養成所の劇団に所属して将来は俳優を目指していた。
「菊池、どや、やってみるか」
「おおうっ、やりたいやりたい。教えてくれるんやろう」
「北村、菊池に教えたれや」
「北村、おおきにな。オモロかったわ。これから俺もチョコチョコ寄してや。それにしても嶋田は抜群に上手いんやな」
「そやろ、勝たれへん。おんなじようにやってんねんけどな、嶋田だけがグングン腕上げよんねん。何か天性のもんがあるんやろうな」
 薄暗いコニーの地下で征生男等一行はいつも溜まる。
「菊池、まさかやろうけど俺等がここで溜まってるって先公らに言うなよ」
「北村、お前、俺のことそんな風に見てるんか。ガッカリやな」
「心配すな。優等生やけど菊池はそんな奴とちゃう」
「そやな、嶋田の言う通りや。菊池は優等生やけど何かちょっと変わってるな。俺もコイツ好きやねん」瀬田。
「嶋田、ちょっとエエかな」

村田が遠慮勝ちに声をかけて来た。
「あのな、俺、人にレコード貸してんねん。ほんで明日返してもらうねんけど、付き合うてくれへんかな」
「何で、返してもらうだけにオレが行かなアカンねん」
「うん。たいした理由はないねん。一人で行くのがちょっとな」
 村田は中学三年の時に転校してきた。
 家はセロファン工場をしていて裕福な感じで、お坊ちゃん然としていきなり周りを呑んで来た。征生男は一度それを強く諌めた。以来、征生男の後をいつも付いて回るようになった。
「そうか、何か知らんけど一緒に行ったるわ。レコードってそんなたいそうなもんか」
「嶋田も好きなプレッスリーの三枚組やねん。返してもうたら当分は嶋田に貸してもエエし」

「おおっ、それやったらオレも聴きたいな。それにしてもレコード返してもらうのに付き添いが要るんかな。まぁエエわ。一緒に行ったるわ」

「征生男ちゃん、照美ちゃんとこへ行こうか」

勝之が耳元で囁いた。
「えっ、お前イヤとちゃうんか」
「エエねん。お前一人ではよう行かんねんやろ」
「まぁな」
「ほな、行こう。菊池も連れて行こうや。他のヤツ等はどうも冴えへんけど菊池やったら何か話しが出来るやん。ほんでアイツな征生男ちゃんと何かもっと喋りたいらしいで、皆が居らんとこで」
 照美は居なかった。
「あのぅ、山崎さんは?」

勝之がお絞りと水を持ってきたウエイトレスに尋ねた。
「へぇ、君、照美ちゃん好きなん。あの子、綺麗やしな毎日そないして誰かが訊いてくるわ」
「そうそう、俺も大ファンやねん。出前でも行ってんのかな」
「ちゃうねん。今日な突然、家の事情で休ませてと連絡あったらしいんや」
 どんな事情と思わず尋ねそうになったが、それを訊いても無駄と征生男は覚った。

 
 終電が通り過ぎてやがてコツコツと闇に響く靴音。
 その時間、耳はそれのみを捉えようと緊張していた。窓を開ける。前方に照美らしい姿が街灯を背にシルエットで浮かぶ。
 手を振っている。素早く、そして音を立てないように階下に降り、そぉっと玄関の戸を開け闇の外に飛び出し一気に駆けた。
「征生男ちゃん」
「お帰り。疲れた?」
「うん。今日はちょっとキツかってん」
「そうか、ほな、早よ帰って寝なアカンで」
「そやな、そやけど折角待ってくれててんから、ちょっと位話ししよう」
 嬉しい。と、思う。が、何処かで後退りしてまう。
 歌子とのことは照美が知る由も無い。なのに呵責だけが心に大きな位置を占めて気が引けていく。
「今日な、メッチャ忙しかってん。ほんでな通しやったからもうクタクタ。そんな時な、征生男ちゃんがけえへんかなぁ、なんて思ったりして。ううん、そんな言うて無理して来たらアカンで。店に来んでも帰りにこうして会えるもんな」
「そんな、オレなんかと会えて嬉しいん?」
「ふふふん。どうやろう。征生男ちゃんは?」
「う~ん‥」

「そんな考えなアカンほど嬉しないんや」

「そんなちゃう」
「ほな、嬉しい?」
征生男にとってそのひと時が蕩けそうなそれでいて切ない、あれから二度程あった。で、今日、家の事情って何か引っかかる。


「オレなこないだ、聞いてん。嶋田、お前条件付進級やてな」
「それっ、どう云うこっちゃねん」勝之。
「そうか井川君も知らへんかったんか。横溝先生に呼ばれてな、嶋田が二年には進級できるけど何かちょっとでも間違いがあったら即退学の条件付きになったから俺に嶋田といつも一緒に居って間違いないようにせえちゅうねん。それ聞いて俺もなほっとかれへんやん。嶋田がショウムない事でもして退学にでもなったらアカンやん」
「お前、横溝とつるんでんのんちゃうか」
「やっぱりか。嶋田も俺にそう言うたな。俺はな嶋田が好きやねん。悪やって皆が言うけどワルとちゃう。ただケンカだけしてるねん。そのケンカも卑怯なことなんかあれへんやん。中学校の時は首席みたいや言うし、やっばりな、高校に入って環境が異常やねん。それは俺ら一年だけの事やな。何で上の学年の倍も入学させたんや。噂では大学にカネが居るからなり振り構わず数だけ入学させたちゅうやん。ほんで嶋田がそんな環境の中へ体当たりしてきたんや。そんな環境に負けんと嶋田がホンマの自分を取り戻して欲しいねん」
「菊池。お前、それは皆、横溝の受け売りやろう。オレに変に構うな。オレはやりたいようにやる。お前等の指図は受けへんで。お前が俺らと一緒に遊びたい言うから付き合うてるだけや。要らんお節介するねんやったら今日で終わりやな」
「何言うとんねん。ケンカばっかり強いのが何ぼのもんじゃい。ほんだら何か、このまま行って、また何かでケンカして結局は退学になってもエエちゅんかい。そんな何の意味も無いやんけ」
「何でオレだけがケンカしたらアカンねん。オレもケンカは好きとちゃう。自分ではせえへん。そやけどそうなってしまうんや。男はな逃げたらアカンねん。負けても逃げたらアカンねん」
「それがアカンねん。いつもなそんな風に構えてるからケンカが向こうからやって来るねん。逃げたらアカン言うんやったら、俺等高校生やろ、一番逃げたらアカンのは勉強やろが。お前はただなカッコつけてんねん。弱いのを見せたらアカンってな。そやけど、高校生が勉強から逃げるのが一番弱いのんちゃうか」
「お前、どつかれたいんか。オレが弱い?屁理屈ぬかすな」
「征生男ちゃん、怒ったらアカン。俺は菊池に初めて会うけど。コイツは殴られてもエエ覚悟で腹くくってお前に言うてるで。難しい事は分かれへんし学校なんかどうでもエエと俺は思う。そやったら学校止めたらエエねん。そやけどお前学校行ってるやろ。ほんだら菊池の言うのも、そうやなあと思う」
「‥‥」
「横溝先生とお前は対立しているけど、俺はそんなんどうでもエエねん。嶋田がやっぱり退学なんかになって欲しいない。そらな中学校から上がった仲間を守るのはエエと思うで、そやけどもう一年が経つねん。学校はそれだけか。俺は他の中学校から此処へ来た。殆んどそうやんけ、一五〇〇の五〇なんて一部やろう。それも二〇人程が未だに付属中出を鼻にかけてるな、そんな俺らの眼から見たらハッキリ言わしもうたら変やで。逆に反発するもんもいっぱい居るんやで。皆、嶋田が怖いから表面は黙ってるけど、影では色々言うとる。影で言うヤツなんかはどうでもエエけど、な、これからはちょっと考て行こうや」

 母が泣いて諭してきた。
 平川先生が「このケンカに負けたらアカン」と言う。
 菊池が必死で訴えてきた。勝之も考え込んでいた。
 だから何をどうせえと言うのか。勉強さえしてたら良いのか。勉強してもケンカ一つしたらアカン。が、逃げるのは絶対許されない。
 にしても照美を想うと何故こう胸が苦しくなるのか。歌子の哀しいような眼差しと愛撫が忘れられない。
 家に帰りたくない。それでは母が哀しむ。母が哀しむようにはしたくない。


 

闘魂

 

「村田、何処まで行くねん」
「うん、もっちょっとや。ゴメンな嶋田」
 良からぬ何かを本能的に感じていた。学校から地下鉄をナンバで降りたのはいつもと変わりが無い。千日前を抜け千日前通りを東に日本一の交差点の堺筋を渡った。千日前、戎橋筋、道頓堀、心斎橋筋が征生男達の生息する地域だが、堺筋を越えるのは初めてだった。堺筋を渡り二つ目の辻を左に折れた。小さな喫茶店があった。
「ここやねん」

村田は何故か極度に緊張した感じで声が弱々しい。
 村田がドアを開ける。その後に続く。店内は暗い。明るい戸外から入って直ぐには視界が暗く眩んでしばらく様子が掴めない。
「おう、遅かったな、村田」

奥の方でドスの効いた声が飛んできた。
 征生男の体にピリリと殺気が走る。
 奥のボックスに五人ほどが居る。二人は女。背広にネクタイ。しかも派手な色の背広。全員リーゼントの頭髪。男二人は女の肩に手を回し足を鷹揚に組んでいる。
 一人は黒いサングラス。
「ほんで、カネ持って来たんかい」

サングラスの男。
「ハイッ。一万円」
「ようしよし。エエやんけ。ほなレコードと学生証これや」
 征生男は警戒し、うつ伏せに目立たないようにしていた。
「ありがとうございす。ほな、帰らしてもらいます」

レコードを受け取った村田の消え入るような声。
「おお、またな。ちょっと待て。ソイツは何や」
「ええっ、僕のクラスの友達です」
「そうか、ほな、早よいに」
 征生男の額には冷たい汗が浮く。征生男は先に店を出た。村田が続いた。外に出ても緊張がまだ解けない。
「悪かったな嶋田」

村田の声が終わると同時に喫茶店のドアがバーンと開いた。
「おい、お前、待たんかい」

バネ仕掛けのように村田は引いた。
「何か生意気なガキやのう」

サングラスの男が征生男の正面に立った。後の二人は左右に征生男を囲んだ。村田は輪の外の遠くに居るような、俯き加減の征生男の視界にはない。
「ワレー、挨拶ちゅうもん知らんのかい」
 高校生の悪ガキとは違う、大人の修羅場を積み重ねたような凄みで威圧される恐怖。
「高校生のガキが帰りしなに頭一つよう下げんのかい」
「学生証出せ。それをな村田みたいに一万円で買い戻しに来い」
「返事もようでけんみたいやな。痛い目に会いたいらしいな」

三人それぞれが凄みのある威圧をかけ脅してきた。
 恐怖とはこんなものか。言葉一つ出てこない。体がガチガチで身動き一つ出来ず、その上呼吸一つするのが苦しい。

やられると思った。
 初めて逃げたいと思った。今なら確実に逃げられる。
 兄の正紀に一方的な暴力を受け続け、小学校低学年には数人に囲まれ小突き回されて以来、やられると言うのはなかった。 

やられる。やられるってどんなんなのか。
 全身の血の気は引き手足の尖端が冷たく固まる。
「どないやっ。聞かれへんねんやったら高校生でも手加減せんど」  正面のヤツのエナメルの革靴がスーッと尖っている。
 オレは逃げへんねん。怯える自分の全霊に激しく熱い玉を投げかけ大きく首を左右に振った。
 すーっとエナメル靴の尖端が視界から消えた。その瞬間、顔面に激しい衝撃と熱い火花が散った。思わず鼻柱に手が行った。
 どっぷり赤い血。自分の赤い赤い血が。ドボドボと出てきた。

痛いはずが、この瞬間に噴出した猛る感情で痛さも恐怖さえも払拭させていた。こんなに血が出てくる。妙な感じだ。血は赤いんや。自分の血も赤いのだ。
 ドーンと背中に重い衝撃がきた。蹴られた。前のめりになる。衝撃を利用して前に受身を使って転がった。その時には既に予知しない動物的な本能が闘争への行動を計算していた。その勢いで仰向けのまま足を思い切り延ばし、エナメル靴の黒いサングラスの男の胸に延ばし足を鋭くたたきつけた。
 一回転。征生男は起き上がる。
 男はヨタヨタと尻餅を付き仰向けに倒れた。
 征生男は立ち上がりざま迷わず男の顔面に膝を垂直に落とした。クキンッというような感触が膝にきた。多分歯が折れた。
 間髪を入れず更に重い衝撃が背中に。そのまま又、前に転がり一回転。別の男の足がスーッと伸びて征生男の顔面に飛んできた。避けられない。後頭部に鈍い衝撃。一瞬、目眩
(めまい)のようなもの。が、すかさず体ごと相手に飛び込んだ。男は右足をずらし両手で受け止めたものの体勢が崩れていた。男の頭髪を両手で掴んだ。それを力の限り引っ張り上げそのまま頭突きを叩き込んだ。
「ウギュッ」鈍い悲鳴。鼻っ柱を捕らえていた。
 男はよろけた。征生男は構わず躊躇いなく右手で掴んだ頭髪を思い切り持ち上げ自分の膝に叩き込んだ。
 正確に鋭く二度、三度。
 男の全身から力が抜け、両腕を垂らしもたれこんできた。
 キーンと後頭部に鋭利な衝撃が突き抜けた。思わず膝を着きそうになるのを
「うわおー。」

悲鳴でない雄叫びを上げ全身の力で振り返った。三人目の男がビール瓶を右手に構え中腰で身構えている。
「うーうーうわあー、」

征生男は右手を振ろうとした。持ち上がらない。
 頭髪を掴んだ掌が硬直して開かない。グイッと引っ張る。頭髪を掴れた男は辛うじて着いてくる。
 息が上がる。
 それでも際限なく沸いてくる憤怒と闘魂。
 赤い赤い自分の血を見た瞬間、征生男は猛々しく豹変していた。怯えも、震えも一切が砕け散って爆発する怒りのまま体が勝手に動き出した。かつて覚えのない高まり。
 やられるなんてどうでも良かった。闘えるまで闘う。
 ビール瓶を構えた男と征生男は正面で向き合った。
 かじかんだ右の拳は男の頭髪をガッシリ掴んだまま。呻きのような籠った小さな声を上げながら征生男に引っ張られるまま這いずって着いてくる。
 カッと見開いたままの目で、一歩、二歩とビール瓶の男に近づく。男は後ずさみながらビール瓶を左右に振り続けている。
 突然、腹部に鈍痛。サングラスの男がエナメル靴の先を横合いから喰い込ましてきた。
「ウッ」と前屈みになった時、視野の上部からビール瓶が垂直に降りてくる。スローモーションのように如何にもゆっくりと。
 精一杯蹴りを入れて来たサングラスの男は余力もなくフラッと棒立ちのまま。ビール瓶を外そうと征生男はサングラスの男に跳ねるように飛び込み体当たりをした。
「ウッギャーッ」腸をえぐる悲鳴が一段と響いた。
 右手が勢いで頭髪から離れた。握り締めたままの拳に引き抜かれた頭髪が残る。呼吸が止まりそうに息が上がる。
 体勢が変わりビール瓶の男がじわっと追詰めて来る。サングラスを外して男が立ち上がり、鮮血に塗られ化け物のような形相で詰めてきた。
 後頭部が突然激しく痛みだし視界がユラッと揺らいだ。ガクッと膝が折れた。そこを空を切ってエナメル靴が飛んできた。勢いが無い。ユックリ視界に入ってきた。その足を両手で抱え又跳ねるように体当たり。
「ウオーッ」短い叫び。男の足はやや捩れ仰向けに倒れ、征生男もそのまま男の上に倒れこんだ。
 横合いからビール瓶が飛び込んできた。避けられない。
 右腕で受ける。俊敏な速さでビール瓶が連打してくる。
 狙いは的確で無い。不利な体勢のままただ右腕で受ける。右腕が痺れてくる。粗い呼吸のまま有利な体勢が取れない。
 横に転んだ。二転三転。起き上がる。
 一人は頭を抱え込みうずくまり、一人は右足を両腕で抱きこみ仰向けにもがいている。一人は無傷で元気だ。
 肩で大きく激しく呼吸する征生男。それでも、元気な男は自ら踏み込もうとせず、ただ、前屈みでじっと構え征生男を見据えている。
 パトカーのサイレン。
「ポリや。ヤバイ」

男は大きく叫びビール瓶を投げ捨て慌てて倒れている二人の手を引っ張ってふらふらと去って行く。
 初めて気づいた。人だかり。村田の姿は見えない。
 迷うことなく野次馬の群に突進。群を掻き分け走った。
 喘ぎながら感覚では走っているが歩くに等しい。それでも、走った。路地から路地。 何処を走っているのか。とに角、逃げる。
 ケンカ、警察、退学。頭の中をそれだけが巡る。
 人気の無い路地から路地を走り続けた。正確には、顎を出し喘ぎながら歩いていた。血糊で顔が引きつる。頭部に手をやると丸刈り頭は時間が経過して少し伸びた頭髪に血糊がベッタリついていた。ガクランの上下も所構わず血が染み込んでいた。
 見られたらヤバイ。休まず走る。警察はオレを捜し当てるかな。当分、ナンバはヤバイ。アイツらはオレを組織で探すやろう。
 オレは負けんかった。逃げへんかった。
 おおっ、大正橋。ナンバから港町、幸町、桜川の路地から路地をくぐって大正橋。此処まで来たら、ま、エエやろう。
 橋の欄干に肘をつき激しく呼吸を続けた。このまま家には帰れない。お袋にこんな姿は見せられへん。電車にも乗られへん。
 風になびく川面の細波をただ見つめる。夕暮れは間近。

 部屋の電気を消したまま、壁にもたれ膝を抱えて歌子は曖昧な視点で虚空を見つめじっとしていた。流れるままにさせている涙。
 六畳一間と入口の直ぐ右に畳一枚分もない炊事場、その奥にトイレ。トイレを境にした押入れ。押入れの横に奥行き七〇㌢幅一間の板の間に洋服ダンスと小さな鏡台、座卓だけの簡素な部屋。
 十九才のアタシ。こんなに汚れてしもうた。
 最初は母の男が手篭めに。二度目は工場の清掃の上司のオッサン。後は面倒くさいから男から男へ適当に体を開いてきた。
 十九才。
 何があるんやろう、この先。な~んにもない。空っぽや。
 瞬きもせず挑むように正視してくる征生男の眼。
 アレがアカンかってん。汚れてるなんて思ったことがなかった。そんなんどうでもエエと思うようになっいた。アイツ、惚れてる彼女が居る。構へんけど、アタシは何やろ。ホンマにアタシどうなるねんやろう。征生男は高校生で年下、そやけど、アカンなアイツの眼を思うたら。
 母さんどうしてるかな、何も言わんと飛び出したけど、まだあの男と一緒に居るんやろか。何で年下のあんな男と一緒になってん。 母さんも所詮は哀しい弱い女。母さんの人生も何もないな。男と一緒になってアタシら産んで、働いて、育てて、年下の男と一緒になって、娘は黙って家出して、ホンマに何もない人生やけど、アタシもやっぱり母さんの子なんやな。好きでも無い、むしろ嫌な男達に体を、アタシは何?空っぽで何もない。汚れて荒んでスレッカラシ。

こんな風になるとは思ってもいなかった。養豚所の安らいだ居心地の良さ、桜島の噴煙が懐かしいなぁ。何も知らんかったけど毎日がほのぼの楽しかった。

豚の鼻の動きにいつも笑えた。うふっ、熊手で背中を掻いてあげたらうずくまって背中伸ばして目を閉じて本当に気持ち良さそうにしていたなぁ。小さなくりっと丸まったあの尻尾、何とも愛らしかった。皆が汚い仕事って言うけどアタシは楽しかったわ。小父さんや小母さんがいつも果物やお八つを持ってきてくれたなぁ。妹連れて海にもよう行ったわ。小さい貝殻集めて瓶に入れたのを妹は宝物のようにしてた。妹、亜紀子、どうしてんのかな。まさかアタシの代わりにあの男に、もうそんな辛いことあったらアカンよねぇ‥‥ あの頃にはもう戻られへん……。

鹿児島かぁ、帰りたいな。何で帰りたいのやろ。帰ったって貧乏で惨めな生活があるだけで、それに帰るとこなんて無い。落ちて荒んで大阪のこんなとこで居るのが丁度エエんや。
「誰?、誰や‥」
「‥‥」
「征生男?、、征生男やないの。何してんのん。入り。何、それっ。どうしたん。ケンカ?ケンカしたん。また、高野とちゃうやろな。エエから入って来て。もう何か滅茶苦茶やんか」
「ゴメン、顔を洗わしてくれや」
「顔だけちゃうで、頭もやで。ほんで、ああどうしょう。服も何コレ、全部、血か。ああどうしたらエエん。とに角、服は脱ぎ。アタシが拭いたるさかい。他にケガは無いんか」
「分かれへん。ただ、頭がズキンズキンすんねん」
 ドッと膝を尽いて四つん這いになり腕だけで辛うじて体を支えているものの体の隅々の力が何処に行ったのか、歌子と言えど惨めな姿は見せたくない、その気力さえどうでも良いように体が崩れて行きそうになる。


 恐る恐るそうっと中を覗き込んだ。数人の男がストーブを囲んでタバコを吹かしながら談笑していた。どの男の衣服も赤や白と雑多な色がこびり付いているのはペンキなのか。
 場所は分かっていた。
 征生男を寝かし部屋を飛び出し一気に走ってきた。
 本当はもう間もなく店に出なければいけない時間。歌子にとって今はそれどころではない、一人でどうして良いのか、勝之を呼ぼう。
「ネエチャン、どうしたんや。誰かに用事か」

一人の男が気づいた。
「すいません。カッちゃんいます」
「へぇ、勝之に用があんのん。勝之、アンタに何かしたんか」
「いえ、違うんです。カッちゃんにどうしても逢うて頼みたい事が」
「へぇ、勝之にね。アイツちょっとタバコ買いに行ったとこや。直ぐ帰って来るさかい待っとき。寒いし、まぁ中に入っておいでぇや」
「いえ、ほんだらここで」
「何や、歌ちゃんやんか。どうしたん」

背後で勝之の声。振り向く。
「征生男が‥」

言葉が詰まり涙があふれ出し思わず両手で顔を被った。
「何や勝之、お前、女を泣かしてんのか」
「征生男ちゃんがどうしてん」
「何っ、征生男に何かあったんか」
「まだ分かれへん。兄貴、ちょっとこの子と行って来るわ」
「何処へや、俺も行こう」
「ううん、お願いカッちゃんだけとに角アタシの部屋に来て」

歌子は勝之の腕を掴みグイと引いた。

 

 

彷徨

 

風紀係りの生徒が数人校門に立っている
 昭和町の地下鉄を降りて五分も歩けば学校の正門。
 学校には制服はなかった。征生男は初めてガクランから私服で登校した。誰もが唖然とし、驚異の目で征生男を見たり迎えたり不思議なものを見るように一瞥送ってきた。
 教室に入ると直ぐに村田が目に入った。村田の体がピクッと跳ねておずおず後退りした。

「ウォッスー」

十人近くが一声に朝の声をかけてきた。片手を挙げ「オッ、オッ」征生男が応える。いつもと変わらぬ教室。机と机を縫うようにしてゆっくり最後尾で立ち尽くしている村田を目指した。
 チリチリと後頭部がまだ痛む。ビール瓶の一撃は打撲の衝撃は半端ではなかったが出血は止まり傷口も小さく一晩で塞がっていた。
「怖がるな。逃げたのを後悔してんねんやろ。気にすんな。あの場合誰でも逃げるやろ。オレもホンマは逃げたかったからな」
「怒ってへんのか」
「しゃぁないやんけ」
「スマン。俺、俺…、ホンマに怖かってん。堪忍やで嶋田」
「それはもうええねん。ただな、一つ絶対に守ってもらいたいことがあんねん。ええか、昨日の事は絶対に誰にも言うなよ。オレがお前に怒るとしたら誰かに昨日の事を喋った時や。エエか、これだけは絶対に守れや」

語尾が低く重みを加え有無を言わせぬ威圧で押し付けていた。
「うん。絶対に守る」
「よし、それでエエ。ほんでアイツらは何処のチンピラや」
「何かな本田会系の松田組の三下や言うとったけど、それしか分かれへん」
「ほんで、いつもはどの辺うろついてんねん」
「やっぱり、アレちゃうか。ミナミ一体やと思うで」
「‥‥うん、分かった」
「そやけどホンマもの凄かったな。強いのは分かってたけど嶋田がヤクザ相手に勝ったやん。もう俺なメチャ興奮してずっと見とってん。嶋田、お前ホンマに最高やな」
「じゃかましいわいアホンダラ、お前みたいな屁タレにそんなこと言われとうないわい。とにかく、しょうむ無いこと喋ったらただでおかんから、分かったな」

 夕暮れには少し時間がある。
 学校が終わって真っ直ぐ帰ってきた。滅多にない事だ。それでも家には帰らず井川塗装の事務所のドアを開けた。
 社長の叔父の武松が机に向かって書類に目を通していた。
「おうっ征生男。学校終わったんやな。まあ、座れ」
「カッちゃんもう直ぐ帰って来ますよね」
「そやな、そろそろ帰ってくるんとちゃうか」
「おっちゃん、もう直ぐ春休みやからまたバイトさせてくれますか」
「おうおう、手伝うてくれるか。それは嬉しいな。ところでお母ちゃんから聞いたど、お前条件付進級やてな。学校もエエ加減なことさらすな。まあ、決まったもんしゃぁないやんけ、男はな耐えてなんぼちゅう時があんねん。お前はお母ちゃん思いやからおっちゃんなんかが一々言わんでもよう分かってるやろ。な、ここ一番と言う時が男にはあるねん。それを耐え抜くのがホンマの勇気や。お前にはそれが出来るとおっちゃんは信じてるからな」
 父が居て、その父を殺したいほど憎み切っている。叔父の武松は時には征生男にとって父親ってこんなんやったらなぁと勝之が羨ましくなったり、かけられる言葉の一つに胸を詰まらせる温かさが染み込んで来る。
「もう直ぐしたら和歌山の住友金属の大きな仕事が入ってくるんや、丁度お前の春休みやから修平と勝之とで行ってみるか」
「うん。オレ、行きます」
 ガラッと戸が開いた。仕事を終えた職人たちが帰って来た。誰のどの作業着にも何色もの乾いたペンキがこびり付いている。
 最後に勝之が入ってきた。征生男を見て直ぐに傍にやって来て耳元で小さく尋ねる。
「どないや、もう大丈夫なんか?」

「うう~ん、うん」

呻き声が自分のものと気づくのに少し時間が要った。天井からぶら下がった裸電球の灯りが眩しく目を射した。灯りを背後に二つの顔の輪郭がほの白く目の前にあった。
「痛いか」
「征生男、大丈夫?」
 勝之と歌子の声が交差した。頭が痛い。
「病院に行こう」勝之。勝之が何故ここに居るのか。そして、ここは何処なのか自分の位置を考えていた。
「な、血は止ってるけど、一応病院に行こう」

又、勝之の声。そうか、歌子の部屋なんやと、やっと認識できた。大正橋から夢遊病者のようにここまで歩いて来たのを思い出した。毛布が着せられシャツとパンツだけと言うのも確認できた。体が少し重い感じで頭だけがチリチリ痛む。
 両手にグイッと力を入れ上体を起こした。
「大丈夫か、頭は痛いか」
「カッちゃん、何でここに居るねん」
「歌ちゃんが事務所にオレを呼びに来てん。喋ってもエエんか」
「オレな、ヤクザ相手にやってしもうた」
「うん」
「向こうは三人や。二人はいてもうたで」
「うん」
「最初はな、ホンマ、メチャ怖かったけどな、一発鼻を蹴られてから訳分からんようになったな。何かな、体が勝手に動いてな二人はやったけど、後一人にビール瓶でメチャクチャ殴られて、そやけど負けへんかった。うん。絶対負けへんかったで。逃げへんかったで」

その自負が倒れそうになった体をココまで運んで来たのだ。闘った。初めて闘った。闘い抜いた自分を別人のように見つめた。
「そうか。頭の傷はビール瓶か。で、どうや。大丈夫か」
「頭が痛いし、何か腕も痺れてるな。それよか、オレ眠ってたんか」
「そやで征生男。三時間位眠ってたんやで。危ない怖い目におうたんやろ」
 歌子が差し出したコップの水を一気に飲み干し、コトの仔細を勝之に話した。
「そうか。村田ってヤツ、屁タレもええとこやな。そやけどこれからナンバをウロツクのはしばらく控えた方がエエな。やってもうた言うても相手はヤクザや。絶対にお前を探そうとするで。なんぼお前でもヤクザが本気になったらアカンで」
「学生服な、アレは洗濯に出さんと着られへんで、アタシが洗濯に出しとくからカッちゃん征生男のとこへ行って何か着るもん持ってこれるか」
 病院に行けば母に知れる。そんな心配はさせたくない。
 幸い蹴られた鼻には傷もなく、腫れてもなく、痣らしきものもない。ビール瓶の攻撃を防いで受けていた右手は紫色に腫れ上がって多少の内出血はしているが、服を着れば外見には誰も分からない。このまま痛みだけをガマンしたら誰にも知られないはずや。
 勝手知った征生男の部屋。勝之は誰にも気付かれず征生男の服を持ってきた。仕事帰りの勝之も暴れまくった征生男も猛烈に腹が減ってきた。歌子が出て行ってカツ丼二つとうどん三つの出前を頼んできた。征生男と勝之は丼とうどんをアッサリ平らげ、歌子はうどんを静かに食べた。
「征生男、今夜はここで泊まって行き」
 家になんか帰りたくない。母の顔が浮かぶ。それよりも照美の顔が頭の中を強烈に駆け巡り、照美の笑顔が瞼から離れない。
「アカン。家に帰る」

闇の中で仰け反る歌子の肢体が頭を霞めた。
「そう、帰るんか。帰って大丈夫か」


 勝之は着替えをサッサと済まし征生男を促して外に出た。事務所の通りの向へのえびす屋食堂に二人は入った。征生男はチャンポン、勝之は親子丼とキツネうどん。ビールも一本。
「学校で気付かれへんかったか」
「うん。村田にも釘を差してきたしな。ただな私服が変に思われたやろな。ま、そんなんどうでもエエねん。オレな、ここんとこずっと色々考えてんねん。そんな時に昨日の事やろう。村田がオレを頼りにしたのはオレとちゃうねん。オレの強さや。皆なオレのそこしか見てへんねんな。それを考えたら結局はオレがそれを売り物みたいにしてるからそうなんねんやと、その売り物がなかったら多分、昨日の事もなかったと思う。そやけど何かちゃうねん。オレはそれだけとちゃうねん。ほんだらオレは何なんやろう。いつも‥‥訳の分からん哀しいもんがずうーとあるねん。ケンカした後は‥…いっぱいな、胸の中がどうしようもない位、、何て言うかな、オレはこんなんとちゃうねん、オレは、オレは、何か別の大事なものがあるはずやってな。昨日はあんなヤクザ相手に負けへんかった。それはそれで自分が何かやったって気になったけど、そやからそれが何やねん、それだけやん。オレがヤクザにでもなるのか、そんなん絶対イヤやんけ」
「おうっ、何か奥深いとこまで考えてんねんやな。そんなん言われたら俺も征生男ちゃんの強いと言う部分で視てるのが多いな。そやけどお前はそれだけちゃうもんな。俺なんかアホやけどお前は何でもよう考えたりしてるもんな、俺もな、今は親父の仕事をやってるけど、時々なこんなんでエエんかな、ホンマは何か俺に合う何かがあるような、な、思ったりしてな。征生男ちゃんの言うように、そや、哀しいような寂しいような泣きたいような時もあるで。」
「そこやねん、これから先に何があるんやろ、ほんで何を目指したらエエんかななんて考えるやろう。カッちゃんがペンキ屋の職人で終わるなんてのもやっぱり夢がないんかもな。オレが今、目標を持つとしたら大学やん。そやけどな大学に何で行かなアカンねんて言うのもあるんやけど、さしずめお袋の気持ちやな。お袋がどうしてもオレに大学へ行って欲しいんやな。オレも大学以外に何かあるか言うたら別に何もないし、ただ、皆が言うようにこのままやったらアカンわ。カッちゃんもこのないだ菊池と言うとったように勉強せえって」
「そや、征生男ちゃんは俺と違って学校行ってねんからやっぱり勉強が一番ちゃうか。それにしても叔母ちゃんはエエな。ウチのオカンはアホやからそんな全然考えたりせえへんからな。アホな親やから俺もアホなんやで」
「何言うとんねん。オレはな、お前が羨ましいんや。あんなエエ親父が居るやん。それに修ちゃんとは兄弟仲ええしそれはオレに無いもんやで」
「な、怒んなよ。こんな言い方したらアカンかな」
「何や、どんな言い方やねん」
「征生男ちゃん、やっぱり照美ちゃんやな。あの子と付き合うようになってから、お前、何か真剣に考えてるなぁって。叔母ちゃんの事もそうやけど照美ちゃんを真剣に思うから大学も考え出したな」
「アホ、アホぬかせ。オレがそんな、女なんかでアホか」
「ほーら見てみ。図星やんけ。照れんでもエエやん、それはそれで益々エエことやと思うで。照美ちゃんと居ったら何かな俺もヤンチャ見せられへんもんな」
「とにかく、春休みになったら又、お前とこでバイトするわ。おっちゃんがさっき言うとったな和歌山で大きい仕事があるねんてな」
「おおぅ、そや。住友金属で岸壁のクレーンの塗り替えや言うてたな。一緒に行こう。そんなんしてたらナンバにも出ることないし、チンピラからもほとぼりが覚めるで。ただな、照美ちゃんや歌ちゃんには会われへんど」
「アホか、女なんかどうでもエエねん」

 

 

恋歌・ベーゼ

 

今夜で三日目。耳を澄まし全神経を集中している。宵闇の彼方、遥かに路面電車の走る音が夜の冷気を通り抜けて僅かな響きで聞こえてくる。その音でピクッと征生男は立ち上がる。
 一六三センチの身長。長い脚。
 黒い長い髪は後ろに束ねいわゆるポニーテール。
 広く見開いた瞳は幼児のように黒く澄み切り、まつげは長く反って切れ長の目尻は化粧もなくクッキリと際立ち。眉は眉間から自然に流れ細く終わる。
 鼻筋がスーッと通り尖端で細くとんがりくの字を描き、やや肉厚の唇は優しさを象徴し、穏な小さい丘を作っている。艶やかでふくよかな頬、流れるような輪郭。色白。
 いつも背筋を伸ばし顎を少し上げて歩く姿は爽やかな健康美に溢れている。柔く低めのトーンで囁くように語りかけるが、時には華やかに甲高く喋る。体の線を思い描く。こんもり膨らんだ胸は多分、歌子のそれと同じか。背の低い歌子に比べて身長があるだけ腰の位置が高くタイトスカートが似合う。
 それらをうっとり思い描き、何よりも語りかける言葉の抑揚が優しく穏やかに包み込んてくる。
 征生男は教科書を開き勉強を始めた。
 英語、数学に立ち遅れている自分を痛感した。特に数学はまるで理解できない。後の科目はそれほど勉強しなくても授業を受けているだけで理解できる。勉強とは不得意な科目に没頭するんやと、平川の言葉が甦る。
 学校が終わり真っ直ぐ家に帰ってくる。千代はそんな征生男に穏やかに優しい笑みを送るだけで言葉少ない。母の前に出てこない控えめな態度は征生男には救いであった。
 夕ご飯以外は、自分の部屋に籠り机に向かう。勉強に馴染まない落ち着かない自分を叱咤しながら英語の単語の書き取り、数学の課題に挑む。
 夜、十時を過ぎた頃から精神が宙に舞い勉強からそれて思考は照美に集中しその周りを漂い続け、時計の針を絶えず眺めるようになり、頭の中は照美の容姿を愛惜しく数えている。
 もう一週間以上も会っていない。
 家の都合でモカを休んでいた。それが気になり何度も照美の家を訪ねようと思ったが、行動に移す勇気は持ち合わせていない。
 路面電車の最終が来るのをひたすら待ち、ゴーゴーと弱く唸るような車輪の音が闇を通して聞こえてくるとピクッと立ち上がり家人に知られないように薄闇の外へ飛び出し停留所の方へ歩いて行った。二日間は照美の姿は無かった。
 三日目。諦めが先走っていたが停留所に向かった。
 僅かな街灯だけの薄闇が広がる中でスーッと細い影が停留所から歩いてきた。駆けた。淡い街灯を背に細い影になった前で立ち止まった。
「征生男ちゃん!」以外にも甲高い照美の声。
「どないしとったん?帰りは征生男ちゃんの窓の下を通って帰ってたのに全然出てけえへんから心配しとったんよ。寝たんかなぁ、ほな、しゃぁないな思ってたけど、何かあったん?」
「何言うてんねん。照美ちゃんこそなんかあったんか、こないだ店に行ったら家の都合で休みや言うて気になっとってん。ほんで、オレ、この三日間ずっと終電車を待っとたんやで」
 闇の中を二人は肩を並べて歩いた。
 冬の夜の冷たい冷たい微風が頬を刺す。照美と会えた喜びで上気した征生男の頬にはそれすらも心地良いのだ。
「うん、お母ちゃんがな調子悪いねん。そうか、待っててくれたんやね。昨日、一昨日は早番やってん」
「調子悪いって、どんなん?」
「元々心臓が悪いんやわ。この間、征生男ちゃんが店に来てくれた日にね、昼に発作で倒れて病院に連れて行ってん。うちは心配でずっとついとってやんか。お母ちゃんこのまま死ぬんちゃうかって、心配で心配で、泣いてしもうたわ。アホやろ?」
「何でアホやねん。そんなん当り前や。ほんでお母さんはどうなったん」
「うん、病院に運んで次の日は帰って来てんけど、まあその後は普通にしてるからうちも仕事に出たん。仕事は遅番の方が時給がええから出来るだけ遅番にしてもうてたけど、何か、やっぱり心配で昨日、一昨日と早番にしてもうてん」
「そうか、それは心配やな」
「モカを辞めようかなって考えてんねん」
「辞めてどうするん」
「未だ決めた訳とちゃうけど、家の近くのこの辺で仕事探してみようかなって考えたり。お母ちゃんがな、映画館の向かいのスマートボール屋でパートに行ってるから、そこで一緒に働こうかなって。ほんだらいつもお母ちゃんを見ておれるやろう」
「‥」
「なあ、征生男ちゃん!」
「痛い!」
 照美が征生男の右腕を両手で掴んだ、未だ腫れが完治していない腕に激痛が走り思わず低く唸ってしまった。
「どうしたん、何処が痛いの」

何も知らない照美は腕を掴んだ手に更に力を入れた。自分の顔が歪むのが分かり呻きの出るのを自制し、そっと照美の手を左手で握り右腕から離した。
「腕が痛いの?」

征生男は辛うじて頷く、声は出せなかった。
「痛いとこをうちが握ったん?ゴメンね。まだ痛む」
「ええねん。謝らんとってや、大した事ないねんし」
 えびす食堂の横の路地を曲がり真っ直ぐ行って突き当たりを右に折れれば照美の家があった。路地を入って直ぐ、えびす食堂の軽トラがいつも駐車されていた。征生男は軽トラの荷台に後ろ向きでもたれた。食堂の二階の窓から電燈の淡い灯りに照美の心配そうな顔が浮き上がる。少し眉をしかめじっと征生男を見入る黒い瞳。腰を屈め覗き込んでくる。照美の息の温もりが征生男の顔を靄のように包み込んできた。息苦しいまでの照美の香りに熱く切ないものが胸に染みこんでくる。
「やっぱり何かあってんね。ケンカしたん。ひどくやられたん」
「うん、ケンカした。ヤクザ相手にな暴れまくった。そやけど負けへんかったで。オレはな逃げたり負けたりするのを許されへんねん」
「何言うてんのん。そんなんで大ケガでもしたらアカンやん。もし、征生男ちゃんが大ケガでもしたらうちはどうするの。そんな怖い事せんといて。お母ちゃんの事が心配で、その上征生男ちゃんに何かあったらうちは、うちは‥」
 照美の声が霞み詰まり、黒い瞳が潤んでいる。
 甘く切ないものが鼻の奥にツーンと入り込んできた。
 いまだかつて覚えた事の無い不思議な感情が征生男の中で野火となって広がり始めた。突っ張って強い自分であろうとしているはずのものが旋風に乗って持ち去られたかのように、打ちしおれ萎えて水にも直ぐ溶けて流されそうな弱い別の自分の現れに驚きつつ、照美の洋々と広がる甘味な香りの中で辛うじて立っているだけだった。
 なぜ、こんなことが出来るのか、照美の瞳から零れ落ちる雫をそっと親指でふき取っている自分。言葉と言う言葉が全て隠れてしまい僅かな行為が全ての力でしか無いように、親指の腹に伝わる雫の温もりを感じていた。
「ゴメンね。何かね、もの凄く哀しなってきて。一瞬悪いことばかり思うってしもてん。アホやなぁ」
「オレッ、明日からしばらく居れへんねん」
「どっかへ行くの」
「今までもな、出来る時はカッちゃんとこでペンキ屋のバイトしてきてんけど明日から和歌山の仕事に行くことになってん。一週間ほどやと思うねんけど、それでその前に照美ちゃんに逢えたらなぁって、いや、絶対逢いたかってん」
「えっ、一週間も、一週間で帰ってくるの。また、一週間も逢われへんのん」
 照美の繰り出す言葉に次々と新たな感動が生まれ小さな渦が幾つも重なって胸を熱くしていく、不思議な幻想を見ているように疑問が潮のざわめきのように湧いてきて、現実の甘い切なさが心の何処かが後退りしていく。
 美しい。何処を見ても美しく綺麗で輝いている。
 その照美がなぜ自分のようなものに芯が震える感動の言葉で包んでくるのか、オレなんてガキでカッコだけで本当は弱く小心ですらあるのに、何でこのオレをと疑問が広がる。
「一週間位って言うから長引いても早くなる事はないねん。それにな負けへんかった言うても相手はヤクザやからナンバうろついたりするのもヤバイし、丁度ええと思うねん。丁度ええ言うたら照美ちゃんがモカを辞めてこの辺で働くんやったらもっと逢えるやん」
「征生男ちゃん、前から考えてたんやけど、うちみたいなもんとこんなして逢っても構へんのん。うちの兄ちゃんは近所では評判ええことないし、うちの家は貧乏やし、征生男ちゃんとこみたいに裕福でもないやん。家の人が知ったら絶対怒るんちゃう。高校生がそんなにミナミの高級喫茶店に来られへんと分かってても何かね、毎日征生男ちゃんがけえへんかなって待ってる自分にハッとするねん。ホンマはアカンねんやろうなぁと思いながらこの頃ボーッとしてしまうねんやわ」
 信じられない言葉が照美の口から次々でてくる。
「何でや。何でオレなんかに。オレはな、ホンマはしょうむない奴やねん。ケンカばっかりして、その癖メチャ弱虫でカッコばっかりつけてアカン奴やねん。今かて退学になるかも知れへんと毎日ビクビクしてる根性なしやねん」
「退学?退学になるのん。何で、何か悪い事したん」
 悪い?悪い事なんかしてへん。そやけど、そやけど、歌子の顔が頭をかすめた。悪いコト、照美には絶対言えないコトは悪いコト。
「オレな、高校に入ってケンカばっかりしてきてん。それが学校では一番問題になってると思うねん。オレは弱虫のくせにな、ほら、照美ちゃんも知ってるやろう。子供の頃、マイちゃんとママゴトばっかりして兄貴に見つかってどつかれてビービー泣いてたん、ホンマはそれから全然変わってないなぁって思うねん。そやけどな、そんな自分が嫌やん。そんな自分を人に見せられへん。見せたら負けや。負けたらアカン、逃げたらアカン、そう思い怖いのを我慢して必死に向かって行くようになったんや。オレはケンカなんかしとうないのに向こうからドンドン来るねんな。勝ってしまうねん。勝ったら勝ったでもっとそんなんが来る。最近そんな自分が何て言うかな哀しいなってきて」
「覚えてるよ。征生男ちゃんが直ぐ泣いてたん。その頃から可哀相に思っていたんよ。それが今はそんなん風に全然見られへん。ただ、何か寂しそうな、そこが気になって気になってしょうがないねん。突っ張ってるて分かるよ。分かるし、ほんでね、ホンマはそんなとこがカッコエエとも思うけど、時々ホンマに寂しい顔するねんやわ、ふと、その顔を思い出すと無性に征生男ちゃんに逢いとおなるのん。
うち‥‥ホンマは学校に行きたかってん。そやけど貧乏でお父ちゃんやお母ちゃんにそんな言われへんかってん。自分で学校なんか行くより働きたいって言うてん。征生男ちゃんが学生服をビシッと着てるやん、高校生と言うより大学生みたいに見えるねんね。それ見ているとうちもセーラー服に憧れたりすんねんやわ。そやけど、もうそんな年も終わりやんか。征生男ちゃんと仲良うしていたら何か自分も女子学生のような気分になったりしてね。アホやろう」
「アハハハ」
「何笑ってんのん。何、可笑しいん」
「照美ちゃん口癖やな」
「何が」
「アホやろうって言うのん」
「そう?そうかな、そうかも知れへんな。うちはアホやもん」
「何をそんなんでしみじみしてんねん。アホとちゃう。絶対アホとちゃう。オレにとっては照美ちゃんはな‥‥」

この世で誰よりも大切な人やねんが口から出ない。大切だけでない胸が張り裂けそうに好きで好きで、大好きで。
「どうしたん、何で黙ったん。征生男ちゃんにとってうちは何?」
「う~ん」
「何やのん、何か言いかけたやんか。何?言うて」
 自分の顔が熱く上気するのが分かる。想いを言う恥ずかしさ。男であるもどかしさ、出そうとする言葉を直ぐに得体の知れないものが瞬時に奪って行く。
「‥‥」
「‥‥」
「オレな」
「うん、何?」
「オレは、オレは、照美ちゃんが好きやねん。何かこう胸が痛いし、好きやねん。今まで一番大切なのがお袋やったけど、照美ちゃんが好きやねん」
 まるで叫んでいる。吼えている。叫んで、吼えながら、出てくる瞼の露。有り得ない自分を見つめる。
「ふぅっ」とため息ついて照美が横に並び軽トラにもたれた。
 征生男の心臓を突き破るような激しい鼓動が耳鳴りを伴って全身を駆け巡っている。男として言ってはいけない言葉、いや、吐き出したい言葉、叫んでみたい言葉が放出されて、瞬時に解放された後は激しく鼓動する心臓しか残っていないような虚脱感が全身を悪寒となって縛り付けていた。
 多分、何十秒間しか過ぎていないのだろう、それでも長く長く沈黙の世界が二人を支配して、ふと、横に並んだ照美の顔を覗き見た。照美の頬に太い涙の筋が盛り上がって雫がこんもり伝わっていた。
「征生男ちゃん、うち、うち‥‥うち‥」
「‥‥」
「征生男ちゃん、好きや。毎日征生男ちゃんのこと‥‥アホやろう」
「‥‥」
 忍び合う深夜の逢瀬。冷気がひたひた満ちる静寂。
 聞こえるのは自分の力強い鼓動。一言一言噛み締め確かめ、不確かな幻想が現実を甘味に包み込んでくる。見えぬ大きい力で全身を拘束され硬直していた。
 沈黙は夜更けの静寂と一体化し浮遊していた心が確かな在り処を見つけていた。夜は二人だけの存在しか認めていなかった。
 口を切ったのは照美。
「明日から和歌山へ行くねんやろう」
「そう」
「何時に行くのん」
「六時出発やねん」
「ほんだら、こんなんしてられへんやんか。もう、帰ろう」
「そやな」
「征生男ちゃん。帰って来たら直ぐ知らせて、逢いたいわ」
「何処に知らせるねん。どうやって知らせる?」
「店に電話してきて、大丈夫やし。これでもうちは店では一番古いねんから」
「分かった。絶対に電話するで」
「うん、絶対、ね。一週間か十日間位やね。待ってるからね」
「絶対する」
 軽トラの荷台にかけていた征生男の左手の上に照美の掌がそっと被さった。
「ほな、もう帰ろうか」
「うん」
 軽トラから離れ征生男は左に体を向けた。

照美も同時に軽トラから離れ体をこちらに向けた。そのまま二人の両腕は相手の体を抱えた。柔らかい温かい唇の感触が征生男の唇に伝わってきた。
 誰が何を仕組んだのか、夜の妖精の悪戯なのか、冬の夜気の冷たさの中に一瞬火が点いた。小さな炎が熱く燃え出していた。
 閉じた瞼には闇しか写らぬのに燃える赤い赤い炎に包まれて照美の唇がピッタリ征生男の唇に重なっていた。
 照美の唇が少し開いた。そっと舌で撫でた。舌の尖端に照美の舌が柔らかく触れてきた。
 絡ました。絡んできた。直ぐに舌は遠ざかった。その行方をおずおずと追う。戻ってきた。舌に乗った唾液が伝わる。
 吐息が切ないまでも胸の芯を揺るがし、いつしかお互いの腕はお互いをしっかり抱きしめていた。

 

 

男と男

 

 足場は丸太だけだった。二㍍の足場板をその都度移動しながら岸壁の高いクレーンを上から塗装していた。
 修平も勝之も慣れない征生男を再三注意していた。高い処の丸太だけの足場で征生男は必死だった。体の隅々に緊張が張り巡らされ動きが鈍いのに苛立ち、思い切り体をかわした瞬間、足元が滑り思わずペン缶を投げ出し丸太にしがみついた。投げ出されたペンキが丸太にも散らばり、丸太にしがみついたままズルズルと一㍍程滑り落ちた。咄嗟に足を絡ませたから体は投げ出されずにすんだ。
「征生男っ、大丈夫かぁー」

下から修平の怒鳴る声がした。
 修平達職人は既に塗り終えて下で待機していた。
 一緒に組んでいる勝之だけが征生男を補佐し見守るようにつかず離れず征生男の速度に合わせて傍に居た。突然、征生男がバランスを崩して縦軸の足場丸太を抱えたまま僅かに滑り落ちた。
 勝之は咄嗟にペン缶を傍の番線に引っかけしなやかな動きで丸太から丸太へ移り征生男の後を追った。
「うへぇっ、下手こいたな。心配せんでええ、大丈夫」
「征生男ちゃん一端降りよう」
 二人が地上に降り立ってみると修平や職人達の姿が消えていた。「何やアレッ」

勝之の指差す向うに人の群。修平と鳶の大きい男が何やら怒鳴りあっている声が響き渡る。クレーンの作動しない岸壁の広いコンクリートの広場には、作業をするペンキ屋と鳶達の姿しかなく殺風景なたたずまいは海からの風を受け荒涼としていた。
 二人は同時に跳ねるように駆け出した。向こうからもバラバラと他の鳶達も駆け寄ってきた。誰もが精悍で屈強な体をしていた。 小柄な修平だが怯む事なく大男を仰ぎ見ながら大声で啖呵をきっている。怒りが弾け声は大きく荒々しく身振り手振りが激しく動く。

「雑なんじゃ、トロイんじゃ。こっちは遊んで待ってんのとちゃうんじゃ。オノレ等がさっさとやらんと仕事になれへんのじゃポケッ。雑やから危ないんじゃ」

「コラッ、兄ちゃん言い過ぎやど」
「アホンダラ、たいがい雑な足場やど。塗装はな他の仕事とちゃうんじゃい。間引きしたような下手な足場では仕事になれへんのじゃい。ペン缶持って刷毛持って両手塞がってペンキ塗るんやど、ペンキは跳ねても来るんじゃい。ほんで足場板持って一々移動せなアカンてメチャ危ないんじゃ。慎重にやってもどっかでヤバイことも起きるんじゃい。それはしゃぁないとしてもオンドレ等が遅いから待たされるのは何とかせえや」
「ワシ等も精一杯やっとんねん。それを急かされたらこっちがヤバイ仕事になるやんけ。そうカッカせんと黙って待っとれや」
「待たれへんな。とっとさらせや」
「兄ちゃん、鳶を舐めたらアカンな。鳶いうてもなヤバイとこは慎重なんや。こんな高いクレーンに足場を組むのは特殊なんや。お前等の仕事が早いのはそれこそ雑にやって来てんのんちゃうんかい。雑な上に下手こいたそのガキの腹いせを持ってきとんかい」

「アホンダラッ、高いとこや。一つ足踏み外したら命取りや。もっと丸太も増やして安全な足場をよう作らへんか。鳶やいうてもヘタレの鳶やの」

「何や、ちょっと可愛がってイテもうたれ。ほんだら待たなしゃぁないやろ」
「ドツキ回したれ」

大男の後ろから罵声が幾つも飛んできた。
「ほうー、やるちゅうちかい、やってみいやい」

修平は構えた。征生男はツッと修平の前へ出た。同時に勝之も並んだ。こちらは六人、鳶は九人。多勢に無勢。しかもペンキ屋の修平、勝之、征生男は修羅場の数を踏んでいるが後の職人はケンカなんてしたこともない温厚な大人達。
 鳶と言えば、二〇代前後の若者が半数、後は屈強な大人ばかり、どう考えても勝負にならない。前面の屈強な男達はヘラヘラ笑っている。征生男は両手を腰に当て仁王立ちしてヘラヘラ笑っているその飛び抜けてデカイ男に標準を当てていた。
 前面で不敵な笑いを浮かべたままの鳶数人が一斉に持っていたシノを投げ捨てた。本気でヤル気だ。シノは番線を締める鉄の棒。それを武器に使えば命取りにもなりかねない。素手で来るというのは本気なのだ。膨張した空気に押されたかのような緊迫感、炸裂寸前の怒号の熱気が肌を張り詰めさせヒリヒリ刺してくる。
「オンドレ等、ちょっと可愛がってそこらで寝てもらおかい。その間に仕事済ましたるわ」

 若い男がツと前面に出てきて不敵な笑みを浮かべて言葉を吐いた。征生男が狙いをつけている大男はニヤニヤ笑っている。
 前面が一斉に前に出てきた。
 征生男はその瞬間を狙った。跳んだ。
 二㍍先の大男に直線に鋭く体ごとぶつけた。男は待っていたとばかりに征生男の体ドーンと受け止め瞬時に両腕でガッチリ抱え込み絞めつけてきた。更に締めつけてくる。どれ程の怪力なのか身動きできないどころか、肋骨と背骨が軋み苦痛が徐々に加速される。もがいている積りが首だけ喘いで体は微動だにしない。
 苦しい。息が詰まってくる。
 男はヘラヘラ笑ったまま。征生男は男に鋭い視線を当て顔を退け反らした。その反動で男の顔面に溜め込んだ唾を吐きつけた。男の表情が歪み、一瞬男の腕の力が緩み征生男の体が少しズリ落ちた。それを見透かしていた征生男は抱き絞めされたまま右足を後ろに大きく振り、男の股間へ投げい入れた。
「うげぇっ」

男は征生男に巻きつけた両腕を放し股間に当て苦しい表情で前屈みになった。そこを征生男の拳が下から男の顔面に飛んだ。ガツンという鈍い音のあと男の顔が上に仰け反る。
 征生男は膝をサッと持ち上げ垂直に男のみぞおちに叩き込んだ。男はグッと身を反らし征生男の膝を跳ね返すように受け止める。その反動で征生男の膝は弾かれ後ろへバランスを崩す。
 怒りに満ち、目はギラギラと猛り「このう、クソガキーッ」太い両腕が征生男を挟むように伸びてきた。
 征生男は腰を落とし頭を屈めそのまま頭を男の腹へ突進させた。ズンッと前頭部に重い衝撃が広がったが男の体は揺るがず、むしろ、そのまま背後から征生男の体に両手を回し凄まじい力で持ち上げ「ウオーッ」と一声、征生男の体を逆さまにしたまま横に振って地面に叩きつけた。
 フーッと体が浮き、次の瞬間もの凄い速度でコンクリートの地面が迫ってくる。刹那、征生男は体を少し捻り右肩を地面にむけた。右肩が地面に激突するや否や間髪を入れず更に体を捻って受身をしてクルッと立ち上がった。 

男は一瞬唖然として無防備に棒立ちになった。
 暇を与えず飛び込んだ。再度みぞおちに頭から突進した。
「うっ」と鈍い重い呻き。
 男の作業着の両脇を掴み体を反らし又もや頭から叩き込んだ。
 鈍い音と共に背中に鋭い衝撃が走り「うん~っ」と絞るような呻き声を出したのは征生男の方だった。
 男の太い腕で思い切り横へ弾き飛ばされていた。
 立ち上がれない。背中を反らして苦痛に耐えた。
 男が近づいてくる。男の右足が動いてゆっくり征生男の腹部を狙って振ってきた。思わず前屈みになって避けようとしたが間にあわず地下足袋の尖端が腹に喰い込む。続いて振りかえされた足がまた振ってきた。
 ヤクザとの格闘が甦り野生の本能が五感を走る。
 征生男は激痛をかなぐり捨て起き上がりざま飛び込み男の足を両腕で抱え込んでそのまま体を捻るように横へ反転させた。
 投げ出した足を瞬時にすくわれ捻られた大男は大きく輪を描いて一回転してどっと倒れこんだ。図体が大きいだけ倒れた衝撃も大きく直ぐには立てない。
 よろよろと先に起き上がったのは征生男の方だ。
 一呼吸二呼吸、肩で大きく息をして体力の蘇りを測り、直ぐに立ち上がるであろう男を見据えた。男は腕を突き上体を起こしやおら立ち上がった。苦痛で歪む表情の中に何故か笑いを含み、それが何処かで温和な感じに見える。
 立ち上がったその時に勝負を賭ける勢いで征生男は突進して作業着の両脇を掴み引っ張りこんだ。
 男は微笑をたたえたまま余裕で仰け反って逆に体ごと征生男を引き込んだその時、征生男の右足は男の後ろに回り全身の力を両腕に込めて突き飛ばした。
 足を掬われ無抵抗に仰向いて男の巨体は後ろへドッと倒れゴンと後頭部を打ちつけた鈍い音がした。
 透かさず男の顔面に征生男の膝が垂直に降ろされた。
 頭に鋭い衝撃を受け目から火花が散るとはこの事かと次の瞬間脳裏の何処かで思えた。投げ出されコンクリートの路面に転んでいたのは征生男だった。男は苦痛で顔を歪めながらも落ちてきた征生男の膝を咄嗟に掴んで横へ投げ捨てていたのだ。
 肩で大きく息をしながら立ち上がるのと同時に男も頭に片手を置き立ち上がってきた。二人の視線はお互いを鋭く捕らえしばし対峙したまま動けない。
「やめーっ。分かった、もう止めーッ」

断ち割るように突如起きた大声は鳶の親方だった。
「ウハハッ、前田、お前形無しやな。このガキようやるやんけ。」
「うわーっ、ホンマ。参った。俺の負けや」

前田と呼ばれた大男。
「ペンキ屋の若いのん。分かった。話は聞いた。ワシ等ももうちょっと急ぐわ。おんなじ現場でケンカ騒ぎもなんやで。あんじょう連携してやっていかなな。それにしてもええガキ持ってんな。コイツは凄いわ」
 笑ってる大男の前田。
 初めて周りを見た。敵も味方も輪になって取巻いていた。
 征生男は自分以外も当然乱闘になっているものと思い込んでいたが、どうやら征生男と前田と言う大男との大立ち回りを全員で観戦していたみたい。

 一週間、予定はあくまで予定。
 ペンキ屋の弱点の一つに野外での仕事は天候が極端に左右してくる。今度も二日間が雨だった。加えて鳶達とのトラブルもあり結局十一日間かかった。
 現場が終わる前日、仕事が終わって皆が帰路につく昼下がり、冬の弱い陽の光をオレンジ色に気だるく反射した海を背景に二人の大男が征生男の行く手に立ちはだかった。
「征生男。ワシ等も大阪や。港区に居るねん。ワシ等今から帰るけど、な、一回遊びに来いや。お前、高校生やけど飲めるんやろう。一緒にやろう。そやそや、勝之も連れて来いや」

鳶の親方と前田だった。
 征生男と前田の格闘が済むと嘘のようにテキパキ動き出した。鳶達の仕事ぶりが変わった。早くなっただけでなく足場板も要所要所渡されペンキ屋の仕事もはかどった。
「征生男って言うねんな、どや、仕事やりやすなったやろ。お前の根性気に入ったで」

仕事の合間に前田が現れ征生男の肩を叩き掌を堅く握った。
「エエ根性してる。根性のある奴が大好きやねん。ま、仲ようやって行こう」
「お前、高校生やてな。学校で番いわしてるそうやんけ。ワシも若い頃はいっぱい暴れ倒したけど、お前見てたらな、あの頃が懐かしい思い出されたわ。その根性ええように生かしていかなアカンど。ウチの前田に正面から挑んだ奴は初めて見たな。ワハハハハッ、ええもん見させてもらったで。おおきに」
 鳶の親方が相好を崩して前田の後ろから出てきた。
 咄嗟に身構えたものの一方的に虚をつかれ不思議なものでも見ているようにキョトンとしてしまった。
 ズングリ太い大男の前田とは対照的に親方はスーッと背が高く精悍な引き締まった体をしていた。それから顔を会わせ目が合うと「おっ、征生男、ケガすんなよ」「気ぃつけよ」「頑張ってるか」と旧知のように声をかけてきた。
「お前等はまだ明日一日あるさかい気ぃつけや。これ、俺の名刺や、電話して来い。ほなな」
「あ、はい。ありがとうございます。」
 名刺には、金本組有限会社代表取締役社長・一級建築士金本大樹 住所は港区磯路町となっていた。

 

 寒いとは思わなかった。
 車の窓を少し開けて風を取り込んでいた。心地良い。
 左に海を望んでいる。風が無いのか波頭は穏やかに細波だけの海。灰色と紺を混ぜた重い感じの紀伊水道を横目に井川塗装の車は大阪に向かう。どんより曇った冬の空の下、水平線をぼかした霞みがかって、その曖昧な幽かな淀みが果ての無い郷愁を滲ませていた。窓からの風を顔に冷たく受けながら征生男は水平線に沸き立つ情感を映していた。
「な、早よ照美ちゃんに会いたいねんやろ」
「‥‥」
「帰ったら直ぐにモカに行こうや」
「カッちゃん一緒に行ってくれるか」
「何言うとんねん、そやから行こう言うてんねんやんけ。そやけど、う~ん、お前天才。ホンマ天才」
「何一人で感心してんねん」
「もうケンカさせたら最高やな。お前も大きいけど、あの前田さんな、ホンマにデカかったな。それをあんな風に転ばしたり蹴ったり、何であんなんできんねんやろ。ホンマ、天才やで」
「何かな、もうやりだしたら体が勝手に動くねん。動くと言うよりも次のことが瞬間に閃いてまうんやな」
「やっぱりアレやで、征生男ちゃん、剣舞とか居合い抜きやってたやろう、それやで」
「そうかも知れへんな。そやけどそれはオレだけちゃうし」
「そこやなぁ、ケンカちゅうのが身についてやなそんな技が自然に出るんちゃうか。オレなんかがケンカしたらただ相手の顔だけ殴ろうとするやん。征生男ちゃんにはそれがないねん。体全体を持って行くもんな」
「征生男、カッコ良かったで。お前が前に出てきた時は何しとんねんコイツと思ったけど、オレなんかが息巻いても勝たれへん奴やったもんな。それをお前やったやん。もう、ビックリしたで、ただ見てるしかなかったわ。見ててなもう何かワクワクハラハラしててな、鳶の奴等見たらな仲間の前田さんよりお前の方を応援してたもんな。そうや、あれであの現場何かスキーッとしたな」

運転をしている修平も話しに入ってきた。
「あの親方、絶妙なタイミングやったな。あそこで止めてえへんかったら何ぼ征生男でも前田さんに叩きのめされとったで」
「そんなことあるかい。兄貴は知らへんねん。征生男ちゃんはな、あそこから勝負するねん。最後の最後まで諦めんとどっかで勝ってまうねん」
「そうか。そうかも知れへんな。見てたら征生男は必死やったけど前田さんは余裕があったもんな。そやけど征生男はその余裕を上手いことついて行ったもんな。ホンマにあのまま止めへんかったら前田さん本気になってたやろう」
「そこやで兄貴、本気になったら隙ができる。征生男ちゃんはその隙を絶対逃がせへんねん。そやけどオモロかったな。アレはペンキ屋と鳶のケンカが征生男ちゃんと前田さんの一騎打ちになったてや、鳶の若い奴等は本気で征生男ちゃんを応援してたもんな」
「何言うとんねん。オレはいっこもオモロないわ。今でも肩や腰が痛いんやど。まあ、事の発端はオレやってんからしゃぁないけどな」
「な、帰ったら一緒に前田さんとこに行こうや。何かスケールがメチャデカイ人等やんけ。絶対オモロイで」
「そやなカッちゃんも一緒に来い言うとったもんな、行こう」
 その前に照美に会いたいと胸が疼いている。

 

 

恋歌・哀歌

 

ゴックッ、生唾を飲み込んだ。
 何故か咽が渇いてくる。鼓動が大きくなり胸が詰まる。たかが電話をするのに手は汗ばみ緊張で息を大きく繰り返した。
「ありがとうございましす。喫茶モカでございます」
「嶋田と言いますけど、すみません山崎さん呼んでくれますか」

それだけ言うのが精いっぽいだった。
「征生男ちゃん!和歌山の仕事終わったん。長かったやん。うち、やっぱり今夜も遅番やねん、帰んのん待っててくれる。もし、疲れてたら早よう寝てや。無理したらアカンで」
 仕事向きのハッキリ透き通った声が照美とは分からなかった。仮にどんだけ疲れていても「待ってて」と言われたら絶対に待つ。 エビス食堂の公衆電話の受話器を置いて「ふーっ」と息を吐いた。
 道路の向うから勝之が駆けてくる。
 既に茜の空は沈み黄昏が闇を誘ってきて、未だ来ぬ春の気配を覆い隠すかのように時折旋風が道路を横切る。街の灯りが浮き立って寒風に白く揺れていた。
 ローカルな所だ。夕方の七時も過ぎると道路を行き交う車もグッと減り、工場の騒音も消え妙に静まり返って、夜が動き出す予兆を妖しく忍ばせてくる。
「征生男ちゃん、モカは明日にして今夜はルニーに今から行けへんか。兄貴等はまた、九条へ女買いに行くらしいで、よっぽと飢えとんやでハハハハ」
 予定が延びた。予定外の長帳場の飯場暮らし。男達は枯れ、束の間の刹那な快楽を求め、男は潤い浄化する。休み無く明日も現場へ駆り立てられているのだ。
 西区の西に位置する九条の松島新地は、西成の飛田を筆頭に東成区の今里新地とかつての大阪の赤線地区で今も変わらぬ春を売る色町として男達を誘引していた。修平達年上の職人は肉欲のはけ口を手っ取り早く松島新地で処理していた。
 勝之もミヨを目指していた。
 征生男は照美に焦がれている。
「その前にここでメシ喰うて、玉突きやで。カッちゃんお目当てのミヨちゃんもルニーには未だけへえんやろう」
 大正区の背骨になる大正通の末端、市電の大運橋停留所。両脇に食堂が点在し薬屋に眼鏡屋、クリーニング店、カメラ店等が並ぶ。ここまで来ると商店の灯りと街灯に照らし出されて人の姿も動いていた。市場のある商店街から大正通を横切ると赤や青の原色を輝かせたネオンが僅かだが目立つ。パチンコ屋、スマートボール、映画館、玉突屋、それにルニーのようなスナック、飲み屋に喫茶店が軒を連ねるローカルの狭い繁華街。
 両手をズボンのポケットに突っ込み前屈みで顎をツンと出し左右にゆらゆら揺らしながら歩くのが勝之の癖、と言うよりそれを意識している。
「カッちゃんお前、そんなチンピラ歩き止めや」
「ええやんけ、楽しそうやろう」

「何言うとんねん。何が楽しいねん。カッコ悪いぞ。お前の美意識疑うで」
「おっ、言うてくれるやん。征生男ちゃんこそ固いで、その歩き方」
 征生男は背筋を真っ直ぐ伸ばし正面を見据えるように、両手は歩調に合わせて前後に小さく振る。正面を見据えながら視野の全てを捉えていた。
「ああっ、何でこんな違いがあるんかな。なさけない限りやで」

「なさけないと来たか。これがな年上のネエチャンに可愛いって云われんねんど」

「年上ってミヨちゃんのことやな」

「おっ、ミヨもそうや。ミヨなんか会う度に可愛いってギュウと抱きついてくるねんから」

「ああぁ、よしっ、玉突きで思い切りイビッたろ」
 玉突屋のガラスのドアを押し開けた。
 ローテーション二台、四つ玉二台、スリークッション一台の店。客はなくガランとしていた。
「いらっしゃい。久しぶりやん。征生男、今夜は私も入れてや。三人でしよう」
「エエエッ、琴姐さんも入るんかいな。俺、二人にイカレコレになるやんけ」
「カッちゃん、ハンデ五〇やるやんか。私、征生男と久しぶりに勝負したいねん。コイツ最近かなり腕上げてるさかいな楽しみや」
 四〇才位だろう小柄でバッサリ短く降ろした髪、クッキリした目鼻立ち均整の取れた肢体に胸元をV字に開けたニットのセーター、腰にピタッとしたスラックスが細い足の線をしなやかにみせ、腕を伸ばし前屈みにキューを打つ、次の玉へ視線を当て顔を横向けに軽やかにステップを踏む足運び、踊るようなリズム感が妖艶なオーラとなって体全体から発散させる琴子。しなやかで鋭いキュー捌きに見る者は魅了させられるのだ。琴子は玉突き屋の店長。
 店長をやるだけあって玉突きの腕は女ながら並外れたものがあった。琴子は征生男の筋の良さを見抜き機会を見つけては指導してきた。征生男にとって琴子は玉突きの師匠的存在なのだ。
 最初のブレイクは征生男がとった。続いて琴子に勝之の順。
「おおう、丁度ええわ二人で玉減らして。ほんだら俺も打ちやすいで」
 征生男はやや細身で長目の重量感のあるキューを選ぶ。
 台の上に左手をグゥッと伸ばしの指を反らし指先だけ立て、人差し指を鍵型に丸め親指を宛がいキューを滑りこませて、五、六回丁寧にしごいた。キューのグリップを握った右腕を後ろに反らし掌は軽くキューを置く程度にして肘を曲げ手首を垂直に曲げてキューを押し出しハシッと握る。
 キューは狙いをつけた位置でピタッと止る。
 琴子はトライアングルの中に十五個の玉を一番を先頭にパッパッと手際よく並べ台の上を小さく前後に滑らしてピタッとフットスポットにそろえた。征生男は手玉をヘッドスポットに置いた。
「征生男ちゃん珍しいことするやん」

勝之が腕組みをしたまま見入った。 勝之や学校の仲間とやる時はヘッドラインの右寄りが定位置だった。
 真剣に琴子に挑む。今日は何が何でも琴子に勝つのを念頭に貼り付けた。ブレイク権を取ったのだ。ブレイクの瞬間には最低でも二つはポケットに入れる。その為には真正面からブレの無いストレートの玉を淀みなく的確に正面に激突さす。
 左腕を伸ばし前屈みにキューを構え的を凝視した。手玉が激突した瞬間のそれぞれのボールの動きが見えるように読めた。しかし、僅かな手のブレを感じた。一度目の構えを解きキューを床に立て深く息をする。
「何か慎重やな」

勝之が思わず呟く。琴子は椅子に座り足を組み微笑を浮かべている。琴子と視線が合った。笑顔の中に眼は熱い輝きを放っていた。
 構えた。手玉と三角に並べられた十五個の先端のボールとの距離を眼に吸い寄せた。もう手のブレはなくなっていた。
 三つか四つのボールが両サイドのポケットに滑り込んでいくのが読めた。キューを持つ右手が一瞬肘を曲げて前に突き出た。
 手玉にキューの尖端が当たる瞬間グリップを鋭く握り締めた。
 ガチン、手玉が鋭く滑り先頭のボールに激突する。三角形に並べられた十五個の玉は一斉に滑りだした。底辺の両端の玉が左右に二つずつコーナーポケットにストンストンと滑り込んだ。
 残りの十一個は台全体に広く散らばっていた。
「やったっ!」

キューのタップを床に勢いよくツトンと突立て思わず叫んだ。
「何すんねん、やってくれるやんけ。マグレか」

勝之の驚嘆の叫び。
「ふふふ、カッちゃんマグレとちゃうで。征生男、腕あげたな」
 琴子の眼光が更に輝いていた。
「何でや、そんなん今までしたことなかったやんけ」
「カッちゃん等とやると出来へんねん。琴姐さんのような人とやろうとしたら、何か湧いてくるもんがあんねんな」
「そう言うもんや。ほやから上手いもんとやらなアカンねん」 

琴子は冷静だ。
 散ったボールと手玉の位置までは流石に読めなかった。
 狙う一番ボールが左サイドポケットの前にあるが他のボールに邪魔されて直線では隠れていた。次の五番ボールは手前のコーナーポケット寄りで、コーナーポケットの少し前に十番ボールがあった。手玉は向うのコーナーポケットの手前。
 ジャンプさせて一番ボールに当てるのは簡単だが、それでは当てるだけでポケットに入らず得点はなく次の琴子に譲るだけだ。一端、琴子に譲るとヒョッとして残りを全部入れらてしまうかも、ここはマッセで当てるしかない。台に体の左を当てキューを垂直に構えた。
 手玉と一番ボールの距離と角度を何度か目を走らせて読む。コンッとキューが逆落としに手玉の左手前を突いた。ツッツツと白い手玉が回転しながら緩いカーブを描き手前の邪魔なボールの脇を滑って一番ボールにコンと軽く接触した。
 一番ボールはサイドポケットに静かに沈んでいった。
 手玉は五番ボールの手前で停止。二番から四番は先に入っていた。次は五番。五番からコーナーポケットの前にある十番を狙った。十番も難なく入り。五番ボールは横にそれて停止した。
 次は読めなかった。五番ボールがストレートでポケットに入るコースはなかった。
 右コーナーポケット前に八番ボール。手玉はその中間にあった。手玉のやや下を水平に突いた。五番にコツンと当たって停止したかに見えたがそのまま回転して勢いよく真っ直ぐ返って来た。引き玉だ。手玉は八番に突っ込むと八番はコーナーポケットに沈んだ。トントン、琴子も勝之もキューのタップを床に数回衝いて賞賛する。
「征生男ちゃん、こうなったらパーフェクトやで」

残りは八個、もしかしたら。八個のボールは程よく散らばりコースが読める。初めてのパーフェクトが。
 体が熱く汗ばんできた。いつの間にか数人の見物客。知った顔ばかり。琴子を見る。笑顔で眼は「行けっ」と言っている。
 次の一つ二つはストレートで鋭くポケットに沈めた。
 三つ目。ほぼフットスポット。手玉はその直線状に台の反対側。狙い目は右コーナー。素直に突くと手玉が左コーナーに吸い込まれスクラッチの危険があった。少し捻りを入れてキューを軽く押し出した。「しまった」小さな叫びが征生男の口から漏れた。狙い通りの捻りが効かず危惧されたように手玉は左コーナーへ緩やかに吸い込まれていった。
 残り五個のボールは琴子が難無く全て取り、勝之の出番はないまま後半戦に入り、結果は僅かな差で琴子の勝利に終わった。
 征生男の緊張や研ぎ澄まされた鋭利な感覚も後半では発揮できなくテクとキャリアで上を行く琴子が未だ勝って、白熱した勝負に琴子の額にも初めて見せる汗の雫が浮いていた。
「次は征生男にやられるな。楽しみにしてるで」

優しい琴子の笑顔があった。
 
「そうか、それは征生男の大奮戦記やな。その前田と言う人も征生男を舐め過ぎて手加減し過ぎたな。ケンカ慣れした人やど」

ニコニコする健ちゃん。
「そんなことあれへんて、前田さんもダメージ強かったんやで」
「勝之なんかから見たらそう見えるねん。そんな甘いもんちゃうど。先ず向うは本気でなかったんや。ケンカ慣れした大人がやなお前等ガキに本気出すかい。話聞いてたら多分相撲でもやってた人やろ。そやけど良かったやんけ好かれたんや。そんなお前等を好きになる人や懐の深いええ人等やど」
 勝之が和歌山での一件を皆に得意気に話して聞かした。
 健ちゃんは冷静に聞いて分析していた。
「征生男、アンタなもうケンカばっかりしたらアカンで。いつか大ケガするで。何で男はそうなるんかな。私のお兄ちゃんもケンカばっかりしとったわ。ほんでな一回腕の骨折って大ケガして意識もないようなって、私どんなに心配で、ホンマ困った時あってんから」
「えっ、健ちゃんみたいな人でもやられることあるのん」
「征生男、何ビックリしてんねん。そやなそんなんあったなぁ」
「健ちゃん、少林寺拳法三段か四段かちゃうん」
「ハハハ、その頃はお前と一緒で体当たりだけやってんな」
「何で健ちゃんがそんなんなったん」
「カッちゃん、そんなん訊かれたら私が恥ずかしいかな。ま、ええわ。私らお兄ちゃんと二人だけやねん。私が我侭でなその内ワル始めてんな。ほんでチンピラなんかと付き合うようになって変なことされそうになってん。それを兄ちゃんに言うたら、兄ちゃん血相変えて出ていってな、後で聞いたらチンピラをメチャクチャやってんて、そやけどそのチンピラが居るヤクザの親分が怒ってな兄ちゃん連れ出し大勢でやられてしもてん。それでも兄ちゃん一人で帰って来たんやで」
「ほほう、えらいしょうむ無い話になってきたな」
「しょうむ無い話とちゃう。そら私が悪かってんけど、あの時はホンマに兄ちゃん死ぬんちゃうか思ってどんなに心配で辛かったか」
「ま、しょうむ無い話ついでに征生男と勝之に聞かしたるわ。俺らの親父は俺等を捨ててどっかに消えて、早苗が三つの時に母親が死んでな、兄妹揃って施設に預けられてん。俺は妹が不憫でなコイツのことばっかり考えてたんやん。子供の頃から早苗になんかあったら飛んで行って周りの奴を殴り飛ばしてきてな。そやからあの時もそうやってん。カーッと頭に血が上ってそのチンピラを足腰立たんぐらいにやってもうてな、次の日、そこの組のモンが押し寄せて来て袋叩きや。あれから強うなろうと少林寺に没頭したな」
「そやけど、兄ちゃんはアレから全然ケンカせえへんかってん」
「何でですか」
「勝之な、でけへんねん。少林寺で段取りになったらケンカなんかでけへんねん。本気でやったら相手殺すような修行積んでもうて自分が怖いねんな。そう思うとケンカもこっちにやってけえへんねん。征生男も今は尖がってるからケンカが何ぼでも向うから来るねん。未だな、ガキやからそんなもんやろ。そやけどなそれがしょうむ無いと気付くようになってくるやろ」
「健ちゃん、それは違う。オレは好きでケンカしてんのんちゃう」
「分かってる。分かってるって。ガキ言うたら悪いけど、今はまだまだお前は若い。若い時はな突っ張りも必要や。無理して抑えることはないやろ」
「そんなん言うたらアカン。この頃の征生男を見てたら何か怖いねん。お兄ちゃんみたいにいつか誰かにメチャメチャやられそうで」
「それもしゃぁない。やってたらいつかはやられる。一つの経験や。征生男みたいに逃げへん奴はいつか何かあるわ。おれに似てるもんな、ワハハハハ」
「笑いごとちゃうし。私はホンマに心配してんねんから。征生男、彼女は良い子みたいやんか。カッちゃんから聞いたら綺麗だけとちごうて優しい子や言うやん。そんな子を心配させたらアカンで」
 ドアが開いた。
 ミヨと歌子が入ってきた。健ちゃんは歌子と征生男を交互にちらっと見た。その視線に一瞬鋭い光を感じ背筋に悪寒が走った。あの眼線は一体何なのか征生男は妙にたじろいた。
「カッちゃん、帰って来てんな。今度の出張は長かってんなぁ」

ミヨは勝之の横に座った。歌子はそっと征生男の横に座る。
「健ちゃん、マンハッタン。頂戴」
 ミヨと歌子が来る時間。時計を見る。十一時を少し回っていた。後十五分。ここを出よう。照美の笑顔が脳裏に張り付いている。勝之とミヨ、明美が賑やかに盛り上がっている中、征生男と歌子には沈黙が重くのしかかっていた。
「健ちゃん、オレに少林寺拳法教えてや」
「無理やな」
「何でや」
「う~ん‥‥。厳しいど。俺がやると毎日が修行や。先ずな、お前と俺の時間の接点がないな。昼はお前が学校やろ、夜は俺が店や。無理やな」
「征生男、そんなん習って又ケンカしようとしてるんか。止めてや。アタシもうあんな辛い思いしたくないで」

搾り出すような声。正面のバックバーに並べられたグラスが店内の淡い光を受けて小さく煌いている。そこに視線を当てたまま低く小さな歌子の声。
「オレ、帰るわ」

征生男は立ち上がった。
「征生男ちゃん、俺、もう少し居るけどええか」
「カッちゃん、明日もあるんやろ、そこそこにしとけよ」
 ドアを後ろ手で閉めた。締まる前の僅かな隙間から歌子の立つのが視野に入った。パチンコ屋の表の灯りが消え店内では従業員たちが店じまいに忙しく動いていた。
 風がやけに強い。北風、木枯らし。
 もう直ぐ春と言うのに冬がのんびり居座っているのか宵闇の中を冷たく刺す風が走る。
 足音が直ぐ後ろに迫ってきた。今は歌子の存在に脅威を覚えてしまう。足音が通り過ぎ征生男の前面を塞いだ。
「逃げんでもええねん。私は征生男の邪魔をせえへんから。そやから逃げんでもええねんで。彼女が好きなんやろ。良かったな好きになれる彼女が出来て」
 歌子の手は征生男の肩にかかっていた。瞳が潤んで、不自然な笑顔が征生男の感情にやるせなく青白く投影されてきた。
 動けない。
 歌子の目がじっと征生男の目を捉えている。
 いつもより濃い化粧。長いつけ睫毛、黒い瞳に潤んだ水滴が夜に咲く灯りを含んで煌いていた。
「さっきな、あんなん言うたけど、征生男がひどい目に会ったらアタシのとこへ来るんや。彼女の前ではあんなカッコよう見せへんやろう。ええねん、それでもいつでもおいで。アタシは征生男の為やったら何でもしたる」
 征生男は焦った。終電車がくる。動けない。歌子を押しのけて行こうとする意識が感情の弱さに負けて動けない。
 突然、歌子が征生男の腕を取って引っ張った。
 道の脇、灯りの届かない所まで引っ張って腕を征生男の体に巻きつけ抱きしめ胸に顔を沈みこませてきた。抗し難くなされるまま、征生男の神経は耳に集中していた。僅かな地響き、寒風の中を幽かに頼りなく伝わってくる電車の車輪の音。
 思わず歌子の肩を押した。歌子の腕に次の力が入り征生男の体を更に抱きしめる。激しい焦りが襲ってきた。歌子の肩を腕で押す。歌子は更に力を入れてくる。
 車輪の響きは遠ざかって行った。
 怒りが胸を突いてきた。力を込め歌子の肩を押した。
「歌ちゃん、ゴメン」

突き放したような形で肩を確り捕まえ言えた一言。
 走った。商店街を抜け、路面電車の通りに出た。

電車の姿は既にない。停留所に人の影は無かった。
 停留所から自分の家を目指して走った。
 闇の中でぼやけた町のた佇まい。家々の屋根と暗い空との境界が二つの闇色で浮かぶ。僅かな街灯に浮かぶ路上に人影はないか、走った。えびす食堂を曲がった。路地の向うは家々の小さい灯りが点在しているが淡い闇がおりている。人影はない。

走った。路地の突き当たり、道は右に折れて数件先が照美の家。家の前まで走った。長屋の中程。それが照美の家。
 二階に灯りが点された。照美だ。
 どうする、淡い闇が降り静寂が沈み込んだ軒並み。
 子供の頃以来訪れていない照美の家。

立ちすくみ、二階を見上げる。低い軒だから呼べば届きそうな距離。それは照美だけに届くのではなく、両隣にも路地を挟んだ向かいの家々にも届く。敗残者のように立ち尽くす。見上げる窓。窓の灯りが幻想的に広がる。

夜空の闇に僅かな星。星が風の中で冷たく瞬いている。
 十日以上も待ち焦がれたこの一瞬を歌子に阻止された。
 後、一分も早ければ照美に逢えたのだ。
 諦めを風が運んできた。歌子を憎いとは思わなかった。

 

 

未知の門戸

 

「根性とかケンカと言うのは俺にとってどうでもええねん。前田さんのようなこんなデカイ人に向かっていく心や。それは強い者、権力に対して果敢に挑んでいく闘争心やな。俺が征生男君の一番気に入ったのはそこや」
「又、岡本の御託が始まるぞ」

前田がニコニコする。
「日本人の一番悪いとこは長いものに巻かれろとか、寄らば大樹の陰とか、出る釘は打たれる、何て言うかな、そう、自らの意思を出さず持たず、力のある者になびいて突出してくる者を寄って集って押さえ込むねん。それがこの社会を悪くしてんねんな。征生男君はそんな卑屈な遇衆の一人とちゃうねんな。言うたら闘う勇者や。ま、まだ解からへんやろうけどそれが革命の基本的な心構えになるねん。もう一つは芯の優しさがあるかどうかちゅうとこかな」
「‥‥」
「おっ、岡本の革命が久しぶりに出てきよった。お前、それはもう諦めたんちゃうんか。革命よりもこの金本組を盛り上げてデッカイ会社にするんちゃうんか」
「社長、それとこれとは別や。俺自身が革命に打ち込む程の資質や勇気はもうないにしても、これから生きて行こうとする若い者にそれは伝えなアカンねん。征生男君は学校でも学校権力と闘ってるし、上から押さえつけようとする奴等にも果敢に挑んで行ってる。社長の若い頃に似てるな。な、征生男君。社長は朝鮮人や。言うたら在日朝鮮人や。この人達はな戦争前に無理やり朝鮮から日本に強制連行されて来て奴隷のようにこき使われたり、その結果殺された人もいっぱい居んねん。戦前に強制連行された朝鮮人の数はちゃんと掌握されてへんから正確には言われへんけど百万人以上と言われてる。朝鮮側からは数百万とも言われてるんや。社長はな鳶という仕事をしながら在日の人達の権利を守る為にも一生懸命に働いてんねん。な、見た感じは厳ついんヤクザ以上やけど、実際ヤクザとも渡り合うのも時々あんねん。ようするに日本と言う国は戦争に負けてアメリカの言いなりになって、そやのに戦争前の朝鮮人への差別だけは残して矛盾だらけで自立の無い人間が圧倒的に多過ぎるねんな」
「オレもそう思います。だらしない日本人はいっぱい居ます。日本人は天皇を頂点において一丸となってアメリカなんかやっつけなアカンでしょう。それには日本の中にいっぱい居る朝鮮人も従わせてまとまらなアカンでしょう」
 
 歌子に邪魔されて照美に会えなかった。
 会えなかった悔しさと、間に合わなかった自分の至らなさが重なった時、照美に後ろめたさが生まれもう逢えないような絶望感が呪縛となって心を切り刻んで来る。重い呪縛に一日苛まれ何処かに出口を見出したかった。前田の顔が浮かんだ。屈託の無い包み込んでくるような前田の大らかな笑顔が甦った。
 勝之を誘った。勝之は即座に「行こう」と叫んだ。
「男は男に惚れる。な、そんな人等や。行こうや征生男ちゃん」
 二階建ての家が建ち並ぶ路地、民家と小さな町工場や倉庫とかが入り組んだ極ありふれた下町の臭いが漂っていた。征生男の住む大正区のそれと何ら変わらない同じ臭いだ。
 金本組の事務所はその路地の一角で、ガラス戸だけの玄関からは中の様子は丸見えになっていた。港区磯路町、勝之とおずおずと中の様子を伺う。若い女性と男性の事務員らしい者しか見えない。ガラス戸を開けた。二人が一斉にこちらを見る。
「あのう、前田さんに会いに来たのですが居られます?」
「ああ、征生男さんですね。専務直ぐ呼んできます」
 背広にネクタイの巨漢の男がニコニコして奥の部屋から出てきた。隙間の無い紳士と言うよりヤクザの幹部のような威圧とスマートないでたち。思わず征生男と勝之は顔を見合した。
「おぅー征生男、勝之、よう来たな。さっこっちへ上がって来て」

相好を崩している。どう見ても前田なのだが、和歌山で見た鳶の格好からは想像できない。
 皮の少し擦り切れくたびれたソファーセットが奥の狭い部屋の中央を占拠している。
「まあ、座ってや」と前田がドカッと腰を下ろした。
「社長もな征生男等が来る言うたら喜んでな、帰るまで退き止めとけって、もう直ぐ帰ってくると思うんやけど」
「えっ、社長って?」
「社長はウチの親方やん。金本さんや。おーいっ、岡本もこっち来いや」
 事務机で書類に目を通していた青年が入ってきた。
 ザンバラの無造作な髪を少し額に垂らして黒ぶちの眼鏡、一八〇センチはある長身。スラッとして甘いマスクが爽やかに映る。
「や、征生男君にえっと、勝之君やったな。初めまして」

手を差し伸べてきた。征生男も勝之も慌てて立ち上がり手を差し出し三人で握手をし深々と頭を下げた。
「岡本は常務や。経理とか事務とかそれから営業かな、とに角や金本組の頭脳やねん。ちょっと変わった奴でな、折角京大に行ってたのに止めてなウチなんかに来よってん。学生運動なんかやってた世間のスネ者や」
「あははは、前田さんにかかったら俺はいつもスネ者になんねん。社長や前田さんに話を聞いてな俺も君等に会いたかってん」
「ホンマな、征生男のパワーは凄いぞ。ほっとたら死ぬまでかかって来るんちゃうかなと思う位やった。ええとこで社長が止めてくれて俺もホッとしたで」
「すんません。もうその話しは、、」
 入り口の戸がガラガラと開いた。

「おお、征生男、勝之よう来たな」

ドカドカ入って来た金本社長もネクタイに背広、堂々として凛々しい。何処から見ても社長って感じの貫禄がオーラーのように漂っている。
「ま、お前等高校生やし、あ、そうか勝之は立派な社会人か、てかまだまだ若いしなその辺の飲み屋に連れて行くのも何やし、今夜はここで飲もう」
 買い物袋から寿司の箱を出してテーブルに広げる。
「恵ちゃん、悪いけどビール出してきて」

女事務員に明るく叫んだ。
 岡本は饒舌だった。反発をしようとしてもすればするほど征生男の言葉と思考が空虚なものになってくるのに気がつき、黙々と聴いてしまっている自分がそこにあった。
 岡本は笑顔を絶やさず穏やかに話す。目が一瞬、鋭く輝いた。
「征生男君は剣舞や居合い抜きをやってるって言うてたな。なかなかカッコええやん。俺も剣道を以前やってたんやけど、日本の武道の殆んどは神道や武士道的精神があるねん」
「そうです、武士道を全うして強い敵に立ち向かい日本を昔のように天皇を頂点に秩序のある国にして行かなアカンと思います」
「ほう、なかなか勇ましいやんけ。そやけどな、その考えの方向性な、どうやろう。歴史で習ったと思うけど武士はな、最初は天皇を守る為に生まれてん。侍はサブラウと最初は言われて天皇や公家の警護が役目やってん、その内侍は武士集団を形成して各地で勢力を蓄えてきて、自分たちだけの政権を作ろうとして天皇に逆らい、天皇から実権を奪ってしもうた。天皇を頂点にしていたのは鎌倉幕府が出来る迄で鎌倉幕府と言う武士の政権が出来てから徳川の江戸幕府が終わる迄で、その間は天皇は形だけで武士政権に養のうてもろてただけや。中でもな、織田信長は知ってるな、信長なんかは苛烈で天皇そのものを無くして自分がこの国の王になろうとしたんや。ま、歴史的に視たら他にも何人か居るけど信長は強烈やったな、革命児と言われるのはその辺ろう」
「岡本、又、話がなごうなるんか。征生男と勝之がせっかく来てくれたのにあんまり堅い話はそこそこにしとけや」

金本がいなすように口を挟んだ。
「ホンマやなぁ。俺の悪い癖や。そやけどもうちょっと待って。征生男君はさっき朝鮮人も従わせてと言うたな。それは何処からそう思うんか気になるねん」
「それは、日本人の一番偉いのが天皇でその下にオレ等日本人が居て、その日本に朝鮮人が入って来てる訳でしょう。日本に居る限りは日本に従わなアカンでしょう。金本さんが朝鮮人なら、金本さんも日本の法律や天皇にも従わなアカンと思います」
 金本も前田もニコニコして征生男を見つめていた。
「それは、征生男君が実際に自分の考えで思う事か?」

岡本の声は穏やかだ。
「オレはそう思います。それにいつもオレの親父が‥」

言葉が切れた。自分は父親の全てを憎んでいるのではないか。それは母への虐待や自分への冷酷な態度だけなのか、父の生き様も言動も全て反吐が出る程に反発してきたのでは、ならばそこのところだけが何故一緒になるのか。「兄弟」と呼び合っている近所の韓国人の顔役に兄弟と呼び合いながら父は影では彼の事を「チョンコ」といつも蔑んでいた。子供心に小さな矛盾を感じていた。
「そうか、征生男君の親父さんがいつもそう言うんや。今の一般的な日本人の考えやな。朝鮮人の殆んどが自分の国から強制的に日本に連行されてきたって言うたやろ。連行、強制連行ってどう云うのか、日本は明治維新で富国強兵を推し進めたと言うのも歴史でなろうたやろう。要するに天皇の主権の下に軍国主義になって隣の朝鮮を侵略して植民地にしてそこの人達を奴隷として無理矢理連れて来たんや。言うたらな他所の家に土足で踏み込んで刀や銃で脅してそこの家の物を強奪して更に自分の家の仕事をタダでやらしてん。それに逆ろうたら殺すんや。強盗より質が悪いと思えへんか。日本はアメリカに戦争負けたんとちゃうんやで、そんな理不尽な悪い事をした結果負けたんや。そやから今、日本に居る朝鮮人に償いをせなアカンねん。
 勝手に無理矢理連れてきてそれが悪いと分かったらその人達に心からお詫びして償いもせなアカン。そやけど日本人の殆どはアメリカだけに戦争負けたとしか思うとれへん。未だにチョウセンジンと差別してるんや。これはホンマにアカンと思うねん」
 岡本が話す内容は横溝が言うていたのと殆んど一緒だった。それでも、横溝と違う何かが征生男の思考の中にグイグイめり込んでくる。これは一体何やねんと、今まで体験もなく知る由も無い世界が圧倒的な力で迫って来て征生男の思考を錯乱させていた。

社長の金本が岡本の話を制して話題を変え、勝之の仕事とか女関係の話を聞きだして皆で笑ったり、勝之が征生男のケンカの数々を大げさに話したり、征生男の恋話にも余計な道を開き皆を楽しませていた。大人たちの中にあって勝之は一躍人気者になった。
 ビールも飲み寿司も鱈腹
(たらふく)食べた。勧められるままにウイスキーも酒も飲んだ。征生男も勝之も不思議に酔わなかった。今までに経験のない大人達の中での解放感が全てを無防備にさせ時を忘れさせた。

 井川塗装のアルバイトの予定は全て終わった。
 和歌山の住友金属の仕事以外は近くの工場の錆止めとかコールタール塗りの仕事で終始した。単純ながらそれはそれでキツイものもあって夜は早めに眠りに落ちてしまった。
 後数日で春休みも終わり新学年が始まる。
 照美への想いは片時も離れず脳裏を占拠してその度に重く消沈してしまいそうで悶々とする日々が続いていた。その隙間を縫って岡本の言葉がチクチク小さいが鋭く突き刺さってくる。
 朝鮮人、強制連行、差別、軍国。言葉が交差して未知な世界の門前で不可解なしこりと、漠然と思い信じてきたものが溶解して崩れていく焦りと向き合う。自分が未だ知りえなかった世界への門戸。
 これまで見ることの少なかった新聞に目を通すようになった。安保とか全学連とか共産党、社会党、デモとかの文字が連日紙面を覆っていた。それが何でどんなのか理解できない。岡本は学生運動をして革命を目指していたと言う。全学連と関係するのだろう。
 教科書の日本史、世界史を執拗に読んだ。
 部屋に籠り、勉強ではない自分が見落として知らない世界への葛藤が本の一字一字を見逃すまいと丹念に追っている。
 冬は終わっていた。ぽかぽかとした陽射しを受け、窓縁の机に肘を付き西郷隆盛の征韓論とは何か、ボンヤリ考えていた。



恋歌・愛歌

 

「征生男ちゃん、電話やで」

階下からの母の声にハッと目が覚めた。眠っていたのだ。電話。珍しい。学校の誰かだろう。階段を降りて居間兼食堂に入った。
 「山崎照美って、あの照美ちゃんか」

怪訝な母の顔。征生男は一瞬心臓も呼吸も止まり心臓が飛び出したかと。照美、照美ちゃんからの電話。
 千代は征生男の顔を食い入るように見つめている。

「ごめんね。そやけど心配で心配で、どうしたらええんか、電話してしもうてん。征生男ちゃん、何かあったん」

電話帳を調べてかけて来たと言う。食入るように見つめていた母の千代はもう素知らぬ顔で台所に行っていた。
 照美は静かに囁くような声で語りかける。思いも寄らない照美からの電話に狂喜が裏返して自分を見失い受け応える思考が拡散して、照美の声を遠く遥かな音色でも聞いているような。
「征生男ちゃん、どうしたん何か喋って。電話したのんアカンかったん?」
違う、そんなことあれへんと言おうとしても何かもたつく。
「オ、オレ、オレ‥、間に合わへんかってん。家の前迄行ってんけどアカンかってん。ほんで、その後どうしたらええんか、それにペンキ屋のバイトもあってどうしたらええんか」

混乱している。それに何を話ししても後ろめたい言い訳で見苦しいと分かっていた。

「家の前って」
「あの日、終電が出た後で家の前迄行ってん。それでも間に合わへんかってん。照美ちゃんの部屋は二階やろう。部屋の電気が点いてからしばらく立って見ててんけどどうしようもなかってん。声出したら周りに聞こえるし、なんしか立っててん、しゃぁない
(仕方ない)からそのまま帰ってんや」
「うち、今、エビス食堂の公衆電話から電話してるねん。征生男ちゃん出てこれる?」
 征生男は台所の千代に視線を投げた。千代と目が合った。千代は優しく微笑んでいる。
「よしっ、分かった。オレ、今そこへ行く」
 受話器を置く。身を翻す。そのまま玄関へ。下駄をつっかけガラッと戸を開ける。
「征生男ちゃん、何処へ行くの」

千代の小さい叫ぶような声が聞こえたような気がした。玄関を出て右に折れ、家の角は通りだ。通りの向かいにエビス食堂がある。照美が見えた。硬直したように立っている。
「征生男ちゃん」

駆け寄る征生男に呟く小さく怯えたような声が耳に入ってきた。
「行こう」

照美の腕を掴み強引と思える程強く引っ張った。
「何処へ?」
「オレの家」

照美の腕と体に瞬間強い力が加わり制止する抗いが顕われた。
「イヤや。そんなんでけへん。うち、征生男ちゃんの家には行かれへん」
 引っ張った。更に強く引っ張った。
「ええから」

照美から力が抜けた。
 開け放された玄関の戸を入ると千代が立っていた。
 一瞬、目を見開き不思議な光を宿したが、瞬時に柔和な笑みが浮かび

「照美ちゃんやね。綺麗になったねぇ。ビックリしたわ、ええ娘さんになって。征生男と仲良くしてくれてんの。知らんかったわ。さあさあ上がって。遠慮したらアカンで。そやけど征生男の部屋は汚いで。とに角上がって」
「ふうーっ、おばちゃん優しいなぁ」

両手を胸に当て深く溜息をついて安堵の表情で征生男を見た。蒼が鮮やかな光りを帯びて澄み切った瞳がパッチリ開いている。正視するには眩し過ぎる光りを見つめた。
 勉強机に椅子、丸い小さなテーブルと布張りのクッションの椅子。いつもは勝之が腰掛ける。それに照美を座らした。
「もう、いきなり連れて来るんやから、心臓が破裂するかと思った」
「何でやねん、これが一番ええやん。外で立ち話はアカンやろう。オレのこと怒ってへんのか?」
「それこそ何で、うちが征生男ちゃんを怒る理由ないやん。ただね、何かあったんちゃうやろかとずっと心配しててん。家の前まで来てくれててんて。全然知らへんかったわ」
「そやねん。もたもたしたオレがアホやってん」
 心底自分を詰った。歌子の気迫に押され気後れした自分が何とも不甲斐ない。むしろ歌子にも照美にも異質だが後ろめたさを宿して行動に素直さを埋没させてしまっていた。
 自分は照美しか居ないのだという思いが強引な行動に現れた。

母の千代なら多分分かってくれるはず、例え分かってもらえなくても照美を自分の部屋に連れて来て全てを釈明したいと咄嗟の思いに従った。
「何をもたもたしたん?」
 ふと歌子の肢体が脳裏の片隅をよぎった。
「いやな、カッちゃんとルニーで騒いでいる内にもたついてん」
 オレは平気で嘘を言っている。全てを釈明しようと思った尻から明かす訳にはいかない歌子のことで既に大きな壁の前に立ってしまっている。陽と陰があれば照美が陽で歌子が陰なのか、陽はあくまでも眩しい存在なのだ。憧れでもあり信仰に似たものでもあった。
 照美はすくっと立ち上がり窓を開け身を乗り出した。
「ここからいつもうちを待ってたんや。ほんで、うちもこの窓をいつも見上げてたんやね」
「いつも?」
「そうやで、いつもやで。征生男ちゃんが和歌山へ行ってる間も征生男ちゃんが居れへんのん分かっててもこの前を通って窓を見上げてちょっと止って帰ってたんよ。うちってアホやろう。毎日な、後何日したら征生男ちゃんが帰ってくるんかなって、この窓見上げる度に思っててん」
 自分は嘘吐きや、自嘲の中で照美の言葉が胸を締め付け痛く迫る。
 トントントンと階段を上がる音が聞こえてきた。
 母が来る。いつもより思わせぶりな高い響きがあった。
「何もないねんで、照美ちゃん。こんなんでも召し上がってくれますか」
「ええぇっ、そんなん、すみません。ホンマに突然お伺いして悪い思っています」
「何、言うてんのん。征生男みたいな暴れん坊なんかに仲ようしてくれるだけでおばちゃんはホンマに嬉しいんやで」
 千代はコーヒーと駄菓子の盛った器を丸いテーブルに並べた。
 うるさい、あっちへ行け。とは口に出せなかったが、表情が険しくなっているのが自分でも分かった。その一方で母の行動に否定できない安堵も感じていた。偵察、それとも違う好奇心、いや違う監視。その全てなのだろう。
「本当にゆっくりしていって。ほんでなこれを機会にいつも来てや」
 トントントン、階段を降りる千代の足音は小さく静かものに変わっていた。
「クソババー」

征生男は吐き捨てた。それはワザとらしく自分にも聞こえた。
「何言うてんのん、征生男ちゃん。そんなん言うたらアカン。ホンマに優しいて上品なお母さんやんか」
 窓際に立つ照美の後姿を安心して全て眺められた。仕事帰りの照美の服装はタイトスカートで、それしか知らなかった。
 袖にふっくらとした絞りのあるブラウス。春を誘う薄いピンク。胸元にも搾りの紐が蝶々結びで可憐な形で揺れている。
 プリーツのスカート。動くたびになびく。妖精の起こす小さな波のような微風が伝わってくるようで香しく征生男の全てを包み込んでくる。
 歌子の肢体が横切り、照美の全てを裸にして視る。比較していた。歌子は女の体液の扇情的な臭いが妖しい形として現れる。
 照美は蜜。花の蜜。心の蜜。青空の輝き。海の光り。
 犯しがたい聖なるもの。それでいて心は体内で融合しようとする欲望が満ち溢れる。侵し難いから自分からは何も出来ない恐れが張りついている。
「征生男ちゃん、強いんやね。凄いわ。そやけど、ね、ね、もうそんなケンカせんとって。ホンマに大ケガするし、ケガだけで済まへんかも知れへんやん。うちの心配はやっぱり当たってたんやな」
 和歌山での乱闘がきっかけで金本組の人たちと素晴らしい出会いをしたと照美に聞かせた。
「岡本さんが色んなことをオレに話してん。その話の中身が横溝が言うてたんと殆んど一緒や。横溝が何を言うてもオレの肌には合えへんねんけど、何かちゃうんやな、岡本さんの話には気になる事がいっぱいあって、ほんでそれが社長の金本さんや前田さんの男っぷりと何がどう結びつくねんと、気がついたらそんなんばっかり考えてんねんな」
「ふ~ん。何か難しいな。うちはアホやから世の中の事は全然分かれへんけどハッキリ言えるのは朝鮮人や言うて苛めたりするのは嫌いやな。見てて辛ろうなるねん。うちの家の周りは朝鮮の人達が多いやん。皆その人達を軽蔑するやん、何でそうなるの?一緒の人間やのに。ほんであの人達は自分達の祖国の朝鮮にどんどん帰って行ってるやん。それは良かったなあと思うねん」
「帰ってるって?」

征生男の問いは間がぬけていた。
「知らへんのん。四町会の人等は韓国で二町会の人達は朝鮮やから朝鮮に帰る人がどんどん増えてるんやで」
「そうか、そうやな。そやけど朝鮮は朝鮮ちゃうんかいな、何で朝鮮と韓国なんやろう」
「ホンマやね。北と南に別れてるけど、何でかな?」
 多分オレらは幼稚な知識を会話の中に挿入しているのだ、知らない大きい何かがその向うに途方もなく展開してるのだろうと征生男は思った。
 凶暴な粗々しい熱い塊が突然せり上がってきた。体を退けぞらせ喘ぐ歌子の姿態が甦る。照美の上にそれを被せた時獰猛な欲望が制御できないまま上昇してくる自分に狼狽
(ろうばい)が広がっていく。
 歌子と照美は違う。
 気がつけば初めての口付けをした時のエビス食堂の路地。そのエビス食堂が窓外の眼下に見える。照美はひょっとしてそれを見ているのか、そうだとしてもその再現を迫る勇気が征生男にはない。誰にも邪魔されない二人だけの空間。しかも自分の部屋。思いの底の果てがないが故に、侵し難い美しさを途方もなく抱くが故に、触れると言う行為すら恐れが先走り見つめ眺めるしかない。
 この昂
(たか)まりと苦しさは何やねん。
 突然照美は踵を返し征生男の背後に回ってきた。
「勉強してたんやね。えらいなあ」
 机の教科書をつくづく眺め入っている。
 征生男も立ち上がり机の前で照美と並んだ。
 思わず半袖で剥きだしの征生男の左腕が、肩口の辺りで短く絞った袖から顕になっている照美のふくらはぎと接触した。
 その感触が電流の如く身体中に駆け巡る。冷たくサラッとした肌、産毛の柔らかさまでが敏感に走ってきてドキッとしながらも、離れがたく離れたくなく硬直したままになっている。。
「勉強とはちゃうねん。ただな‥」

上ずった自分の声が耳に入って来た。
「ただ‥どうしたん?」

照美の声は明るく澄んで囁いていた。
 征生男は硬直した腕を思わず心なしか照美の腕に押してみた。それに合したように照美も寄りかかるように体の自重を傾けてきて見開いた瞳で笑顔を送ってきている。自然で当り前のように征生男に寄り添う形になった。
「岡本さんの言うたのが何か気になってな、その辺が教科書にあるのかどうか見てたんや」

上ずった声は変わらない。
「知りたいのが増えてんやね」
 更に大胆に照美の腕に自分の腕を押し付け密着した形になった。
「岡本さんは明治維新で天皇の政権になって明治政府は西郷隆盛が主張した征韓論が元で朝鮮を侵略して植民地にしたと言うから、その辺を見ていたんやけど、その肝心の西郷隆盛が西南戦争で明治政府に敗れて死ぬんや。それが何でか理解でけへんねんな」
「ふ~ん。何か難しそうやな。うち中卒やから、ちゃうちゃうアホやし‥」
 楽しそうに微笑んで照美は強く体を押し付けてきた。
 その他愛の無さには性的な思惟は見られないが、密着した体からは照美の甘い体臭が全ての空間に満ち溢れ、眩いばかりに迫ってきて耐え切れず征生男は机に両の掌をついた。
「征生男ちゃんどうしたん。」

 照美は腰を屈め、思いつめた表情の征生男の顔をそっと覗き込んだ。いつもは後ろに束ねたポニーテールの髪型が今日は真っ直ぐ下ろしている。長い黒髪がサラッと揺れ下になびいてその香しさが征生男の顔全体を優美に包み込んできた。
「オレは大人達のいう事を疑いもせんと今迄当り前に受け継いで来て、それが横溝は逆の話を言い出してきやがった。アイツが授業で教科書にも書いてへんもんをいっぱい喋りだしてきて、日本が朝鮮や中国や東南アジアを侵略して天皇が頂点でいっぱい人を殺してきた。それは明治維新からそうなって結局はアメリカと戦争して敗れたけど、天皇はそのまま天皇で何の責任も問われずに居るんや、それが絶対おかしいなんて言いよったから、それってやっぱりアカやん。アカは天皇を否定して日本をソ連に売り渡そうとする売国奴や。そんな絶対に許す訳には行かへん。
ほんでオレは授業をボイコットして横溝と対決する結果になってええ気になってたけど、アイツは何やかんやと難癖つけてきてオレの進級を条件付きにしやがった。ところが、岡本さん等に会ったら岡本さんも同じような話をする。
金本社長は朝鮮人で前田さんまでが同じように思ってて、オレが今迄思ってたとは全部逆で、その辺からオレの中で訳分からんもんがドンドン大きくなって落ち着かへんようになってんねん。
 オレが今迄思ってたものと言うたら、よう考えてみたら全部親父の考えで、そやけどオレはその親父をホンマに殺したいと思うほど憎んでて、そやのに何で親父と同じ考えやねん。何であんな奴と同じ考えやねん。
 そう思ったら自分は一体何やねん。自分は親父の受け売りだけをこの世の中のありようやとずっと思ってきた。横溝は大嫌いって言うより許されへん、アイツは卑怯や、自分に従えへんオレを力で捻じ伏せようしてきている。やのにアイツの言うのと岡本さんの言うが一緒で、岡本さんや金本社長と前田さんはメチャ好きになって、これって矛盾してるねんな。
ところが岡本さんは横溝や学校のやり方が権力でそれに反抗するオレを素晴らしいなんて云うんや。何が何か分からへん。考えるねんな。おまけに日本がどうたら社会がどうたらオレの頭の中まで変に考える事がいっぱいになって来て、て言うか知らん事だらけで」
 机に両手を突いたまま棒読みのように言葉を並べまくって喋り、何処が終わりなのか制御が効かない。
「征生男ちゃん、落ち着いて。本当に今、話ししたいはそんなこと?」
 優しくゆっくり丁寧に問い返してくる照美の言葉にハッとする。そうや、今、照美に話したいのはそんなこととちゃう。オレは上ずってまるで違う話をしている。照美の性的意識のない無邪気さが自分の欲望の昂まりを制御できずあらぬ方向に暴走しているのだと‥‥それにしても。
「何かもの凄く苦しんでるんやね。うちはホンマにアホやから難しい事は何も分かれへんけど、そんなに苦しんでる征生男ちゃんを見てるとうちも辛くなってくるわ。うちに何か出来るのかな」
 照美の腕が征生男の肩に回り、頬を頬に寄せてきた。
 甘味で柔和な中へ溶けてしまいそうに引き込まれる。それが益々征生男を混乱させていく。照美は歌子ではない。
 照美は歌子ではない。

照美は歌子でない。
 何度も呪文のように心の中で繰り返してみても照美は照美の女としての官能を放ち、密着した体から熱く大きな翼を広げて包み込んでくる。抗えない。苦しいと思った。息が詰まりそうで、耐えているのが精一杯の自分を辛く見つめている。
「あははは。オレ、何かおかしいな。ま、座ろか」
 おどけてみたがそれも上ずってワザとらしさが隠せないまま、照美の肩を両手でゆっくり抑えて自分の椅子に座らした。
 照美は上目使いにジッと征生男を見つめている。そのまま覆い被さりたい誘惑が激しく湧き上がってくる。出来ない。
 一つは、多分もう上がっては来ないと思いつつも、もし、母の千代がいつ現れないとも限らない。それよりも何よりも侵し難い照美の美しさに気圧されいた。征生男は勉強机の上に腰を落とし足をブラブラさせながら照美に対した。
 照美を視る。歌子が浮かぶ。
 自分の体の隅々に歌子の臭いが浸透してると思う。その自分を照美に重ねるなんて許されないのだ。それが抜けきるまで照美には触れられない。想いが途方もなく膨らみその核が熱く熱く昂まれば昂まる程どうしようもなく距離を置いてしまう、もどかしい自分。
 照美の瞳を視る。
 その瞳は瞬きしながら視点を自分に集中している。
 胸の中にとてつもなく哀しい何かが膨らんできて痛みさえ覚える。照美の表情が一瞬緩んで瞳が輝いた。
「ね、後何日かしたら学校始まるやろう。その前に二人で何処か行けへん?」

照美の目は悪戯っぽく微笑んでいる。
 少し離れて上から照美の視線に合わせながらも、視野の隅に淡いピンクのブラウスが胸の膨らみを鮮やかに映し、大きくはない形の整った膨らみ。少し開けた襟元の白い肌が目に染みた。
 当然、照美と一緒なら何処でも良い、いつまでもどこまでも、躊躇
(ためら)いなく征生男は思った。
「何処かって、何処へ」

何故、ぶっきら棒にしか喋れないのか。
「征生男ちゃんは何処か行きたいとこないのん?」
「う~ん、そうやなぁ‥」

「うちね、前から京都に行きたいなぁって思っててん。暖かなってきたし、行けへん?行こう。ええやろう」

 

 

探求

 

 見事に吹っ切れていた。晴れやかでもあった。

濾過(ろか)されて澄み切った軽快さが爽やかに湧き上がってきている。新学年の始まり。条件付進級、それ自体は何ほどのものでもなかった。久しぶりの登校だ。。
 知ろう、知りたいと思うものが余りにも多い、貪欲な探究心が愉快なものとして心地よく満ちていた。
 照美と二人だけで京都に行った。
 京都と言う町を、寺を、初めて色々見て歩いた。
 京阪電車を四条駅で降りて先斗町から八坂神社に行き、円山公園を歩き清水寺、南禅寺で名物とか言う湯豆腐を食った。白い砂利を敷き詰めて波模様に熊手で描いた庭を二人で眺めた。二人だけの時間の中に照美と色々話した。照美は微笑を絶やさず優しく眩しい眼差しを常に征生男に注いでいた。征生男は饒舌
(じょうぜつ)になった。自分がこんなにもお喋りなのかとビックリした。
 もっともっと色んなことを勉強したい、知りたい、これからは躊躇
(ちゅうちょ)せずそこに向かって進んで行くのだと。ケンカばかりしていた。それは自分の望んだものとはかけ離れた現実で、本当は、自分は臆病で弱い、虚勢ばっかり張ってきた。それが一体何になるのか、何か自分に正直になれるもっと違ったものが何処かにあるはずだ。それを何か突き止めていきたい。

「うんうん、そうそう、そうやね」

 照美はじっと征生男の目を見つめたまま真顔で受けていた。時が紛れもなく溶け込みしっとりと二人を水色に染めていた。
 照美と過ごし一緒に居る事で征生男の裡に渦巻いている暗い猛りのようなものが崩壊し何処かへ姿を消し影すら払拭され、これまで感じ得なかった変化が芽を吹き出していた。
 重く圧しかかっていた憂鬱ややり切れない八方塞がりの出口のない闇から解放され、軽やかな弾みが加わり一歩ずつ踏み出し浮いて飛んで行ける心が舞い上がっていた。
 初めて、白昼堂々と腕を組んで歩けもした。
 照美との半日の時間の共有が征生男に新たな息吹を与えたのは隠せない。心と心の疎通に折り重なるように甘味で濃密な絆が深く絡まりあった。胸の内から湧き上がる歓喜は明日への弾みとなって、そこから次に知ろうと言う欲求が膨らんできた。
 地下鉄昭和町駅を降りて阿倍野筋を南下していく、早足で歩く、次々と追い越して行く。目が合う、顔が合う、「オッス。」「お早う。」を知った顔に投げる。今までならチラッと視線を当て目だけで合図を送るだけだったのが、自然に声が出た。軽快に弾んだ声。不思議そうな視線も幾つか感じいた。
 当然組換えがあった。

どっちにしろ馴染んだ顔ばかり。ただし一年の時の顔ぶれはソックリ入れ変わっていた。征生男の周辺を一掃する学校側の意図が明かに見える。それもどうでも良かった。

年月を超え老築化したロの字に建てられた二階建て木造校舎。その二階の東側が新しい征生男の教室になった。
 入江と言う若い国語の教諭が担任だ。ボサボサの髪型、細身でやや長身。明るそうだが一方で単純に見える。
 平川教諭は中学に移籍されていた。中学は高校の校舎の更に東側、平屋のL字型。高校の校舎よりは新しい。征生男の高一時代の教室があった棟と続いていた。だからと言って平川教諭と距離感が出来た訳でもない。職員室は皆一緒で高校の校舎の一階に位置していたから、顔を合せようと思えばいつでも会える。
 始業式の全てが終わった後、平川を訪ねるつもりでいた。
 クラス替えでいつものメンバーが居なくなった訳ではない。新しいクラスにも征生男の周りに集まる連れは何人かいた。加えて始業式の一通りが終わると征生男の周りには十数人の者が集まってきた。別に目的がある訳でもない。瀬田、北村は勿論、異色に菊池の顔もあった。皆の話を統合すると相当数の悪が追放、つまり退学処分になっていた。征生男に挑み覇権を争った顔ぶれは全く居なくなっていた。殆んどが年上の同級生だった。あの梅田もターゲットになっていた。
 一年生時代の約一クラス分の生徒が追放になっていた。万引き、恐喝、異性不純行為などと征生男から見たら女々しい卑怯な行為での処分は仕方ないと思う一方で、学校側の冷酷で計算高さをも許せないとも思う。約五〇人分の入学金はバカにならない。それを見越して初めから処分の対象になるであろう者までも受け入れていたのだ。それが征生男の高校になってから直撃してきた環境になっていたとまでは征生男には考えられなかった。そこにあるもの、現実に展開していく状況に感性だけで反応して体ごとぶつけていったのだ。策を弄
(ろう)した学校の計算高さを知る由もなかった。
 ところが前田を訪ね金本組に行き岡本と会ってからそれまで見えなかった別の世界が見え隠れしだして征生男の思考に強く食い込んで来ている。
「瀬田、オレな皆に手紙を書いてん」
「手紙?」
「そや手紙や。手紙でなかったらオレの決意文かな。お前が読んだら皆で回し読みして欲しいねん。それが終わるまではオレは一人でいつも居るから誘ったりはせんとってくれな」
「何のこっちゃよう分かれへんけど、ま、俺が先に読んで皆に回したらええねんな」
「これや」
「えらいまた分厚いな。読むのも大変みたいやで」
「ええから絶対読めよ。菊池は読まんでええわ。菊池は直接話しがあるから後で付き合えや」

 職員室の前の廊下で待った。次々と教諭達が帰ってくる。
 それぞれ征生男に一瞥を与える。征生男は無視した。
 横溝が帰って来た。前で止った。
「おっ、嶋田。誰かに用か」
 思わず挑む視線を征生男は走らせ無言で受けた。
「ま、新しいクラスにもなったし心機一転、問題ないように頑張れや。俺で良かったらいつでも話し相手になるさかいな。お前ならええ感じに絶対なれる。俺は信じてるで」
 唾さえ吐かなかったものの征生男は睨み続けていた。
「ほなな、」

横溝は征生男の肩に手をやろうとしてきた。征生男は即座にその手を払いのけた。
「そうかっ、やっぱり俺を恨んどるんやな。しゃぁないな」
 横溝はくるっと身を翻して職員室の中に消えていった。いつかイテもうたる、鎮痛な怒りが裡で炎となるのを歯を喰いしばって耐えた。
「どうした嶋田」
 目の前に平川教諭が立っていた。怒りの想念が周りを見えなくしていて平川が近づいて来るのに気がつかなかった。
 約三〇分待った。新学年、どの教諭も忙しい。平川も初めての担任になって何かと忙しいのだろうと理解できた。
 待つのは苦痛でなかった。逆に菊池を待たしてもいる。待つより待たす方が負担に感じてしまう。今日からオレは新しい一歩を踏み出すのだ。その為に平川先生を訪ねたい、菊池にも言葉で宣言したい。それが征生男にはケジメと思えた。
 平川は教員専用の応接室に征生男を招いた。ここは母と何度か入った部屋だ。それは征生男にとって屈辱の場でもあった。学校側からの詰問と査定の場でもあったからだ。
「待たせたな、ま、座れや。休みの間はどやった。ええことの一つもあったかな」
「ええ、まぁ」
「ほうか、ええことがあったんや。それは良かったな」
「そのことなんですが。凄い良い人達と巡り合いました」
 征生男は和歌山の出来事から金本組の事務所に言って岡本と言う青年に会って、そこで色々話してもらったのを掻い摘んで話した。
「同じ事を横溝からも聞かされました。オレは横溝の言う内容には尽く反発してきたのに、岡本さんや金本社長に前田さんの話には何か感じさせられるもんがあって、今まで思ってきたもんがちゃうような、それは、オレがホンマに何も知ってないんやと考えたので」
「ふんふん、嶋田、俺も同僚の教諭として横溝と呼び捨てはいかんぞ。ウハハハ、ま、どうでもええか。そいで?」
「先生はどうなんですか。天皇が悪いと思ってはるのですか」
「う~ん、単刀直入な質問やな。俺は社会の教師や。そこでお前らに教えている。教えると言うのは私情を入れたらアカンと言うのが俺の信条でな、社会を構成している中には色んな人間と、人間の考え、詰まり主義主張があんねんな。それを一方だけをええとか悪いとかは言われへんねん。
 こんな言い方したら中途半端なとこで逃げてるみたいやけど、俺はそう思ってないねん。そら、俺は俺の主義主張はあるで、そやけど俺は教師やろう。ええも悪いも公平に伝える義務があると思ってる。願わくばやな、俺の私情を交えんと現実の社会の中にある事をちゃんと伝え教えていきたい。で、そうしてる積りや。それを受けてどう判断し考えて行くかはお前らそれぞれやねん。どんだけ正しい事でも押し付けたらアカンと思ってる訳や。押し付けてな押し付け通したらな、受け手の自主性とかちゃんとした考えが押しつぶされて思考の軟禁状態になって本音を全て隠されてしまうと思ってるねん。右でも左でも、特に権力というのはそれを一方的に展開してくるんやけど、ま、理想やけど一人一人の人間が全てを見てちゃんと考えなアカンねんな。お前等は今は学習の時で何でも一つでも多くのものを学習して行くねん。そこから何か掴んだらそれが自分の考えやねんな。先ずは疑問に思う、知りたいと思うその姿勢が大切なんちゃうかな。嶋田の今がそうやと思う。そやから俺はあえて自分の考えは披露せえへんで。
 人それぞれの考えがある。両極端に別れるねん。本当のものは何やと迷う、おおいに迷えや、考えや。ほんだら自分が何を目指すのか掴める時が来る場合もあるな」
「ちょっと質問させて下さい。日本が朝鮮を植民地にして朝鮮人を百万以上も強制的に連れてきて奴隷のように働かし、同じ位の人等を朝鮮で虐殺したと言うのは本当ですか」
「そうや。本当や。朝鮮だけとちゃう、中国や台湾それから東南アジアで多くの人達を二千万とも言う人達を殺した」
「二千万!」
「戦争と言うのは残酷なもんやねん。多くの命が奪われる」
「そやけど日本人も殺されたんちゃいますか。特にアメリカに」
「日本人も多くの人が死んで行った。三百万以上とも言われる」
「三百万!、二千万殺して三百万!」
「その中には沖縄の人等や軍属で徴用された朝鮮の人なんかも入るな。本土の人達だけやったら三百万もいかへんやろうな。ま、そこんとこの詳しい数字は俺も調べた訳ではないから分かれへんな」
「それって全部天皇が命令してやらせた事ですか」
「ま、全て天皇が命令したかどうか。国の大事な事は天皇の承認や許可がなかったら出来へんかった時代やいうのは事実や」

 

夕陽が校舎の正門までも赤く染めていた。
 正門横の楡の枝が重く垂れ下がり夕陽を赤く反射させていた。
 三々五々生徒たちが出て行く。両手をズボンのポケットに突っ込み敷石を見つめながら歩いて平川との数十分の話を反芻していた。
「嶋田っ、こっちや」

菊池の声。楡の木の元で十人以上がたむろしていた。
 夕陽から浮かび上がり広く枝を伸ばしてたわわに葉をつけた楡の姿が美しい、この景色をそう思ったのは初めてだ。
「何でお前らも居るねん」

征生男は瀬田と北村を交互に見た。
「いやぁ、俺らに手紙、何で菊池だけに話しやねん。それやったら俺らにも話し聞かしてもうてもええんちゃうんか」

ズボンのポケットに手を入れたまま上目使いに瀬田が答えた。
「一応、俺らはお前の手紙読んだで。言うてる意味は分かる。そやけどな今更何でやねん。そら、高校生やから勉強もせなアカンのは分かる。そやけど玉突きも喫茶店も行ったらアカンてそんなんおかしいんちゃうか。それこそお前の嫌いな横溝とおんなじやんけ。それでな、菊池と一緒にお前の話しを聞こうって皆で待っててん」
 征生男に突然憂鬱な陰がさした。
「手紙読んだのは瀬田だけか」
「ううん。ここの全員読んだで」

菊池が真剣な眼差しで応えた。
「そうか、それやったら他に何も言うことはあらへんねんけど」
「そうとちゃうねん。嶋田が手紙で書いた内容を皆で考えとってん。んでな、皆の一致した意見はあんまりにも今までとは両極端やねんな。とは言うものの俺はお前の考えに賛成やで。これから本気で勉強しようとしたら遊んでるヒマなんかはあれへん。そやけどもな何も皆学者になる訳ちゃうやん。普通に高校生活を送ったらええんちゃうんか」
「そや、菊池の言う通りや。ガリガリ勉強ばっかりでけへんで。学校の勉強だけやったらそれもしゃあないと思うけど、社会がどうたら別の知らん世界がどうたらまでは未だ高二になったばっかりの俺らが考えたり勉強したりせんでもええんちゃうか。普通に遊んで何でアカンねん。俺はついて行かれへん」

瀬田の顔に真剣な戸惑いが浮かんでいた。
「いいや、そうとちゃうねん。ついて行くとか行かへんとかでのうて、何やねんちょっと嶋田は急に変やで。いや、急とちゃうな。前は自分も頭を坊主にして俺らまでにも強制した。そんなん自由ちゃうんか。そいで今度は玉突きも喫茶店もアカンてホンマに変やで」

北村が小さい声でボソボソ詰る。周りの数人もうんうんと頷き目を伏せている。
「どんだけ正しい事でも押し付けたらアカン」

平川の言葉が甦った。オレはそしたらコイツらに何かを押し付けているのか。
「高校を一年過ぎた。オレ自身はケンカもいっぱいして遊んでばっかりしかしてけえへんかったと思う。そやけど、高校生らしいとは思われへんかったと言うのが正直な気持ちや。そのオレに皆はついて来てんねん。オレについて来てるって何や。オレがケンカが強いからか、オレが玉突きが上手いからか、今はそんなもんどうでもええと思てんねん。やっぱり、オレらはちゃんと勉強せなアカン。その為には学校の帰りに玉突き屋に寄ったり喫茶店でたむろしててはアカンと思うねん。そんなん全部無意味やんけ。
 オレは春休みの間に凄い人達と知り合った。その人達の話を聞いてオレってホンマに何も知ってないし分かってないし、それで突っ張ってるだけや、そんなんではアカンと思った。世の中にはオレらが知らん色んなもんがいっぱいあって、知らんと言うのはアホでアホのまま息巻いてては益々アカンようになってくる。
 オレは今迄日本で一番偉いのは天皇で、天皇の為やったら日本人は命もかけなアカンと思っていた。ところがその天皇が一番悪いと思う人らも居ると言う事実にビックリしてんねん。ほんで、その人達の言うのがホンマちゃうんちゃうかなと、考えてた事が逆さまになって、これはやっぱりいっぱい勉強せな分かれへんと思う。そうしたら、今までのように遊んでばっかりは居られへんと思った。で、オレはそうする。そやから今迄のようにお前らとは遊ばれへん。出来たらオレと同じように一緒に勉強して行こうや。玉突きに、喫茶店に行く時間をオレらの勉強会にして行きたい。それが日本と言う国を分かり本当のものが見えて来ると思うねん」
 征生男が皆に綴った手紙はざっとこんな内容だった。
「オレは嶋田が好きや。そやけど手紙の中身にはついて行かれへんな。何でそんな硬っ苦しく考えなアカンねん。俺は今迄通り普通にやって行くわ」瀬田。
「俺もな、出来たら楽しい毎日が好きやねん。勉強会なんかどうでもええやんけ、何か突然そんなん言われてもな。今迄通りやったらアカンのか」北村
「ちゃうな。今迄通りでええと思う。そやけど、そこに嶋田の言うように何か真剣に考えるのも付け足してたらええんちゃうんか。とに角や、学校で教わるのはちゃんと聞いて分かれへんかったら皆で勉強したらええと思う」菊池
「そんなんお前、横溝とこで勝手にやれや。優等生が俺らの中に持って来るなよな。俺等は勉強が嫌いなんや。適当で何とか高校出たらええと思ってるだけや。神経質になりとうないねん」
「神経質なんかとちゃうで、考えて感じてそれに俺らがどう進めんのか、そこを考えていかなアカンちゃうか。嶋田の表現はいきなり堅っ苦しいけど俺はそれはそれで評価してんねん」
「そやからな、優等生君、お前なんか俺等のグループに何で入ってんねん」
「そや、菊池、お前なんかがチョクチョク顔を出すから嶋田も変になったんちゃうか。俺はな、今までの嶋田が好きやねん。な、嶋田。俺はお前に決闘で負けて悔しいとは勿論思った。そやけと、その何倍もお前が好きになって、お前とつるんでるのが嬉しいねん。お前のカッコ良さが俺の誇りやねん。そやのに何やねんこのジメジメした手紙。お前、まるで人が変わったみたいやんけ」
「俺はな、お前と中学校からずっと一緒で、苛められやすい俺をいつも庇って来てくれたよな。強いお前が羨ましいし、お前と居ったらホンマに安心できてた。そやからお前の言うことやったら何でも聞くで。そやけど俺に勉強せえと強制されてもな、俺、自信がないねん。そこまで勉強する必要性も感じへんし、俺はな俺でこのまま役者になれたらええねん。そやから高校時代を楽しく皆とやって行きたいねんな。それがアカンか?」
 どっちか言うと皆がうつむき加減でぼそぼそ言っていた。
 楡の大木の下、既に夕陽は沈み空気がひんやりと湿りを帯びてきた。殆んどの生徒は帰ったのか傍を通り過ぎる者も居ない。
 沈黙が続いた。十数人居た群も半数に減っていた。
 湿ったひんやりした空気がそのまま征生男の心に忍びこんで、苦い異質な濁りが派生して咽元に蠢いていた。それが何なのか不透明で言葉を見失っていた。こんなはずではなかった。自分の思いは皆に直ぐに伝わると疑いもしなかった。違和感が暗く重く浸透してきて、それが怒りの塊へと徐々に膨らんでくる。
「どんだけ正しいコトでも押しつけたらアカン」

平川の言葉がまたも甦ってきた。怒りの塊だけは押し隠そう。皆の言葉に耳を傾けよう。皆は皆、オレはオレ。違いがあって当然と重ねて自分に言い聞かせたが制御できない何かが突き上がってくる。
「瀬田、オレは別にお前が好きでも何でもない。お前が勝手にオレに着いて来るからそうしていただけや。オレの言う事に反対やったら勝手にせんかい。北村も皆も一緒や。オレは自分で決めたものにこれから忠実に生きていきたい。それを誰にも強制せえへん。気に入らんかったら入らんでそれでええやないか。今迄通りにやれや。ただ、オレは変わる。それだけは覚えておいて欲しい」
「何かそれって俺等に決別宣言みたいやないけ」
「そうか、嶋田、お前は俺なんかどうでもええと思ってたのか。ほんだら今迄の付き合いは何やねん。決闘した意味は何やねん」

瀬田の顔が苦渋で歪んでいた。
「お前が決闘を申し込んだだけで、オレには何の意味もないな」
「分かった。そやったら俺の方からお前と離れる。勝手に菊池みたいな奴と優等生面せえや」
「オレは優等生にはなれへん。横溝みたいな奴も許されへん。知りたい知らなアカンことに真っ直ぐ入って行くだけや。誰が好きとか連れとかもどうでもええことや、そんなもんやりたい奴が勝ってやれや。何も知らんで粋がっても屑にしかならへんねん。オレは負けたり屑になるのが嫌なだけや。そんなオレを否定するんやったら、それはそれでしゃぁないやんけ。北村が言うように訣別宣言と取られてもええで」
「何でそう行き成り極端やねん。何かもっと真ん中はないんか」

北村は悲しく顔を歪めている。
「ないな。オレも含めて今までのオレらはアホでしかなかった」
「おおっ、言うてくれるやんけ。オレはアホで屑で結構や。嶋田、お利口さんになれや、こっちの方で訣別させてもらうわ。おいっ、オレは行くど。嶋田とお勉強会とやらをしたい奴は残れや」

瀬田は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま背を丸めて踵を返して早足に遠ざかって行く。
 北村の頬に涙の雫がキラリと見えた。他の皆も瀬田の後を追った。北村が振り返り振り返りしながら皆の後をついていった。
 風が、冷たい風が旋風を起こして空に舞う。
 楡の梢がザワザワと揺れ木の葉を降らせた。
 菊池だけが残っていた。
「嶋田、仲間ちゃうんか。何でそんなに極端になるねん」
「‥‥」

「急がんともっとゆっくりやって行かれへんのか。俺自身もお前の変身にビックリしてるねん。春休み中に出会った人らがお前の思考を変えたのは分かったけど何か妙に難しいんやな。オレもついて行くのにしんどいで。学校の勉強だけをやってたらええんちゃうんか」
「菊池、お前もオレに訣別して行けや。お前は所詮
(しょせん)横溝の回し者やんけ。オレに取っ付くのはこれで止めにしとけや」
「何言うとんねん。俺が横溝先生を尊敬してるのがそんなに悪いんか。先生は先生でお前を真剣に心配してんねんぞ」
「ふん、甘いなお前は」
「何が甘いねん」
「アイツは共産党員や。単に細胞という奴を増やす為に躍起になってるだけや。自分の見込んだ奴を共産党の下部組織の細胞にしてそれになびけへん奴には冷淡に押しつぶすんや。同じ考えでも取り組み方がちゃうねん。無理矢理自分の考えを押し付けて、違う方向に行く奴を封じ込むのが共産党や。岡本さんがそう言うた時にやっと分かったな。そやから同じ話をしても横溝と岡本さんとはちゃうねん。お前はな横溝に細胞として仕立てられてんねん」
「何言うてんのか分かれへん。細胞って何や。そんな言うたらお前も皆に自分の考えを押し付けたんちゃうんか」
「ちゃうな。お前もオレの考えが分からんように、アイツらはもっと混乱してる。無理もないと思ってる。ハッキリ極端に突き放すのが大切で、アイツらの中に何かが生まれるかも知れへん。でな、お前ともしばらくお別れやな。オレがもうちょっと何かが分かってきたらまた会おうや。お前もその辺は考えておってくれや」
 校門を抜ける。阿倍野筋を北へ歩をとる。
 春とは言え夕暮れの風は冷たい。
 冷たい風に向かい昭和町の駅に向かいながら、今朝登校してきた輝かしいような心の躍動は尽く砕け散って冷たい風が征生男の裡にまでも吹き込んできて気持ちが冷え冷えとしていた。

 

 

デモ隊

 

 一九五九年四月十五日の新聞の見出し
『安保阻止国民会議第一次統一行動(東京・日比谷公園で中央集会)』
目に飛び込んで来た。
「日米安保条約改定阻止国民会議(安保共闘会議)」の文字。
 何なのか、征生男は気になった。今までも時折そんな文字を新聞で見ていたが、気に留めなかった。

 桜の花がこぼれ落ちていた。
 腕を組んで歩いている。
 うららかな陽気が照美を明るく弾ましていた。
「中ノ島にも桜はあったんやね。うちここは初めてや。両側に川があって何かしっとりしてて、外国に行ったみたいやん」

照美の声は低い音量で囁く、それが切ないほど甘味に征生男の中に染み渡っていく。照美が腕を絡ませるその向うに照美の胸の膨らみが征生男の腕に伝わる。
「時々図書館に来てるねん」
「図書館ってアレ」
 照美は征生男の肩に頭を預けるように仰ぎ見る。
 ルネッサンス風の石造りの建造物。図書館に中央公会堂、市庁舎、日銀の建造物は全てそうだ。そして堂島川と土佐堀川に挟まれた中ノ島に架かる橋の殆んども趣のある石造りの景観を見せ、写真や映画で見るパリのセーヌ川を思わせる。
「図書館へ行って勉強してるんやね」
 征生男はドキッとした。勉強なんかしてなかった。
 図書館の食堂や喫茶店で仲間と女子高生を狙ってのナンパが目的だった。それはそれで確立も高く仲間の何人かは図書館で知り合った女子高生と付き合っているが、征生男には興味を持てる相手が居なかったに過ぎない。
 地下鉄淀屋橋駅を降りて淀屋橋を北に渡り市庁舎、図書館、中央公会堂と抜け先端の剣先公園まで歩いて土佐堀川を背にしたベンチに並んで座った。
 昼下がりの陽光が射し穏やかな温もりの中で自分は欲情している、それを照美に気取られないように努めると言葉を見失いがちに寡黙になってしまう。
「やっぱり、今月でモカを辞めることにしてん」
 この日も照美は遅番の仕事が待っていた。五時出勤で時間は未だあった。
「ほんでね、前言うたように映画館の前のスマートボール屋でお母ちゃんと一緒に働く事にしてん」
「お母さん、やっぱり具合が悪いんか」
「ううん。今は普通にしてるねん。けど、やっぱりどっかで心配してしまうねんやん。うちのお母ちゃんいっぱい苦労してきてね、ほんで貧乏やん。それで病気を持って不安な思いをさせたくないねんね。うちが居ったらなお母ちゃんホンマに安心してるみたいやし、しばらくはずっと傍に居ると決めてん」
「親孝行やな」
「そんなんちゃうねん。もう一つはね、征生男ちゃんが前に言うてたやろう、二人で会い易くなるって、そうやねん、そうしたら結構いつでも会えるんちゃう」
 照美の話すのに嘘も技巧もない、それが痛く突き刺さってくる。
 学校の仲間は皆、離れて行った。
 それを寂しいとは思わない。今迄仲間と称しても征生男には明確な意識がなかった。群を形成しているボスリーダーで何事もなかったら群の中で一人ボンヤリしている時が多かった。群達は征生男の存在の元で北村が言ったように安心していたのだろう。菊池にしても征生男から見たら未だ不透明で安心できない。
 家の中でも母の千代を除いて孤立している。
 子供の頃から孤立感は拭えなかった、それが憂鬱な猛りを内に閉じ込めさせ他人とは上手く付き合えない、いや、他人との関係を拒絶するような覚めた意識が自ずと育ってきたと感じるのだ。
 勝之は無二の連れで、それだけで充分だった。
 照美が現れて征生男の中で輝きだし、その眩しさに悶々とする自分を発見して悶々とする中で自分の弱さが際限もなく顕われて、照美の些細な言動の一つ一つに一喜一憂しては激しく心の揺れを体験させてきた。それが遠い過去のようで今は照美との時間の共有で温もりに包まれ甘味な安らぎさえ覚えるのだ。
「そやけど、結構ガラの悪いとことちゃう。オレはあんなとこもパチンコも行けへんけど、酔っ払いが居ったり、チンピラやヤクザも来るやろ」
「心配せんでも大丈夫やで。いつもお母ちゃんと一緒やし、うちのお母ちゃんなあれでも気丈夫なんやで、パートに行きだして古いのもあってスマートボール屋では店長も頭が上がれへん位に強いねんよ。お母ちゃんパチンコも好きで、パチンコ屋にも顔が利いて店員がこの台がええって耳打ちしてきたら、アホか舐めてんか。台くらい自分で選ぶわ、余計なお世話や、なんて言うらしい」
 パチンコが好きな照美の母、教育熱心な征生男の母、どう考えても相容れない、で、それはそれで自分らには関係ないやんけと軽くかわした。
「照美ちゃんもパチンコやスマートボールするんか?」
「いやや、止めて。うちはあんなんはホンマは嫌いやねん。そやけどお母ちゃんの楽しみ言うたらそれ位やから、それはそれでええと思ってるねん。恥ずかしい話やけど、うちの家はお父ちゃんもお兄ちゃんもお酒ばっかり飲んで、お父ちゃんはお母ちゃんを、お兄ちゃんはお嫁さんを困らし続けてきたんや。そやけどお母ちゃんも嫁さんのお姉ちゃんも強いわ、最近では自分でも働いてるしお父ちゃんやお兄ちゃんに言いたい事はハッキリ言うてリードするようになってきてね。それでも、お母ちゃんは体が弱いやろ、お母ちゃんの人生考えたらええ事が少なかってんなぁと思うねん。うちが居ったら喜ぶし出来るだけ一緒に居りたいねんな」
「照美ちゃんて親孝行なんやな」
 同じ言葉を復唱して、自分には無縁な親孝行。
 父を憎み兄達を疎んじてる、その狭間に母の千代が居る。千代を庇う気持ちがあっても家を出たい気持ちの方が大きい。
 照美は女同士だから母親と寄り添えるのだとその程度の理解しか出来なかった。
「また、征生男ちゃんの家に遊びに行ってもええ?」
「!!??」
「アカン?」
「うんなことないやん、おいで!いつでもおいでや」

上ずった声が何処かで叫んでいた。
「やったー、行ってもええんやね。モカ辞めたら征生男ちゃんと何処で会えるか分かれへんもんね。征生男ちゃんの家に行けたらゆっくり会えるやんか。そやけどおばちゃんが」
「お袋か、心配ないわ。照美ちゃんのことえらい気に入ってるで」
「ほんまぁ、良かった」
 自分の部屋で照美と二人っきりになる。
 願ってもないと喜びの裏側で重圧がかかる。全ての意識が拡大するにつれ征生男の体の感覚も肥大してきて微小な変化などとは言えない制御できない性への欲求が毎日を悩ませる、照美と室内で二人きりになるという状況を思い浮かべ先日の息苦しさが甦ってきた。
「征生男ちゃん、学校どうやったん。上手くやって行けそう?」
「学校で上手くやるかどうか、もうそんなんどうでもええねん」
「何でそんなどうでもええって言うん。何かあったら退学や言うてたやん」
「退学かぁ。ま、退学にはなれへんやろ。むしろ学校に好ましいような生き方をするから。このままやったらアカン。学校の勉強もそうやけどオレらはもっと社会のことを知っていかなアカン。喫茶店で屯したり玉突ばっかりしてたらアカンてな、毎日パチンコにも行ってる奴も居るし、ここらで高校生らしい勉強もしようやって皆に手紙書いて渡してんけど、結局はほぼ全員がイヤがって離れてしもうたな」
「ほな、学校で友達居れへんのん」
「元々友達なんか居れへんねん。皆はなオレがケンカして負けへんとか、セン公に反抗するのがカッコええとか、玉突きしたら上手いからオレに寄り添って来てただけや。それを止める言うたらオレの魅力もないらしいわ。それはそれでええねん。そんなんなかっても今までも一人で居る方が多かったし」
「そやけど皆に好かれて周りにいつも友達居ったんちゃうん」
「周りに居ったけど、居っただけや。アイツらオレの周りに居るのが安心やってん。オレはあんまり喋れへんし、何て言うかなオレ自身を皆の中でもて遊んでて、意思の疎通ちゅうのは全然なかったと思うねん。カッちゃんと二人で居るのと全然ちゃうねん」
 どう説明したら良いのか照美に上手く言えない。
 ケンカをしても遊びの中でもいつも何処かで覚めたような自分と向き合っている。その目で皆を見ても仲間と言うような意識は湧かない。熱い何かが欲しい。その図中で燃えていたい。ヤクザ相手の激しい乱闘のあの時間は熱い何かがあった。前田との凄まじい格闘の中にはもっと感じた。ところが岡本と話をして今まで思いも寄らない全く別の熱いものが押し寄せてきた。
 照美の出現は異性への神聖な憧れが芽生え、ときめきを抱くようになると何故かその中で自分の弱さを痛感させられた。
 友達とは何か、仲間とは何かそんなのはなかった。
 ただ、覇者でありたいと漠然としていただけに過ぎない。
 学校で孤立して一人であっても、むしろその方が征生男には居心地の良さがあるように思われたのだ。
「ほんだら、学校からの帰りは寄り道せえへんのん」
「多分、ほとんど。ただ‥」
「ただ?」
「時には岡本さん達のとこへは顔を出すと思うねん」
「征生男ちゃん、よっぽどそこの人達が好きになったんやね。良かったなぁええ人達と知り合いになって。そやけど、うちのこと忘れたら怒るよ」
 照美の目は微笑んでいた。
「オレが寄り道せえへんし、照美ちゃんがモカを辞めてお母さんと一緒に働き出したらホンマに会える機会多いよな。家にもいっぱい来れるよな」
「うん。行くよ。行ってもええねんやろう」
「どうしょう、オレ」
「なんや、アカンのん」
「そんなんちゃうねん。照美ちゃんといっぱい会えたら、オレの頭は照美ちゃんのことばっかりなってしまうわ」
「あ~あぁ、そう、ほな、今はうちのことは頭の隅にちょこっとあるだけ?」
「ちゃうで、頭の真ん中で広がってるわ」
「もう、上手いこと言うてから。あっ、うちもう時間やわ。店に行くよ。征生男ちゃんはどうする?」
「うん、オレも帰る。ナンバまで一緒や」
 ベンチから申し合わせたように一緒に立ち上がり中央公会堂の方に向かった。緩やかな春の風が川岸の並木をもてあそび、陽光の下を通り抜ける中、照美はもう当り前のように征生男の腕に縋るように両腕を絡ませていた。
 図書館を過ぎた辺りからざわめきが聞こえ市庁舎に向かう程大きくなり多数の人の大声とピーピーと喧騒を突き抜ける笛の音も鋭く伝わる。加えてハンドマイクで怒鳴る声が一際広がって響き渡ってきた。赤い旗が無数に翻り、手製のまちまちのプカードがその下で揺れる。七、八人が横並びにシッカリとスクラムを組んだ長い列が御堂筋の東側を埋め南に行進していた。
 デモ隊。初めて目の当たりに見る。
「安保反対」「アメリカは出て行け」のシュプレヒコールが規則正しく激しく響き渡り、その合間に複数の笛がピーピーと鳴り渡る。どう見ても若い労働者風か学生のような若者が圧倒的に多い。どの顔も表情が激しい熱気で闘気が漲っていた。
 何台ものパトカーと白バイがデモ隊の横をデモ隊の歩調に合し並行してゆっくり進み、その間を黒いヘルメットの警官の長い列が威圧をかけながらデモ隊の横でピッタリ寄り添っていた。
「どうしたん?」
 怪訝
(けげん)な眼差しで照美が征生男の顔を覗きこんできた。
 征生男は立ち止まり緊張を露にした厳しい眼つきでデモ隊の一人一人に視線を忙しく走らせている。
「いや、ひょっとして岡本さんが」
 その時、デモ隊の先頭が激しく揺れたかと思うと、姿勢を低く前屈みにして大きくジグザグにうねり出した。そのうねりは直ぐに後方に伝わり長蛇の密集した列は一つの大きな生き物のようにたわみだした。
「真っ直ぐ歩いて直進しなさい」

パトカーから出しているのか激しく大きく叱咤する声が繰り返しスピーカーから吐き出される。
 応呼するようにデモ隊のハンドマイクのシュプレヒコールの音量も最大限に上げられピッタリ寄り添っていた警官が警棒を両手でかざしデモ隊の列を横から押し込んできた。
「帰れ、帰れ」

の罵声が警官に向けられ騒然となる。
 先頭が警官の規制に抗い、抗う者を一人一人引きずり出そうと複数の警官が隊伍に挑みかかった。そこを後ろの隊伍が包むように前にでて警官を押し出した。バタバタと後ろの警官の群が駆け寄り膨らんだデモ隊に突進した。その圧力でデモ隊の一部は崩れ数人が将棋倒しのように倒れこんだ。車道を行進してた列が乱れて征生男達が見ている歩道に崩れた隊伍が広がって来た。
 征生男は咄嗟に照美の掌を固く握り締め走った。
 潜む動物的な臭覚で危険を察知したのだ。散らばったデモ隊の群をすり抜けて地下鉄淀屋橋駅の降り口を目指した。

 散らばったデモ隊の群から少し離れた。何人かの女性の鋭い悲鳴が聞こえた。
 征生男は立ち止まり振り返った。
 手を引く照美の不安げな顔が直ぐ後ろにあった。
 茜色が降り注ぐ淀屋橋の広さと空の広さが背景に広がり御堂筋を挟んで左に日銀の建物、右に風格を誇る市庁舎の手前に逃げ惑うデモ隊と襲い掛かる武装警官の群が入り混じって戦闘絵図が展開されていた。
 警棒をかざし振り下ろす黒い集団。赤旗の竿を横に突き出したりプラカードで防戦するデモ隊の一部が目に飛び込んで来た。征生男の体は自然に前のめりになって前方にのり出した。
 腕を強く引く照美の力が異常なほど加わってきた。
「アカン。行ったらアカン。行かんといて。お願いやから行かんといて」
 直ぐ後ろで照美が切なく絶叫していた。思わず照美を抱え込んで抱きしめた。肩が小刻みに震えている。見る見るデモ隊の数名が頭から血を流しているのが目に飛び込んでくる。
「卑怯や」と叫ぶ声は自分の声だった。旗竿とプラカードを持っている以外デモ隊の殆んどは素手のまま武器となるものはない。そこへ数十人の武装警官の警棒が乱打したのだ。
 許しがたい憤怒が湧き上がり征生男の体が猛っていた。
「征生男ちゃん行ったらアカンで。行こう、帰ろう」
 照美が征生男の腕を確り掴んだまま腰を引いて後ずさりする。その時、後方の圧倒的多数のデモ隊が前面に湧き上がってきた。
 黒い武装集団を包み込む。多勢に無勢、黒い集団は包囲から抜けようと警棒を闇雲に振り回しながら群を割ろうとした。それでも警棒をもぎ取られ引き倒され引きずり込まれて行く姿が少数ながら見られた。
 パトカーと白バイが群集を威嚇しながら大きく包囲しだし更に後方の黒い軍団も加わってきて群衆の中で孤立した黒い群団へ突入し割って入り救出していく。
 これはケンカなんかと言うケチなもんとちゃうな、群と群のぶつかり合いは一人一人の判断ではどうしようもない規模の大きさに多分誰かが何処かで采配しているのや、照美の怯えを他所に込上げてくる闘魂で震えがきた。
 こんなケンカやったら思う存分出来る。
 ヘルメットを被り警棒を携えしかも盾まで持った黒い集団に、頼りない竹の旗竿とペラペラのプラカードだけの圧倒的多数の群。本気でぶつかれば少数とは言え組織だって訓練され武装した黒い集団が圧倒するのは当り前のはずが、今は日銀の前で堅陣を組んで不気味に構えている。一瞬、あれを突き崩す方法はと征生男の脳裏を駆け巡った。
「征生男ちゃん、もう、行こう」

優しい声が耳元で囁いた。
 振り返る。照美の顔が目の前間近で瞳を見開いていた。
 考えると言うより、計っていた。力と力のぶつかり合いが多数になるとどう展開していくのか、少数が多数を切り抜ける。
 一方、多数が如何に効率よく少数を取り込むのか、戦いの勝敗の帰すうがそれによって明暗を分ける、卑怯とかと言うのは負ける側の理屈でしかない、戦いは勝つことを目的にするのだ。
 無防備で衆を頼んで挑みかかっても組織だって訓練された少数には初めから負けに挑んでるしかない。で、あるなら、あのデモ隊は無謀としか言えない。それはそれだけなのか、無謀は何から沸き立つのか、征生男には見えない何かが底流で激しくうごめいているのが肌でヒリヒリ感じていた。
 照美の瞳にハッと我に帰った。
「うん、行こか」
 もう一度振り返った。
 デモ隊の流れの本流は緩やかに南に流れつつも、黒く堅陣で備えている不気味な集団を遠巻きにして罵声を浴びせているはみ出した群があった。「チッ」と舌打ちした。その群がなんとも卑屈で惨めな存在に見えた。突付けば直ぐ霧散する群だ。
 照美の掌を握った。照美も強く握り返してきた。柔らかく冷たい感触。地下鉄への降口の階段へ向かった。
「征生男ちゃんのあんな顔を見たん初めてや。真っ青やったで、ほんで直ぐにも飛び出そうとしてたやん。うち、それがもの凄く怖かったわ。あんなとこに飛び込んで行ったら絶対巻き込まれるやん」
「うん。ゴメンな」
「あぁ良かった。わーっもうこんな時間や。うち、遅刻やで」
 悪戯っぽく照美は笑って握っていた掌を解き征生男の腕に腕を絡ましてきた。地下鉄は退社の時間には未だ少し早く空いていて二人で座れた。
「照美ちゃんな、ナンバに着いて改札口出たら直ぐに別れよな」
「エエけど、何で?」
「う~ん。もしもと言うのを想定してんねん。前にケンカしたヤクザに照美ちゃんと歩いてるとこを見られたら、あいつら照美ちゃんに何かするか分かれへん。それがホンマに心配やねん」
「そうか、分かったわ。征生男ちゃんも気をつけてね。そやけどもう直ぐモカを辞めるしほんだらこの辺にあんまりけえへんようなるから心配ないね」
 混雑する人々の群に押され流れナンバ駅から御堂筋側の地上に出た。改札口を出てからは照美は腕を組まない。征生男も少し距離を置いて歩いた。
 地上に出ると軽く目で合図して右と左に分かれた。


 

決着

 

いつの頃からか、多分中学校に入った頃からだろう常に回りの気配を見ながら歩く癖がついていた。ヤクザとの争いの後からは益々強くなっていた。まさかと思うが警戒していた。遭遇と言う事もある。征生男はそのまま停留所に向かわず、一度御堂筋を渡りそれから千日前通りを北に渡り周りの状況を隈なく視野に収めて御堂筋の東側を反転して戻った。警戒し心配された事はあるはずがなかった。
 ホッと気持ちが緩み両手をズボンのポケットに突っ込んだ、その時、両腕をスッと掬われ瞬間強い力で拘束されていた。
 すっと前に一人が躍り出てこちらを振り返った。ヘラヘラ笑って不気味な眼差しを当ててきている。あの時のエナメル靴の男だと咄嗟に分かった。
「久しぶりやな、このままちょっと歩こか」

右手の奴のくぐもった不敵な声。
「おい、ガキ。変な真似さらすなよ」
 ぞくっと喉元が凍りつく。驚愕が走りくらっと一瞬の目眩。それほどのドスの効いた太い低い声が真後ろでした。
 後ろを振り返る。太った三〇才過ぎ位の男が細い目で冷たい視線を送っていた。相手は四人。
「やっと、見つけたで」

左を見る。ビンを振り回して奴だ。前後に左右、完全に捕捉されている。
 逃げられない。大きく息を吸った。逃げてやる。
 一瞬の間合いと隙が勝負。エナメル靴は約三メートルの向うで背を向けてゆっくり歩いている。もう一度後ろを盗み見した。太った男の距離は二メートルほどか。
 右腕に力を込め一瞬後ろに引いた。それも傍目には分からない程度に。右の男の腕にも力が入り前へ戻そうとしたその一瞬、征生男はその力に沿って右腕を前に突き出した、と同時に右足を男の前に差出し踏ん張った。
 ツンのめて前に倒れ込んだ男は征生男の腕から離れた。解放された右腕をすかさず左のビン男の顔面に思い切り叩き込んだ。グワンと言う鈍い音がしてビン男の体全体から力が抜けていくのが伝わると同時に左肩で鋭く突き飛ばした。
 次には走っていた。未だ気づいていない三メートル先のエナメル靴の男の左を素早くすり抜け歩行者の群に突き刺す勢いで飛び込み縫うように走り抜けた。多分、五秒くらいの間だろう。計りに計り一瞬の緩みに突っ込んでいった。成功した。後は逃げるだけと走った。振り返らなかった。
 千日前通りの信号が赤になり車の流れが動き出した。迷わず左に折れた。港町へ向かう。自分がこれほど早く走れるのか。港町を超え幸町までただ奔りに走って、初めて止り後ろを振り返った。
 広い千日前通が遠くまで透けて見える。繁華街からもうかなり外れた歩道にはチラホラと人の姿が夕陽の中で浮かんいるだけで、ヤツらの姿はない。
 ホッと一息。大きく息を吸い込み吐き出す。その反復が激しくしばらく続いた。あの時はこの辺の路地裏を縫うように喘ぎながら走って、辿り着いたのが春子の部屋だった。
 今は全く無傷で瞬時に切り抜けてきた。
 頭の中が真っ白と言うのはこんな感じかな。咄嗟に全力で走ってきた体は虚脱していて、思考の回路が表白し閉ざされ、夕陽に浮かぶ建物の陰を無感動に視野に収め歩道の柵に身を預けていた。
 本能的に帰る方向へ走ってきたのか、僅かな思考が生まれてきた。このまま帰る。それはもうどうでも良いことで、家には帰りたくない。それにしても照美と別れた後で良かったとつくづく思った。相手はプロのヤクザ。しかも今日はヤツらの幹部のような男まで居た。本当にもうミナミ界隈をウロツけない。甦る思考の中でぼんやり考えながら呼吸が収まっているのに気がついた。
 流れる雲の群を紅に染めた夕焼けが広がり空を高くしている。それが胸に染み入る。込み上げてくる切なさを覚えた。
 番長と呼ばれてきた。番長って何や。今も学校の殆んどの者が自分を番長と思っているだろう。それが何を意味する訳でもなく遠巻きに皆は思っている。近づくと伏せ目になる奴が圧倒的に多い。近づく奴の目は上向き、羨望を湛えた眼差しを送ってくる。圧倒的多数は拘わりを恐れているのが痛い程分かる。
 二年から考え直して行こうと檄を飛ばせば皆離れていった。それはそれで良いと思い、照美との甘味な世界が広がり、勝之との無二の繋がりに潤いを覚えながらも、今こうして突き挙げてくる切なさは何なのか。
 孤立。学校でも家でも孤立している。
 間もなく夕暮れ。仕事を追えて家路の時間。
 金本組の仕事も終わる時間。岡本さんや、社長や前田さんに会いたいと思った。ここからなら桜川で大阪港行の市電に乗れば行ける。行こうと決めた。千日前通を少し東に歩いて桜川の交差点を南に渡った。走った後の疲労が歩調を気だるくさせていた。桜川市場の入口に停留所がある。ベンチが目に止った。電車が来るまであそこに座って待とう。
 ベンチの前に来た。座ろう。
 一台の乗用車が目の前でスーッと停車した。
 目をやる。征生男の体が瞬時に電流が走ったように硬直して絵も言えぬ緊迫が襲ってきた。ドアが開いた。エナメル男が先に降りて、続いて二人が降りてきた。手には一メートルほどの木刀らしき物を握り締めている。体が勝手に反応した。ベンチの背に右手を当てるや否や飛び越えていた。走り出していた。桜川公設市場に突入した。

 背後に複数の足音が身近で肉迫していた。距離は僅か数メートルか。市場の買い物客はマバラで閑散としていて間延びしたローカルな情緒を漂わせている。

 そこを突っ切る。

 買い物客や商店の人々の目が見開き凝視している。幾つもの顔が停止した画像のように後ろに流れる。後ろに迫る足音との距離は少し延びたように思う。

 前方は行き止まりのようなっているのが視野に飛び込んできた。左に八百屋があった。開け放された八百屋の向うが細い路地のよう。路地の片方に木箱が何列も高く積み上げられていた。

 一瞬、振り向いた。

 追い迫るヤクザ達との距離は約十メートル程と計る。エプロンをした八百屋の少し小太りおばさんと目が合った。思い切り見開いている。続いてその横の前掛けをしゴム長を履いた背の低いおっちゃんとも目が合った。やはり、何事かと見開いた目。

「ゴメンなさい」

 大きく叫んで路地に曲がった。せつな、振り返りうず高く積まれた野菜の木箱を右手で崩した。その時にはその向うに三人の顔が間近に識別される程迫っていた。

「オンドリャーッ」

 持っていた木刀で木箱を叩き込む者、足で蹴り上げる者。怒りも露に猛り狂っている。征生男は三つ目までの木箱を崩し路地に散乱させ振り返り行く手を見た。

「何すんのん、アンタら!」

八百屋のおばちゃんの叫び声。

「こらーっ、お前ら何しやがんねん」おっちゃんの声。

「どないしたんや」駆けつけて来た市場の人たち。

「じゃかましいわーオンドレラー」叫ぶヤクザ。

「えぇっ、」征生男は唸った。

 前方はほぼ二メートル以上はある板の塀で行き止まりになっていた。振り返る。三人のヤクザの周りに多分市場の人達らしい人が群がって罵声を浴びせている。

 三人は崩れた木箱を掴み放り投げ掻き分けて前に進もうとするが、その度に路地に積み上げていた木箱が次々崩れて三人の所在を混乱させていた。

 征生男は跳びあがった。塀の尖端に両手がかかり掴まえられた。両腕に力を集中させつま先を当てて這い登った。

  登り切って下を見る。塀の尖端には止まれない、塀の向うは一メートル程の巾で横に路地があった。躊躇なく飛び降りる。二メートル以上の落差は着地に体勢が崩れ手をつき辛うじて衝撃をかわし転ばずに済んだ。左に進めば千日前通、ヤクザの車が留め置いてある。

 右を見た。路地は次の通りまで真っ直ぐに抜けていた。

 塀の向うの喧騒はざわついた人々の声が混ざり合ったものに変わっていた。●●●

 征生男は右に走った。

 ヤクザ達は多分引き返し次の進路を模索しているはずだ。一端は車に帰るか、或いはこの路地に回って来るか予測しがたい。

 路地を抜ける手前のゴミ箱の上に先が外れた壊れたモップの柄があった。走りながら征生男はモップの柄を掴んでいた。手頃な握り具合に振りりやすい長さだと感じた。武器になる。

 路地の出口で一端止った。

 二車線の道路。顔だけを僅かに出し左右に目を走らす。人も車もない。飛び出し通りを横切り左に走った。倉庫と民家が並び人影はない。既に夕闇が迫ろうとしていた。

 向うに茂みが見える。公園か。

 エンジンの音。振り返る。ヤクザの車。スピードを上げて来た。茂みの中に飛び込んだ。掻き分け前に進む。ブレーキの軋む音が夕闇の中を鋭く突きぬけた。

 四人が飛び出してきた。四人は散らばった。夫々が棒を持っている。征生男は茂みの中で息を潜め絡まる枝をそっと掻き分け音を立てずゆっくり移動する。

 一人が征生男の潜む茂みの裏に廻ったてきた。他の三人は距離を置いて公園内を透かすようにそろりそろりと探索していて征生男の居る位置からは多少距離があった。

 茂みの濃い部分に沿うようにへばり付き夕闇を頼りに息を殺していた。茂みの外側を男は窺(うかが)いながらゆっくり迫り通り過ぎていった。

茂みの隙間、音を殺しすっと抜け、征生男は男の背後に出た。

「おいっ」

 幽かな小さい声で征生男は男を呼んだ。ギクッと立ち止まった男はそっと振り向いた。その瞬間、モップの柄の先が男の腹を直撃し鋭く食い込み、直ぐに退いた。

「うっ」と男は腹を抱え前屈みになったところをモップの柄は後頭部を鋭く打ち据えていた。頭蓋骨を打つガツンという鈍い音と共に男は先ず膝をついた。ドサッ、そのまま横に倒れ動かなくなった。

素早く走る。逃げ切れる。しかし、決着をつけるべきか。

 公園と民家を挟んだ通りを渡り民家の路地に体を滑り込ませた。倒した男はエナメル靴の男だった。後は巨漢のデブとビン男にもう一人。勝てる。アイツらは木刀をただ振り回すしか出来ない。征生男は剣舞と居合い抜きで鍛えていた。今は決着をつけるべき時と決めた。

「まさおっ」誰かが呼んでいる。

「まさおー」

「変やど。オイッ、向うへ廻れ」

 ドタドタと三人が先ほど征生男が潜んでいた辺りを三方から包囲するように近づいていた。今、征生男が隠れている処からは二〇メートル程か。

「お~い。誰か倒れてるで」

「まさおっ、どないしてん。オイッまさお大丈夫か。あのガキィ、何処かに隠れているはずや探せ」

 二人が辺りをキョロキョロ窺っている。

「アホかっ、動いて探せっ」

 デブの怒鳴り声に、腰を引き木刀をバットのように構えて一歩一歩確かめるように二人が左右に別れた。一人が征生男の方へ来る。あくまでも茂みの中を窺って、征生男に背を見せる格好になっていた。征生男の前に来た。征生男は跳んだ。

「オーイッ、後ろ」

 倒れたまさおを看ていたデブがどなった。前の男が振り向こうとした刹那、征生男のモップの柄が男の背中を渾身の力で突いた。

「ウギャーッ」

 痛恨の悲鳴が上がり闇を一瞬切り裂いた。

モップの柄は直ぐに仰け反る男の喉元を打ち据えていた。ゲェゲェと咳き込み男は喉元を両手で押さえ膝を落とした。モップの動きは止まらずそのまま男の後頭部にビシッと鋭く打ち下ろされた。男は前のめりに倒れて動かなくなった。

ドタドタと二方向から迫る地を蹴る足音。前に出た。茂みを潜り公園の広場に身を躍らす。二つの足音が前で止り一人は木刀。棒のような物は至近距離でハッキリと木刀と判別できた。デブの手には何か黒い短い物が握られ、デブは大きく肩で息をして苦しそうだ。

 両股を少し開き、両腕も少し開き気味にモップの柄をダラリと下げ征生男は正面を見据えた。後、二人。頭の中で冷たく呟いた。

 征生男はつとっ一歩前に出た。ザザッ、身を仰け反らしてデブが退いた。その前を斜に素早く移動した。

身を仰け反らしたままのデブは慌ててバランスを崩しドスッと尻餅をついて地に転んだ。その上にモップの柄を垂直に鋭く落としこんだ。恐怖に顔を歪めながらもデブは辛うじて身を捩り避けた。モップの柄は地に突き当たりポキッと二つに折れた。

 横からブーンと小さい唸りをあげて木刀がしなってくる。避けられない。本能的に体が勝手に動き右手を上げて受けた。勢いのない木刀は腕に当ったものの横に滑り痛みは感じなかった。むしろ瞬時に右腕を上げ次には木刀を脇に挟み絡め取っていた。大きく振り回して力を絞り込めず遠心力のまま走らせただけで握りも甘かったのだろう、木刀はアッサリと征生男の右手に収まっていた。
 巨体のデブは前で横向きのまま倒れた状態だ。
 木刀を絡め取ったものの征生男の体勢は前のめりになってデブの上を大きく跨いだ。跨ぎ切って体勢を立て直そうと振り向こうとした。体が大きく後ろに傾き仰向きのままドダッと倒れた。思い切り足を掬われ仰向けに体を地に叩きつけられていた。
「このぉガキーッ」
 デブが立ち上がり征生男の両足を両腕で掴み渾身の力で持ち上げている。巨漢の腕力は並外れていた。ズズーと後頭部が地に擂れ体は逆さに引き上げられる。
 ビューンと黒い靴先が顔面に迫ってきた。
 顔を捩ってかわす。プチッと頬の皮が裂ける幽かな音がした。靴が頬をかすめたのだ。やはり痛みは感じない。蹴りを入れてきたもう一人の男の足は空を切ってよろけるのが見えた。
 粘ばいものが生暖かく頬を伝う感触。多分血だろうと意識した瞬間、ズンと背中に重い衝撃がきて思わず息が詰まる。デブが征生男の足を掴みあげたまま思い切り背中に蹴りを入れてきた。クラッと闇が瞼に広がりその中を小さな星が幾つか煌いた。そして衝撃はは二度炸裂した。闘気が猛り痛みと眩暈の中で一瞬の反撃を冷徹にも思考の中で捉えていた。
「痛っー」

張り裂ける悲鳴が空気を震撼させた。
 征生男の右手に握った木刀がデブの向う脛に鋭く食い込んだのだ。征生男の足を持ち上げていたデブの手が離れドタッと征生男の体は地に落ちた。
 もう一人の男の木刀が流れるように頭上に振り落ちてくる。失速したコマ送りのようにゆっくりと落ちてくる。征生男の右手の木刀が真横にそれをバキッと払い除けた。
 勢いをつけて横に一回転して受身のようにして立ち上がった。あの時ビンを振り回していた奴が今度は木刀を振り回してきたのだ。今は腰を引いた状態で両手で掴んだ木刀を前に突き出していた。目を合わせる。カッと見開いているものの怯えで焦点を泳がせていた。
 モップの柄と違い木刀は程よい重みが伝わり握り具合もピタッとしていた。征生男はダラリと木刀を右に下げて立つ。頬がヒリヒリ痛み、更に背中の鈍痛が呼吸を苦しくさせていた。
 左肩に激痛が炸裂した。痛さでまたも一瞬眩暈がおこり息が詰まった。続いて背中を更に激痛が炸裂して背後でゴロッと何か地に落ちる僅かな音がした。痛さで呼吸が止る。呼吸を止めまま右に二歩跳び振り返る。ビューンと音が体の横をかすめた。
 五メートルほど離れた処から一人が何かを投げていた。拳大の石だ。征生男は走った。木刀を脇で水平に構え石を投げる男に突進し木刀をそのまま鋭く突き出した。
 男の脇腹にズンッと食い込む重い手答えがあった。
「うげっ」と小さく呻いて男が前屈みに腹を両手で押さえる。躊躇せず征生男の木刀が男の後頭部に打ち下ろされ、腹を抱えたまま呻きもなくゴロッと男は倒れた。男は先ほど征生男に背後から鋭いモップの柄の突きを受けた奴だった。
 ツツッツと言う複数の足音に身を翻し木刀を斜め上段に構えた。瓶男が木刀を上段に振りかぶって停止した。その横にデブが鬼面を歪めて並んでいる。
 キラリ、公園の街灯の光りが反射したのかデブの右脇に光る物が視野に飛び込んできた。石を当たられた脇の辺りがズキズキと痛みを増して体が重くし沈んでしまいそうな気だるさが充満してきた。前の二人が歪んで見えた瞬間、視野が真っ白になり眩暈でクラッと体が揺れた。
 その時、デブの体がふわっと緩やかに舞い込んできた。
 カチンーと金属音の後、左腕に熱いものが鋭利に走った。デブは左にドタッと巨体を転がしていた。痛みから眩暈が起り朦朧
(もうろう)とした視野の中にデブの巨体が舞い込んできた刹那、征生男の獣の闘争本能が次の動きを加速させ木刀が横殴りにデブを払いのけていたのだ。左手首の焼けるような熱い感触で征生男は覚醒した。
 デブの倒れた脇にキラッと光る刃渡り二〇センチ程のドスのようなもの、横様に転んだデブの右腕に木刀を両手で握り鋭く打ち下ろした。間髪を入れず二度三度と機械的に的確に打ち下ろす。くぐもった呻きとも叫びともつかない声を発しながら右手を押さえのた打ち回る巨体へ次は左腕を狙って執拗に木刀が打ち下ろされ続けた。
「ヒエーッ」

笛のような声を残しダダダッと足音が遠ざかる。
 振り向くと瓶男が公園の外に向けて駆けている姿が薄明かりの街灯に浮かび、その先の闇に溶け込もうとしていた。逃走か、チッと舌打ちをして征生男は再度木刀を振るった。
 両手で上段から力を一点に絞り込み、デブの足のスネを狙って続けざま鋭く打ち据えた。覚めた冷たい闘気が自分を機械のように正確に動かしている。
 今は徹底的に打ちのめす。気も手も緩めない意識をそこに絞り込み冷徹な動きを繰り返し相手の動きも気力も完全に封じ込むのだ。曖昧に決着してしまえば憎悪だけが残り復讐が日常を怯えの中に閉じ込めてしまい、恐れを背負って生きねばならないだろう。
 ならば、ここで圧倒的な勝利をものにしてコイツらを押さえ込んでしまわなければこの偶然の闘争に終止符が打たれないと、意識の中軸で確執していた。
「止めろ、止めてぇ頼むからやめてぇ」

弱い搾り出す声が漏れてきた。木刀の動きは休まず続いてデブの掌にも鋭く打ち込まれた。
「痛いーぃぃ」
 転がったまま体を海老のように曲げ痙攣するように体を揺するデブの咽元に木刀の先をグイッと押し付けた。
「エゲッ」と呻き、木刀を握ろうとする試みも痛打を浴び続けた腕はピクピクと幽かに動いただけで徒労に帰し、デブは恐怖で引きつった目で征生男を仰ぎ見るのが精一杯だった。
 顔だけは傷つけない。その代わり肢体の全てに強打を与え震撼させ二度と戦意を甦らせない恐怖を植えつける。闘争の目的は勝つか負けるか。勝つには残虐で苛烈な結果しかなく完璧な勝利をものにするしかない。攻撃の手は更に猛った。
 生暖かいヌルッとした感触が左掌にある。ヒリヒリと左手首に痛みが、ドスがかすめて僅かに肉を割っているのだろう。
「殺す気やったなお前。そやけど無理や。オレがお前を殺す」
「ううっ、う。止めてくれぇ。ウエックククッ」
 首から離れた木刀を頭上で垂直に構えそのまま巨体の腹へ鋭く喰い込んだ。もう一度振り上げ垂直に叩き込む。
 これでコイツは立ち上がれない。ツーンと涼しげで冷酷な思いが意識の全てを支配していた。
 大きく息を吸い込み、周りを見渡す。
 時間にして三十分くらいだろうか。何かとてつもなく長い闘争に身を置いているような錯覚で征生男の精神は鬼神のように凄惨で残虐なものが漲っていた。
 公園は凛と静まり数個の街灯が淡い灯りを闇の中で風景を頼りなく陰に滲ませ何事もなかったように夜を招き入れていた。
 三メートル程先に一人は倒れたままだ。が、体位が違っていた。
 征生男の体が跳んだ。倒れていた男はビクッと起き上がろうとしたところへ木刀が唸って足の脛
(すね)にしたたか打ち降ろされた。左右に狙いをつけて的確に強打を繰り返した。次に両腕を容赦なく打ち据えた。男は声にならない呻きを断続に漏らし続け小さくのたうち始めた。
 もう一度大きく肩で息を吸い振り向き、ゆっくりとした足取りでデブの横に立った。恐怖と痛みでか目は虚ろで力なく哀しく向けられている。
「お前はドスでオレを殺そうとした。オレはこの木刀でお前の顔を叩き割って殺す。死ねぇっ」
 征生男は両手で木刀を垂直に持ち上げデブの顔面を狙った。
「ひぃー」

剃刀で引き裂いたような細い鋭い悲鳴が闇に消えた。
 木刀はスーッとデブの顔面目がけて垂直に降ろされた。

木刀はデブの顔面の横に落とし込まれた。スーッとまたも木刀は振り上げられた。二秒三秒、恐怖で見開いたデブの目から突然涙が湧きあがってくる。
「次はちゃんと顔に落とすからな」
 涙が大量に吹き出たまま首を左右に降りイヤイヤをしている。
「死ねっ」
「ヒーッ」
 ドスッと鈍く打つ音がして木刀は今度もデブの顔をそれ地面に喰い込んだ。ジョボジョボと幽かな音がした。失禁したデブのズボンの股間に見る見る染みが広がっていくのを征生男は冷ややかに一瞥した。
「死にとうないか」
 デブは顔を縦に必死に動かした。
 征生男は翻ってドスを拾い上げそのままデブの顔の横にしゃがみ込みドスの刃をデブの咽元にピタッと当てた。

デブの目が一瞬カッと見開き半開いた口が恐怖を顕にしている。
「お前はコレでオレを殺そうとした」
 ドスの刃の背がデブの首根っこをスーッと引いた。
「ヒエーッ」
 小さな細い悲鳴がデブの口から漏れる。
「このまま、このヤッパを咽に突っ込もうか」
 次々溢れる涙と共に鼻汁も垂れ流しイヤイヤを繰り返す。
「お前がアイツ等の頭
(かしら)か」小さく頷く。
「どうや、もう二度とオレを追いかけるのを止めるか」
 見開いたままの目で大きく頷く。
「今夜は一応これでおいとったる。そやけど次は絶対にイテまうど。今度オレとおおたら頭下げて直ぐに消えろ。分かったな」
 ニッとか弱く頬を崩して大きく頷いた。
 征生男はドスの刃を横にしてデブの腕に預け膝を思い切り上げて踏み込んだ。パキンッと金属の折れる音と「ングーッ」と呻きが同時に聞こえた。
「安っぽいヤッパやな。ええか、オレを甘く見なよ。それをよう腹に叩き込んどけ」
 木刀を持った征生男の両腕が垂直に上げられ降ろされた。デブの鳩尾
(みぞおち)に減り込みデブは白目を剥いて失神した。

 岡本の頭に痛々しく包帯が巻かれていた。
 深く眠りに就いている。
「ま、大した事はないやろう。今は睡眠薬で寝てるだけや」
 前田がさらりと言う。
「オレ、今日そのデモの横に居ったんです。んで、ヒョッとして岡本さんが居るような気がしてたんですが、やっぱりね。ポリ等が突っ込んで来たあの時に岡本さんやられたんや」
「そんなんはどうでもエエ。お前その手をちょっと見せてみい」
 前田は征生男の掌を掴み引き寄せ袖口を荒々しく捲くった。
 征生男は痛みで思わず顔を歪める。
「切れてるな。それも刃物やなこれは」
 前田はそのまま立ち上がり壁のスチールの戸棚に向かった。
 蛍光灯が殺風景な金本組の事務所を素っ気なく照らし出している。ソファーの布地は擦り切れて岡本はそこに横たわったままだ。
 ガラッと引き戸が開いて金本社長が入ってきた。
「おおっ、征生男、来てたんか。久しぶりやんけ。何や岡本見てビックリしてんのか。しゃぁないな、コイツはやっぱり自分に正直やねん。このご時世に目は瞑られへんねんな。ほんでデモに行ってポリにやられよったわ」
「征生男、手出せ」

前田が征生男の前に立った。
「征生男がどないしてん」
「知りまへん。そやけど見てみなはれ」

前田が征生男の左手を掴んだ。
「ま、大したことはないな。二三日もしたら傷は塞ぐやろ。そやけどコレどないしてん」

前田は手馴れた手つきで征生男の左手の切り傷に消毒液を塗り包帯をグルグル巻きつけた。

 デブの鳩尾(
みぞおち)に一撃を与えてしばらく夜空を仰ぎ見た。
 深い溜息がでる。
 雲の切れ間にぼやけた闇を背負って僅かな星が頼りなく視野に入る。勝ったと言う思いと、何故か切ない胸を突き刺す侘しさが襲ってきた。
 無意味で空しい勝利。顔に傷がつかないように闘った。それでも頬に血が滲んでいる。明日になれば多分消えているだろう。この激闘の最中、何で自分はそんな気遣いをしていたのか。
 退学、それが思考の芯に居座っていた。何であろうとケンカや暴力沙汰は退学の対象になる。それが念頭から離れないから見れば瞭然の顔の傷は何としても避けてきた。
 終わったと思った。
 熾烈で残虐であったと思う。叩きのめそうと冷徹になれた自分を見知らぬ人のように不思議に見ている。
 デブには今、意識がない。三人を叩きのめし一人は逃げた。
 勝利したと実感できる。しかしこの勝利は何なのか。意識の根底に退学ということに怯えていた。それがどうしようもなく腹立たしく胸の底から突き上げてくる。
 不条理ではないのか。オレがこのヤクザ達に追われる事態不条理で、闘った証を残せば退学処分が控えている、それが何よりも不条理であるのだ。
 オレは何一つ間違ってないと、身震いをする。にも関らず事態を顕にすれば退学という処分。学校がそれ程大切で必要なのか。何か理
(ことわり)なき呪縛に絡め獲られているに過ぎないのではないのか。大学にも行きたいと思い続けてはいた。が、それすら自分の中で確かな根拠がある訳ではないと思う。
 兄の正紀が大学に入った。教育熱心な母の千代の強い思い入れがある。それに抗う意識はなかった。しかし、それさえなければオレは自由に行動が出来るのではとも思う。
 自由、何の自由なのか。追い込まれていると思う。追い込まれた意識の底でいつも怯えが根付いて自分の中の小心で姑息な一面を見つめている。生きていくと言う価値の中でそんなものは受け入れたくない。
 金本組を訪ねようと思った。
 木刀をデブの上に投げ捨て踵をかえして公園の出口に向かった。
 出口の脇の茂みの中から突然「ヒエェーッ」と小さな叫びが聞こえ、ハッと身構えて闇に視線を注ぐと、影が動いた。最初に打ち据えたエナメル男が息を吹き返し残虐な成り行きを見ていたのだろう。征生男は無視して足早に離れ桜川の停留所へ急いだ。
 行き交う車のヘッドライトがやけに眩しい。市電を待つ間、服に着いた土ぼこりを丁寧に払った。体を動かすたびに背中にヅキヅキと鈍痛が重なってくる。

 

              二章へ続く

 

 

 

 

混迷


 征生男はヤクザ達との争いを大まかに話した。
「お前、ようこれだけで済んだな」

前田が溜息交じりにボソリと言う。
 腕の刀傷だけではない、むしろそれよりも投石と蹴りで強打された背中全体が今になって熱を伴って疼き痛みが広がる。が、何事もないように振舞う。
「見事や。徹底的にやる。やるんやったらそれは大事やった」
「社長、そやけど今度そいつ等におおたら叉ヤバイんちゃいまっか」
「そやから徹底的にやったのがエエねん。二回も征生男にやられてるんや。高校生一人にチンピラが二回もやど。しかも、今度は足腰立たんようにやった。そいつ等が組に帰って言えるか。それだけで組から袋叩きされるはずや。多分、四人で隠してしまうやろう。それよりも征生男の顔を思い出すだけでビビッてまうな」
「そうですな。こいつはホンマに野獣の本能が天性にあるみたいですな」
「勝った気分はどうや」
「どうしたんや、何で泣いてんねん」
 突然心が壊れた。
 身構える必要のない居心地の良さが征生男の本来を招きよせ、驚愕を凝縮させていた堰が一度に崩れ落ち、驚愕そのものが今更のように湧き出て涙が吹き出ている。
 アレはオレじゃない。別の何かが動き回っていたとしか思えない。驚愕がオレを此処へ導き安全な処で自分を露わにしたかったのだ。
「ホンマは怖かったんです」

やっと言えた。
「‥‥そうやろう。当り前や。お前はホンマに怖かったんや‥‥そやから動き回れたんや。そやけどな、次は怖さが消えるんやな。俺はなその時のお前が怖いと思う。ええか、俺は分かる。お前が自分からケンカしようとしてへんのが。そやから、これからなもっともっと周りを見て行かなアカンど」
「社長、結局、何て言うか今日の岡本も征生男も一緒でんな。本人にその気がなかっても目の前で展開すると飛び込んでしまうんや。逃げたり黙ってたりでけへんヤツ等やコイツ等は。先が思いやられますな」
「ホンマや、ワハハハ、そやけど、俺も偉そうに言われへんわ。俺の若い時を見てるみたいやで。征生男、お前本当はもっと体のアチコチ痛いんちゃうんかい。ちょっと裸になってみい」
「いえっ、そんなことないです。大丈夫です」
「アカンな俺の目は誤魔化されへん。前田、コイツを裸にしてみい」
「ホンマに大丈夫ですから。イタッ」
 前田が突然背中を上から下へ手を滑らした。
「ホレ見てみい。兎に角服を脱げ。今手当てしといたら何でもない事が多いんや。言うても一人ではよう脱がれへんやろう。前田、手つどうたれ」
「やっぱりや。肉がチョッと裂けとんな。これは明日になったら腫れ上がるな。お前の骨はシッカリしてるわ。普通やったら肋骨が折れとるで。とに角消毒して湿布してたら大丈夫や。今夜はうつむきで寝るしかないな、それとも俺と徹夜で飲もうか、ワハハハハ」
 屈託のない前田の笑い声が響き渡る。
 咽から突き上げて来る熱いものをグッと飲み込み、溢れ出そうな涙を瞼の奥に閉じ込め照れ隠しのように征生男も笑って返した。こんな安らぎが今迄あったかなぁと思う。
 母の千代から甘味な甘えを子供の頃は味わった。
 勝之と居ると全く無防備な自分であった。それでもいつも自分がリードしていた。
 照美との一時は甘味と官能が入り組んで薄氷の上を渡るような張り詰めた情感が壊れそうになりながらも熱く悶えている。誰とも何処も自分を赤裸々に見せていなかった。
 ところが、金本組に来ると全てが先取りされて抵抗する間もなく赤裸々にされている。安堵と充足が一度に充満して虚勢が通じなくなっているのだ。

「アンポって何ですか。」
「高校生になったばっかりのお前には難しいかな。正式には日米安全保障条約ちゅうねん。戦争で負けた日本はアメリカの占領下に置かれたな。それは理解できるか」
「はい。分かります。そやから腹が立つんです」
「征生男は相当アメリカが嫌いみたいやな」
「嫌いとか好きと違うて敵やと思います」
「ははは、この敵はな征生男、今夜のチンピラみたいにやっつけられんな。なかなか手強いど。て言うか下手に手を出したら一挙に潰されるわ。んでまぁ、話を戻すと日米安保の起りはな、戦争に負けた日本がアメリカの占領下に置かれ独立国家でなくなった訳や。軍隊は解体され、て言うか日本軍は既に壊滅状態にあったからないのと一緒や。天皇のポツダム宣言受諾と言う敗戦宣言の後、アメリカ主流の占領軍が日本全土を支配し、政治も行政も全てGHQと言う機関が全部やったんやな。ところがその内に俺の国の朝鮮半島ではな、日本の植民地時代から金日成(キムイルジョン)率いる抗日パルチザンというのが居って、日本の敗戦と同時に勢力を大きくして朝鮮のほぼ全土を制圧したんやな」
「GHQ?、キムイルジョン?何ですかそれは」
「ははーん、分からんか。GHQは連合国最高司令官総司令部と言うて英語の略や、キムイルジョンは日本ではキンニッセイって言うな」
「ああ、北朝鮮の指導者ですね」
 アカでしょうと言う言葉が反射的に出かけたがそぐわないとも瞬間に思った。で、アカとは何か、簡単に今迄思っていたのが、では何かと言うと征生男の中には説明がつかなくなっていた。
 共産党の宣伝カーの前に両手を広げ「こらーっ、国賊っ」と何度か立ち塞がった事もあったが、今にして思えばそれが何なのか問われてしまうのだ。
「ま、その金日成が朝鮮のほぼ全土を制圧してやな、アメリカがでっち上げたリ・ショウバンの勢力を朝鮮半島の南に追い詰めたやん。ほんだらアメリカがこれでは朝鮮が共産国になってまうと全力投球で仁川に逆上陸していわゆる朝鮮戦争が勃発したんや」
「何でアメリカが、ほんで何処から仁川ってとこに行ったんですか」
「殆んど日本からや」
「何で日本からですのん」
「そやからな、日本が戦争に負けてアメリカに占領されて日本の中は外国のアメリカ軍の基地だらけになってるやろ。特に沖縄は全島基地や言うぐらいや。そこからドッと朝鮮の仁川に上陸してやな金日成の軍隊を北の方に追い上げてやな、朝鮮半島の真ん中、いわゆる三八度線といわれる辺りで一進一退の膠着状態になってな、と言うのは中国も軍隊を出して金日成軍と一緒にアメリカ軍と戦いだしたからや。それにソ連も直接は軍隊を送れへんかったけど、武器や物資を惜しみなく援助したからアメリカにとっては苦しい戦争になったんや」
「それっていつ頃の話ですか。」
「今から十年前、一九五〇年六月二五日や。で、勝負が着かんと三年後には停戦して休戦状態が続いてるねんけどな、アメリカや西欧はソ連や中国の共産主義勢力の広がりを恐れて日本を自分らの方に組みさせようとしたんや」
「組させる言うても初めっから日本から出撃してんでしょう。日本はアメリカの言いなりになってますやん」
「そうや。そやけど日本には軍隊がない。戦争に負けて日本の軍隊は消滅した。日本に軍隊を持たしたら又、侵略戦争を始めるかも知れんと恐れたアメリカなんかは軍隊を無くし代わりに自分等の軍隊を日本全土に展開した訳やけどソ連や中国に対抗するために日本を独立させて又軍隊を持たすようにしたんや」
「自衛隊のことですか」
「そうや。自衛隊は立派な軍隊や。朝鮮戦争が起きた次の年にアメリカをはじめ西欧やアメリカ側に組する国と日本は平和条約を結んで占領下から一応解放され独立はした。それがサンフランシスコ条約というねん」
「そんなんウソでしょう。現に今でもいっぱいアメリカの基地があって米軍がいっぱい居って占領されたままですやん」
「俺もそう思う。でな、その時に日米安保条約も結ばれてん。これで日本はアメリカに名実共に組され共産勢力に対しての前線基地になったんや」
「アカ、いやその共産主義と対抗するのは分かります。そやけど何年か前までは戦争してたアメリカに組してアメリカの為に日本に基地を提供せなアカンのですか。あんまりにもだらしないんちゃいますの」
「そうや、そう思う日本人もいっぱい居るんや。一九五一年九月八日に結ばれた日米安保はな十年を区切りに見直されるようになっててな、それが今年やねん。ほんで、岡本もそうやけど労働者や学生やホンマに日本を考える人達が日米安保をなくそうと今、闘ってるちゅう訳や」
「オレには分かれへん。何でアメリカなんかに指図されながら日本人同士がケンカ、いや争わなアカンのかオレには絶対納得いかへん」
 思わず征生男は声に力が入った。
「ほうーっ、征生男、来てたんや」
 突然岡本の声がした。
「あっオレの声で起こしたんですね。すんません。岡本さん大丈夫ですか」
「何や岡本、目え覚めたんか。そやけど動いたらアカンど」
「えっ、俺っ、どないしとったんやろう」
「アホンダラ、お前なぁ仲間の車で此処まで運ばれてきたんやど。何やポリの警棒を頭に一撃喰ろうてそのまま意識がなかったって、ほんで病院へ連れて行ったら訳の分からんこと叫んで暴れだしたから医者が鎮静剤を打ったと言うてたど。どないや今は大丈夫か」

前田の太い声が響いた。

よく見ると二つ並んでいる蛍光灯は一本しか灯っていない。その淡い光が殊更金本組の事務所を殺風景で単調に浮かびあがらせていた。虚勢が剥ぎ取られ素直になれるのは飾りのない単調な部屋の色彩と屈託のない男達の芯の太さが征生男を包み込んでくるからなのか。
「ホンマか、征生男があのトキ横に居ったんか。へぇー何か運命的なもん感じるなぁ」
「そんな事はどうでもエエんです。大丈夫ですか」
 岡本はソファーから身を起こし座り直した。誰もがキョトンと見つめたまま固唾を飲んでいた。
「俺の為にみんな大変やったみたいやな。心配かけてスンマヘン」
 誰にするでもなく岡本はペコリと頭を下げた。
「コラッ、ホンマ大丈夫やろな」

前田の太い声がまた木魂した。
「で、征生男は何で今夜此処に居るねん」
 岡本の質問に前田が大まかに説明した。
 前田の話を腕組みして慎重に聞いていた岡本は段々表情を緩め、そしてニコッと楽しそうに笑顔をみせると明るく言ってのけた。
「ふ~ん、そうかぁ。征生男の戦闘能力は抜群やんけ」
「‥‥」
「俺はな、ちょっとは剣道やってたけど見ての通りや、ポリ一人もよう倒せへんような弱虫の体やんけ」
「岡本さんにはオレなんか分からん思いがいっぱいありますやん」
「そうや、要するに頭デッカチや。オレが目指したのは革命や。そやけどな革命は頭デッカチだけではでけへんねん。不屈の闘志と頑強な肉体が必要やねん。求められるのは革命の戦士やねん。征生男の戦闘能力はオレから見たら理想の戦士や。そやけど革命の戦士は確りとした理論武装も必要や」
「理論武装?」
「そうか、征生男には未だ難しいかな」
「ええ、ホンマのとこ、革命自体がなんなんかよう分かりません。岡本さんの話をいつも真剣に聞いていますけど、分からん事ばっかりです。それでも、オレはオレなりに勉強したり考えたりしてるんですけど」
「うん、よう分かってる。最初会った時から比べたら雲泥の差やど。革命が分からんと言うのは、つまり、今言うた理論武装の理論やな。革命、何の為に革命するのかその道理を自分の中で揺るぎのない信念として持てるかどうかと言う事なんや。その為に世の中の仕組みや過去の出来事や未来を目指せる哲学を勉強せなアカン。俺は自分がそうして来たと思い込んできた。そやけど俺に致命的に足らへんのは、この脆弱な体や。頭デッカチだけではどうしようもない」
「オレ、オレはホンマに弱虫なんです。小さい頃は家でも学校でもいつも苛められて泣いてばっかりいました。そんな自分がもの凄くイヤで暴力に走りツッパってきましたけど、それでも弱いんです。ケンカの前なんか怖さで体がガチガチになっているのに逃げたら負けや、逃げたら恥やと向かって行きケンカになったら必死に夢中になり相手が許しを乞うてくるか倒れるかするまでやってしまうんです。そやけど、それは怖さがずっと張り付いて怖いから妥協したらアカンと思うてきたんです。それは岡本さんの言うような戦闘能力とか言うエエカッコのもんなんかとちゃいます」
「そやからお前に理論武装ができたら戦士になれると岡本は言いたいんやろう。そやけどな、岡本は焦ってる。まだ若いお前にそこまで出来る訳ないし、征生男自身がそういう方向に進むかどうかもまだまだ未知数や。な、岡本、征生男にあんまり圧力かけたったらアカンど。征生男は征生男でこれからしっかり世の中を見つめていくやろう。俺等はそんな征生男の補佐をする程度でコイツのこれからを見守ってやろうやんけ」
「ホンマですね、社長。俺は自分の不甲斐なさを征生男に押し付けようとしていますね。征生男、ま、追々勉強してくれや。ほんで分かれへん事や困った事が出来たら俺等でできる事やったら何でもするで」
 奮えるような格闘の末この人達と知り合った。
 アレは怒りとか憎しみなどが絡まない乾燥した激闘であった。あったのは遥かに大きな者への怯えから逃避する嫌悪が征生男の中で爆ぜた。
 そんな征生男を金本も前田も岡本も温かく迎えてくれる。成り行きに自然になれる関係が実在するのだ。かつて横溝の家に招かれた時はそこに出来上がっている関係が如何にも絵空事の無理に演出された不快な空間であったかを思い出した。
 何故という問いを余り斟酌せず引き込まれるままに別世界を心地良く味わってきた。温和に見えた岡本の表情の本体が蒼く尖って何処かに狂気を湛えているのだと肌が戦慄するのも感じた。尋常でないところに引きずり込まれそうな時に金本が割って入って来たのは正直救われたような気分になったが、一方で岡本の話をもっと聞きたいと言う思いもあった。
「オレ、もっと勉強します」
「エエんやど、征生男も焦ったらアカン。今はな、高校生なりに今を生きる事を考えたらエエねん。おっ、前田が何か持ってきたで」
 前田が盆にビール瓶とグラスを抱えてテーブルの上に置いた。
「ま、今夜の堅い話の結論がついたところで一杯やろう。残念やけど岡本は見るだけやなワハハハハ。」

「何や、一人で前田さんとこへ行ったんかいな。水臭いで」
 勝之が大袈裟に詰ってきた。久しぶりのルニーだった。
 明美が眼を潤ませて不思議なものを見るようにただ見つめ言葉がなかった。
「征生男」
 カウンターに両手を広げ健ちゃんが重い表情で目線を据えてきた。
「はぁ」
「お前な…、もうケンカしたらアカンな」
「‥‥」
「今度、そんなケンカしたら殺すまでやってまうど。何でかいうたらお前は自分の力を分かってへん。この前、オレに少林寺を教えろ言うてたな。教えたる」
「ホンマですか」
「うん。お前にケンカさせん為にな。少林寺はその気配を消す拳法や。心が和むと言うのか暴力に対して静で対処できるようになるねん。征生男は暴力に過敏に反応してえげつない力を出してまうんや。暴力に対して冷静に判断して避けて通るそれが少林寺拳法の極意や。オレはお前にそれを叩き込んでみとうなったな」
「お兄ちゃんの言うのんよう分かれへん。少林寺も武道でケンカを練習するようなものやろう。ケンカに強うなったら征生男は怖いもんなしでもっとケンカするんちゃうん」
「そう言うことも言えるな。そやけど俺は健ちゃんの言うのが何か分かるような気がする。征生男ちゃんは引く事がないねんな。突っ込むねん。それは多分自分が強くないのを知っているからや。突っ込んだら歯止めがないねん。コレっていつか何かあると俺は思うてんねん。少林寺でも習ってホンマに強うなったら変わるかもな」
「何や、カッちゃんにしたら俺の話がよう分かってんやんけ。その通りや。征生男は自分の力の限界が分かってへんねん。酒を飲みだした小僧が限界知らんと煽られたら極端に飲んでしまうのと一緒や。ほんでここでも征生男はぶっ倒れ時があったな。ま、俺がそうしてんけど」
「そうや、お兄ちゃんあの時、征生男を煽ったやんか」
「何ぬかしとんねん、お前かって征生男を煽ったやんけ」
「そやけど、お兄ちゃんみたいにエゲツナイのは嫌やったわ。私はちょっと征生男が酔うのを見たかっただけや」
「ホンマや。ほんで俺が征生男ちゃんを家まで担いで行って大変やってんから」
 スタンドの淡い明かりに視点を当てて今日の激闘を反芻している内に、思考は金本組での岡本の話に入り込んでいた。。
 革命の戦士。
 訳が分からぬままに何か男の潔さが迫ってくる。陳腐なヤクザとの闘いよりもっともっと崇高な目的の為に戦う男の生き様が疼くように裡に広がる。
 理論武装、そこに至ると何が何か全てが遠ざかって自分が如何に無知であるかを認識させられてしまう。
「抑止力って言うんやな。自分にも他者にも。弱い犬が吼えまくるように弱いヤツは兎に角肩で風を切る仕草をするんや。ほんで同じ弱いヤツがそれに反応してチンケな暴力になんねん。少林寺で鍛えて鍛えぬいたらそんが如何にバカ気てるかよう分かる。鍛えると言うのはどう云うのか、強靭ってのが何かで身を持って体験したらケンカなんか滅多にできるもんとちゃう。んでな、そこで生まれてくる自信が周りからケンカを寄せ付けへん抑止力になんねんな」
「ふーん。そんなもんですか。俺は征生男ちゃんはもう充分強いと思うけど」
 革命、革める命とそのままでは何の意味をなさない。
「湯武命を革
(あらた)め、天に順(したが)いて人に応ず」

辞書を引いたそのままを思い出してみた。
 被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に覆
(くつがえ)すこと。フランス革命・ロシア革命など。と言うのもあった。
 つまり今の日本なら天皇を象徴にした議会制民主主義そのものを潰して支配されている民衆の新しい権力に変えると言う。岡本は民衆とは働く労働者や農業に従事する人達の権力というていたが、征生男には天皇をなくする。それでは日本はアカンと天皇に固辞する自分の思いを捨てきれないし、第一、議会制民主主義自体を本当にわかっていない。
 その辺を知っていく勉強が必要なのだが、それが果てしもない遠い道を歩いていかねばと、溜息がでる。
「健ちゃん、そやから自分が強いと思えるんやな」
「いや、まだまだ俺は弱い。そらそこら辺のもんが四五人向かって来ても撃退できる位の自信はあるけど、それが強いと言うのとちゃうねん」
「何でぇ、それってメチャ強いんちゃうん」
「あのな、カッちゃん。向かって来たら撃退できる、したると言う思いが既に人間として弱いねん。征生男がそれや。そやからコイツは逃げへん。逃げへんけども気持ちの中では人一倍怖がってんねん」
「そうやろうか。うーん。そう言われれば征生男ちゃんもそんなん言うてたな。怖いのを認めたり逃げたりしたら負けやって、負けとうないって」
 にしても、岡本はそんなのが何で大事なのか。
 岡本さんが一生懸命熱く語る内容を金本社長も前田さんも否定せんと何時も聞いている。
 アレって何やろう。岡本さんの考えや知識をオレなんかよりもっと真剣に受け止めようとしている。
「どうしたん。征生男ちゃん、頭ん中どっか飛んでんのか」
「ホンマやわ。さっきから皆の話し聞いてへんね。何か心配事でもある?」

「征生男ちゃんお前、ホンマに最近変わってきたど。ぼーっと何か考えてるような時が多いやん。俺なんかが入りにくい雰囲気が見えんねんな」

「そうか、そうかも知れへんな。金本組に行く度に何か考えさせられんねん」

「岡本さんやろ。あの人は難しいな。そやけどメチャ熱いやん。そやから難しい話しても黙ってじっと聞いてしまうねんな」

「どんな人や」

「あのな、健ちゃんも結構能書きたれやけど、その岡本さんはそれに輪をかけて難しい話しはんねんな」

「アホンダラ、能書きたれは余計じゃ。ほんでどんな難しい話やちゅうねん」

 勝行がビールをお代わりした。

 サントリーの小瓶を明美がポンと栓を抜き勝之のグラスに注ぐ。そう言えば勝之は急速に酒が強くなってきたなぁと思いながら征生男はカウンターの中に立つ健ちゃんを仰ぎ見る。

「健ちゃん、安保って分かる?」

「何や急に、アホンダラ、俺かてその位は分かるわい」

「それってどう思う」

「簡単やんけ。日本がアメリカに守ってもらいますと体のエエこと言うてアメリカの占領に甘んじる事や」

「そうか、健ちゃんもそうか。ほんだら、天皇をどう思うてんねん」

「ふーん。そう言う事か。その岡本って言う人はお前らにそんな話をするんやん。大した人やなぁ。お前等がそんな話を聞いてしまうという人なんや。もし、俺がそんな話しても多分お前らは何難しい話てんねんと笑うてまうやろ」

「そうや、健ちゃんの言うのは無茶が多いもん。征生男ちゃんを酔わして潰したり、女とやって来いとか、喧嘩しても知らんふりやし、あんまり喋らんとニヒルに音楽を聴いてるだけやん」

「当たり前じゃい。その辺のボンクラと親身に話なんかできるかい。そやけど、何やなぁお前らも知らん間に成長してきたな。征生男はケンカばっかりしてるんとちゃうんや。俺はエエと思うど。ほんでな、俺の意見を言うたら天皇なんてクソ喰らえじゃ。戦争やって信じられんくらいいっぱい人を殺して何の罪に問われへんというのも頭に来るけど、俺はな、それ以前に天皇と言う存在そのものがアカンねん。

 何で人間に生まれた時からそんな差を作るねん。生まれた時は皆一緒や。そこから生きてきて差が出て来るねん。努力するモンと努力せんモン。考えるモンと考えへんヤツ。これは当然差が出来るわな。何でも平等ってのは嘘臭いとしかあり得へん、実力で差が出来るちゅうのは当たり前や。そやけど今はその実力がちゃんと評価されへんな。いや、未だにや」

「ふぇぇー、健ちゃんも結構言うやん。ビックリしたわー。ほんで健ちゃんは世の中を拗ねてこんな商売してんねんや。そやけど、ま、岡本さんの方が何て言うかな、その論理的でスキッとカッコエエな」

 コツンと健ちゃんは勝之の頭を叩いた。

 意外だった。健ちゃんまでがそう言う。話の中身としては横溝も岡本さんも健ちゃんもほぼ一緒ではないか。

 唯一、平川先生だけが自分の意見を言わず冷静に客観的な話をしていた。今でも横溝を思うと血が上るほど怒りと嫌悪を覚える。しかし、横溝がオレを導こうとしていた中身は岡本さんや健ちゃんと何処が違うのか。

 なんぼ自分が正しいと思うても人に押し付けたらアカン。

 平川の言葉が蘇えってきた。

 横溝は共産党党員。

 共産党と言うのは党の指令で末端の細胞が動いて、党に反する者は排除していく、それは労働者農民の党と称しても党に反する労働者も農民も学生も組織ぐるみで殲滅にかかる。そこで全学連とは敵対関係にあって、当然そこには人間性よりも教条的な姿勢が強いと岡本は言っていた。教条的って何やろう。人間性、演出された仲間意識の裏に冷酷な顔が横溝にあった。

 そやからオレは嫌いで許せない。

 しかし、共産党も全学連も岡本さんも言うのに大差はないように思えるのに何で一緒になってやって行かれへんねんやろう。

「んで、征生男は安保や天皇に何か考えがあるのか」

「う~ん、考えなんかあれへん。むしろ考えてんねん。最近はようそんなのを考えるねん。オレはアメリカは日本の敵やと思う。戦争に負けて日本はアカンようになったと思う。負けてどいつもこいつもアメリカにへぇこらしてるのを見てたら根性のない哀れな負け犬やと腹が立ってくるねん。ところが、そんなとこへケンカを仕掛けてる岡本さんのような人が多いのを知ってオレは段々そっちの方へ考えが傾いて行くねんな」

「うん」

 健ちゃんは征生男をじっと見つめながら小さく頷く。

「健ちゃんもそうやけど、そんな人は皆、天皇が一番悪いとか無くさなアカンて思う人ばっかりや。オレはそこの辺がまだ納得でけへんねん。オレは子供の頃から剣舞や居合い抜きを教えこまれてきた。武士の心も教え込まれてきた。武士とは天皇にサブラウ者というて天皇の為なら命も捨てる心構えでとか、日本の中心は天皇であって日本人は皆天皇の下に居らなアカンて」

「うん」

「そやけどもな、オレの中でその辺が揺れ始めてきてん。そう思う気持ちにどこか違うものが入り込んで、何て言うか、今まで信じてきたものが崩れていく頼りない思いでイライラするねんな。天皇を中心に言うても天皇までもアメリカにへつらってるみたいやん。それにムカついたら、オレが知り合う人は皆、天皇を否定する人ばっかりやん。オレ、どうしたらエエか考えなアカンし、何か辛いねんな。」

「武士が最初に天皇をないがしろにしてんど。鎌倉幕府を始めた源頼朝や。それ以後、足利尊氏も、戦国の武将も徳川も皆や。特に織田信長ってのはカッコエエ。自分が天皇に替わって日本の王になろうとしたんや」

「それは知ってます。徳川幕府倒す為に天皇を担ぎ出して明治政府が出来たのも。日本の中世から近世は天皇は飾りもんや言うのも。その辺で益々分からんようになってくるねんな」

「何や、健ちゃんも征生男ちゃんもえらい難しい話ししだすんやな」

「お兄ちゃん、こんな話は殆どせえへんのにな。そやけど、お兄ちゃんは私が小さい頃から暇があったら本ばっかりよんでたわ。それもな、私が見たら難しいてチンプンカンプンの本や」

「オレの子供の頃は日本は未だ戦争してた。みんな天皇のために死ぬんやと、子供心に俺も本気でそう思っとたな。ところが戦争に負けた。それまで神様やったヤツが人間やぬかして、占領されたアメリカのマッカーサーやGHQの子分みたいになった時には俺は覚めたな。今までと違うねんやと。今までが間違っててこれからが正しいとも思えへんかった。征生男とおんなじやで、何が何かサッパリ分かれへん。ただ、生きていかなアカン。俺には妹が居るからグレたりもでけへんし、ただ働いたんやけど、こんな俺でも時間があったら必死で本を読んで勉強したわ。神様の天皇を頂点に軍国主義になって戦争やって負けたら、アメリカが持ってきた民主主義になって自由と言うものが降って沸いたように広まって、一部のヤツはアメリカが解放してくれたと大喜びしてたんや。ところが、民主主義と自由を持って来たはずのアメリカがマッカーサーとGHQでレッドパージー言うてアカ狩を始めた。アカ狩言うてもアカだけちゃうねん。労働組合なんかに強権で締め付けや。そのころから俺は民主主義も嘘クサなって人も政治も信用せんようになった。特に権威とか権力には憎悪するようになった。もう絶対誰の言うのも信用せえへんし誰の命令も受けるもんかと、俺は俺や、俺一人の自由、、その俺一人の自由をとことん考えるようになった。

 そこから読む本も変わってきたな。サルトルの実存主義やニーチェの虚無的な思想。クロポトキンの絶対自由の思想。人は等しく自由である。自由であるから一切の権力は認めない。権力に対して反権力。言い換えたら権力の暴力に対して反権力の暴力や。征生男がチンピラと闘ったのもそれや。チンピラの暴力と言う権力にお前はお前の自由の為に暴力で勝った。

 そこやな、俺がホンマに言いたいのは権力の暴力に打ち勝つ。勝ったらそこでまた勝った者の別の権力が生まれる。その権力が他の奴の自由を奪って行く。人間の歴史はこの繰り返しなんやな。

 勝手にやっとれと思う。そやけどお前を見てたらそうもいかんようになってきたわ。自分が自由であるように他人も自由。それを認め合う眼力を養うのに少林寺も悪うないと俺は思うたんや」

「難しいなぁ、何かオレ、益々混乱してくるわ。オレも健ちゃんみたいにサルトルとかニーチェや何やった、えぇそうそうクロポトキンを読んでみとうなった。な、健ちゃん、ほんでいつから少林寺拳法を教えてくれんねん」

「そやな、お前の休みの日。次の日曜から始めよか」

 久しぶりのルニー。

 健ちゃんも岡本さんに負けず劣らず理論を展開するのに征生男は弾むような嬉しさを覚える。健ちゃんと言う人をあらためて見直していた。健ちゃんの覚めたような感覚や鋭い突っ込みと見透かしてくる目付きは怖いとも思う一方で憧れも抱いていた。その健ちゃんが更に奥深いものを見せてきた。

 征生男は突然、春子が脳裏に浮かんだ。

 ここは春子の来るとこやったと現実に立ち返った。

 春子が嫌ではない。むしろ春子の体にいつでものめり込みたい欲望は否めない。けれどこれ以上照美の前で後ろめたい苦しい思いをしたくないと思う。また、もし此処で春子に巡り合ったら抗し難い欲望の虜になってのめり込む自分がハッキリ見える。

「カッちゃん、お前まだ居るか。」

「うん。征生男ちゃんはもう帰るのか。俺、ミヨちゃんと約束してるしもうちょっと居るわ。明日休みやしな。そやな、ミヨちゃんが来たら春ちゃんも来るな」

「まぁまそうやけど。オレ、帰るわ」

「ウワハハハ、征生男、もうモテモテやな。ようーし、少林寺やろう」

「うん。健ちゃんお願いします」

「えっ、征生男も来てたん。ほんでさっき帰ったん。」

 カウンターに視線を落とし春子は呟くように言った。

 ふっくらとした頬にカールした髪がかかり少女のような可憐さが漂う。思いつめた心の憂鬱が影となって揺らめいているのが誰しも感じた。全員が一瞬沈痛な表情を浮かべ沈黙が支配した。春子はカウンターにもたれ腕組みをして頭を垂れたまま微動だにしない。

 カウンターが涙の雫で濡れて淡い灯りを反射して煌いた。

 

 皆が遠巻きにして見ているのは分かる。
 かつての仲間は殆ど誰も寄って来ない。
 北村は会えば絶えず話しかけてくる。いやわざわざ会いに来ている。
「な、たまに付き合えよ。嶋田のキューの捌きも久しぶりに見たいし一緒に行こうや」
「うん、その内な。相変わらずコニーで屯して玉突きに行ってんのか」
「当たり前やんけ。そやけど嶋田が居らんと何かパッとせえへんな」
「玉突きか、そうやなぁやりたいなぁ」
 心底やりたいと思った。
 番長なんてバカらしく引いている積もりでも周りでそれを認める空気は少ない。穏やかに皆と玉突きに高じる雰囲気が蘇えってきた。 本当はそれが一番楽しくて良いのではないか、何で皆と一緒にやって行かれないのか、オレだけが逸れて反れて苦しむのか、岡本も平川も健ちゃんですらもふと、横溝と同じような鬱陶しさが沸いてくる。北村の無邪気な顔を見ていると皆と一緒でありたいと切なく感じた。
「な、北村。明日は映画の鑑賞会やろう。えぇっと確かアンネの日記やったな。それが終わったら現地解散やんけ。確か道頓堀の松竹座やんけ。行こか久しぶりに玉突きへ」
「おおうっ、行こう行こう。嶋田、ホンマに行こうや。皆にも言うてエエんやな。瀬田は、う~ん、分かれへんけど。嶋田の技が久しぶりに見られるねんな」
 菊池が明るく毎日接してくる。
 菊池の接近が鬱陶しい。完全に勘違いしている。
「ようそんなに変われるなぁと感心してんねん。寄り道なしで帰ってるんやろ。俺な、せっかく嶋田らのグループで何か悪もエエかなと思とったのに嶋田が居れへんかったらやっぱり入りにくいな」
「エエやんけ、オレが居らんでも皆と遊んだら」
「いや、俺は別に遊びたい訳ちゃうねん。お前と打ち解けたらなぁと、それだけやってん。その為にはお前の世界にも入ろうと思ってん」
 完全に細胞化されている。本人は気づいていないだけ、どこか哀れさを感じる。
「何でそんな無理するねん」
「無理ちゃうねん。俺も嶋田みたいにしたかってん。そやけど、何かちゃうやんけ。優等生や言われて違う世界に入るのはそれなりに考えると勇気が要ったな。そやけど、嶋田の後について行ったらどうってことなかってん」
「横溝がそうせえ言うたんやろ。もう、エエって。お前はお前でオレなんかを気にせんでエエンちゃうん」
「またや、いつまでも皮肉っぽく横溝先生の話を出すな。俺とお前で喋ろうや。それとも何か、俺がイヤなんか」
 菊池の目には不満が澱んでいた。
「正直言うたらなぁ、ちょっと鬱陶しいねん。オレはな別に一人でエエねん。て言うか一人の方がエエねん。誰かにまとわり付かれるってのが鬱陶しいねん」
 言葉とは裏腹に征生男の顔は和んでいた。
 菊池の誠意が分かるのだ。それに嫌いではなかった。
「エエ加減にせえや。何が鬱陶しいねん。俺だけちゃうど、北村もお前等中学から上がってきた連中もお前を気にしとんや。そやけどこの変わりようは絶対退学になんかなれへんと俺は一応安心してるやんけどな」
「エエこと教えたろか」
「何や」
「明日の映画の鑑賞会が終わったら久しぶりに皆と玉突き行くようになってん」
「ホンマか。ようし、俺も行くで」
 校門の横の楡の大木に新芽が吹き出ていた。
 穏やかな曲線で広がる淡い緑の群れ。征生男の目は飽くことなくそれに注がれていた。
 大阪で生まれ大阪で育って山も森も縁がなかったのに何故か大木の豊かな緑や公園の樹々のたたずまいに回顧的な懐かしさで染められるのだ。いつもそうして思考を深いところまで潜りこませ思いに深ける。皆が気にしてる、安心してる。つと、そんなこと知ったことかいと、横を向いてしまう。素直さが欠如している。以前からそうだ。しかし、それに気づく自分に気づき少し唖然とした。歪んでいるとか素直とかなんかを考えていなかった。オレはオレ。顕われる現象に体を張り続けてきただけだった。
 自分の中で何かが変化しているのに気づく。変化の中で素直に仲間達を受け入れているのだ。その辺の突っ張りが影を潜め気持ちが大らかになっていた。
 照美の顔が、前田の顔が、金本社長の顔がほのぼの浮かんできた。
 金本社長が、チンピラ共はもうオレを探さないし、顔を思い出しただけでもビビルと断言していた。ほんまかなぁ、肯定も否定もどちらも一緒の認識で曖昧にどうでも良いと思い、映画の後は皆と玉突きに嵩じる気になった。

 ユダヤと言うだけで拘束され連行され殺されていく。
 ついこの前まで平凡に暮らしていた家族がナチと言う抗われない力で理不尽に潰され抹殺されていく。痛々しく哀れで悲惨で残虐な逃れられないかつての事実に、絶望と恐怖が宿り映画を見ていく中で、平川や金本社長や岡本の話が蘇える。
 二千万人もの殺戮、百万人もの朝鮮人連行。
 ナチのようにガス室で大量虐殺はなかったとしても、数字の上では日本の方が凌いでいるように思われた。そして、アンネのような少女を大量に生み、虐殺された外国の悲惨な人間の家族は日本軍の手で、天皇の名で遂行されたと言う話しが蘇えり、恐怖と絶望が生まれ、それが憤怒に転化して行く自分を痛く自覚しながら映画を見終えた。ナチの残虐は映像を通して見れたが、日本軍の残虐は話で軽く聞いただけに過ぎないが脳裏にはそれが映像となって広がっていく。
「嶋田、悪いけど付合うてくれへんか」
 松竹座をゾロゾロ出てきたら一年で同クラスだった山口が横に並び人懐っこく言い寄ってきた。
「何処へや」
「古本屋や」
 本屋、そうか本屋に行けば想像の粋を出なかった日本軍の残虐行為が見れるかも知れない。
「そうやな、おっエエど。古本屋でどんな本を買うねん」 「買うんちゃうねん。反対に売りに行くねん」
 山口はボストンバックから白い表紙の三センチは越す厚みのズッシリとした真新しい洋書を出した。
「えらい難しい本読んでんねんな。もう要らんのんか、それ」
「いや、ワイのんちゃうねん。兄貴の本棚から抜いて来てん。兄貴別に読みもせえへんと飾っとくだけやし、ワイ、小遣い無くなってもうたし、ほんで一人で売りに行くのにビビッてな。つきおうて頼むわ」
「何か屁たれやなぁ。まぁエエわ、オレも本屋覗きたいと思うてたし」
 連れの菊池と三人で松竹座の向かいの古本屋に入った。
 北村達はそれぞれ玉突き屋に向かっているはずだ。少し遅れるがまぁエエか。


 

潮騒

 階段を駆け下りた。
 出来るだけ素早く音を消して駆け下り玄関の下駄をつっかけ表に飛び出した。
 通りの角で照美は待っていた。
 笑顔が眩しいまでに注がれてきた。頤をしゃくって、来いと促す。
「あぁ、ほんまにドキドキするわ」
「なにが」
「そんなん無理ないやんか。電話するのもドキドキやろう、此処へ来るのもドキドキやんか。それはそれなりにウチにしたら必死なんやで」
 両腕を交差さして胸を抱え俯き加減で見上げる瞳が煌く。
「そんなもんかなぁ」
「もう、征生男ちゃんは自分の家やから分かれへんやろう。ウチはもう大変なんやから。それでも逢いに来るんやで。そんな気持ち分かる?」
「ええっ、どんな気持ち?」
「もうっ」

と照美が征生男の胸を叩いてきた。
 しばらく叩かしていた。胸板に響く照美の掌の弱い衝撃が狂おしく愛しい。

思わず抱きしめる。抱きしめてくる。
 胸が高まる。抱擁が時を駆けていく。
 確かめ合う目と目。真っ白な世界が流れ燃え上がる赤い欲望を体内に閉じ込めて照美の顔を見つめた。 

唇が重なっていた。
 柔らかい温もり、優しさが永久に続くような柔らかい温もり。長いくちづけ。
「ふぅ~っ」

と湿った熱い溜息が同時に漏れて二人は離れた。
「潮騒って知ってる?」
「えっ」
「三島由紀夫の小説」
「ああ、読んだことある」
「その中で嵐かなんかに合ううて番屋に避難するやん」
「そうかな、あんまり覚えてへんな」
「とにかく嵐に合って番屋に避難する二人、二人は未だ手も握りあってないねんな」
「ふ~ん」
 何が言いたいのかと怪訝な目線を照美は投げかけた。
「どっちもずぶ濡れやんか。番屋の中で火を焚いて暖まろうとした。衣服は濡れてビショビショやん。ほんで着てたモン脱いで二人とも焚き火を挟んでな、ま、裸のままやねん」
「それがどうしたん」
 照美の瞳が一瞬キラッと光を放ち鋭く射してきた。

「別に、そそれだけの話やけど」
 一瞬、気圧されて萎縮する。
 照美は征生男の腕を解き離れた。
 両手を後ろで組み、そのままゆっくり後ずさりして部屋の端の壁に背中をピッタリ合わせた。俯き加減に少し上目で視線は征生男から離さない。怒ったようでもあり、深く探っているようでもあり、今まで見せた事のない強い冷たい光を宿している。征生男は怯えた。言葉に詰まり身動きできずにうろたえていた。
 閉めた窓ガラスから外の明かりが小さな部屋を明るく浮かべている。
 穏やかな午後。窓外のざわめきすらなく二人の居る部屋は静寂の時を刻んでいる。
 その僅かな時の流れの冷酷さにうろたえ、照美の中で何が起き変化したのか図る術もないまま征生男は照美の鋭い視線に身を竦ませていた。
「征生男ちゃん、カーテン閉めて。」
 鋭い視線に相応しく有無を言わさない強固な意志を湛えて静かなハッキリした言葉に、疑問を感じる余裕もなく命令に意思も体も反応して、征生男はそそくさとカーテンを引いた。

 カーテンを閉め切る。

 気圧されたまま机の前へ元の位置におずおずと戻り照美と距離を置いて佇んだ。

 採光が弱くなり淡い光で部屋は曖昧に浮かびあがる。

 照美の鋭く冷たい視線は征生男の動きに合わして追いかけていた。

「征生男ちゃん、そこから動いたらアカンで。約束する?」

 なんでや、と口に出なかった。ただ従うしかなく重くハッキリ頷いて照美を凝視し続けていた。

「ウチを見たいんやろ。征生男ちゃんやったらエエ、見せる」

 何を、も、口に出なかった。

 途端に胸の動機が激しく高まってくる。

「お願いやから動かんといてね」

 深く重く頷く。全身に熱を帯びた緊張が走り掌がネットリ汗ばむ。

 照美は征生男に向けた視線を外し俯いた。

 淡いブルーの花模様を透かした半袖のブラウスの前ボタンを一つづつ丁寧に外しそっと後ろに脱いだ。

 その瞬間、部屋の淡い曖昧な明りの中で壁を背に白い肌が滑らかな光を放ち浮き上がった。

  冷たい鋭い照美の視線がまた征生男に射してきた。

 征生男を見据えたまま肩にかかった細いブラジャーの紐を腕の外へずらしそっと腕を抜ける。両方の腕を抜いて両腕は胸の上でクロスさせ抱きしめるようにして外したブラジャーを挟んでいる。

 冷たい鋭い視線が一瞬崩れ哀願する弱い光に変わり

「征生男ちゃん、ホンマにそこから動いたらアカンで、ほんまやで、ね」

「ゴクッ」と生唾を飲み込んで深くハッキリ頷く。言われなくても、それでいても征生男の全身は硬直したかのように固まっていた。

 照美の予想だにもしなかった突然の大胆な行動に思考回路は停止して甘酸っぱい怯えのようなものが体中を包み込んでいる。不思議な感覚が思考も行動も金縛りにあっているのだ。

 照美はホッと深い息を吐いて頭を垂れた。

 征生男の緊張にかすかな緩みが生まれ照美の全てを戸惑いながらも見ることが出来た。

 なでらかな肩の下がりの角に少し骨が浮き出て、細いなりに柔らかい白い膨らみの二の腕、覆い隠すのに抱きしめている腕の真ん中で逆に押し上げられて谷間の影は深くクッキリと浮かび上がり、影と白い肌の優美な調和に征生男の目は瞬きせずに見開いたままでいる。

 照美は振り向くように顔を横に捻り目を閉じた。

 前に抱きしめるように組まれた両腕の力が緩みそのままスーッと降ろされ腹部から両脇にそれぞれの腕はダラリと下げられた。

 サラリとブラジャーが床に舞い落ちた。

大きくはなかった。

 程よい膨らみの白い球形は左右同じ造形で涼しく並び、上向いた頂点は薄桃色の小さな蕾になっていた。

 深く入り込んだ鳩尾からやや波打つたおやかな腹部にキュッと小さい縦の窪みを見せている。穏やかな曲線でくびれた腰の影は後ろの壁から浮き彫りとなって全体が幻想的な淡い光を放つ一つの清楚な絵画でもあるかのように、静寂に深深と迫ってきた。

 初めて正視する女性の体。

 写真で見ているし、春子とも裸体をまさぐり合ったが闇の中の行為。裸体を見る間もなく肉と欲の渦の中へドロドロと発熱して行った本能の赴くままの刹那な行為。

 目の前の照美の眩しいまでの優雅で清楚な温もりの造形に犯しがたい思いが迫り上がり、息苦しくも胸に迫る切なさがこみ上げてきた。それ以上犯しがたい美しい聖域を今二人は共有して魂と魂が絡み合っている。

 死ぬのかオレは、感嘆が緊張を高め鼓動は爆ぜるように振動する中でやるせない痛みにこのまま死ねば良いと不可思議な赤い色の終幕の中に居た。

 一瞬、目の前の画像が消えた。

 照美はしゃがみ込み素早い動作でブラジャーを身につけブラウスに腕を通し胸元のボタンをはめ、長い髪を両手で後ろへサッと払った。

「ハイッ、おしまい」

 爽やかな笑顔が太陽のように降り注いできた。

 長い長い時の流れの中に居たようで、実はほんの二三分だったろう。

「ああぁ、恥ずかしかった」

 そう言うと椅子に深々と腰を落とし何でもなかったように上目遣いで征生男を見つめている。

「ね、征生男ちゃん、もうカーテン開けよう」

 ハッと幻想の世界から目覚め、ゆっくりとカーテンを押していた。

 小説『潮騒』のあの場面が蘇えり、二重写しに照美の裸体が瞼に焼き付いていた。

 

 

 また瞬時に腕を絡めとられ足を払われ背中から落ちていた。もうこれで三回目になる。

「これはもうエエか。ま、ざっとこんなもんや、ほんだら次からは基本をやって行こうか」

 涼しい顔で淡々と健ちゃんは言い征生男を見下ろしていた。

「どこから、いつでもオレを殺す位の意気込みでかかってこい」

 言われても、そんな本気が自分には沸いてこない。それでも言われた通りに真剣にコブシを水平に瞬時に突き出し健ちゃんの顔を狙った。瞬間、背中に鈍痛が広がり仰向けに倒れていた。一体何があったのか分かっていなかった。

 二度目は慎重になった。最初に蹴りを見せかけ間を置かず素早く右コブシを突き出した。

 健ちゃんの体が幽かに左に反れて瞬時に征生男の腕を軽く絡めとり同時に足を払われ仰向けに征生男は倒れていた。何故自分が倒されたのか、健ちゃんの動きは掴めた。

 三度目は少し対峙した。

 健ちゃんはフワッと浮かんでいるかのようにただ立っているだけなのに、今は迂闊に手が出せない重たい圧力を感じている。そう思うともう動けない。対峙が長くなる。長くなると自分の体に揺れが起こり少しづつ激しくなりジッとしているのに息が上がってきて、耐え切れず仕掛けた。

 同じコトの繰り返しだが、この時は健ちゃんの足の動きも見えた。

 健ちゃんの全ての動きが見えた。

 突き出した征生男の腕に体を僅かに右へ捻り左手が透かさず征生男の手首を掴み右手で抱えるように絡みとり、流れてきた征生男の体の方向に合わせて捻った体位から右足がスッと出され征生男の足を軽く払っていた。

 多分、何度挑戦しても結果は見えていた。

「オレも理屈はどうでもエエ方で動きだけを覚えてきた。少林寺の理屈は置いといて、これはな、先手とか攻撃を次にして先ず受けてやるっちゅうことかな。それが瞬時に出来る鍛錬がキツイねんな。掴む握力、かわす絡めとる躍動できる筋肉の強化。見た目では目立てへん体作りの鍛錬が基本や。そやからオレが少林寺の技をお前に教える前に征生男は先ず体作りや。腕立てが二百回、腹筋も二百回、それから蹴り突き払いも二百回ずつ毎日やれ」

 それから健ちゃんは突き蹴りの基本形を征生男に見せ教えた。

「今、お前がなんぼかかってきても俺に絡め取られ倒される。それは初期の技や。その初期を教えるにも基本は体作りや。ほんで今日はこれで終わりワハハハ」

 ケンカしてきた奴等と全然違う。と言うより雲泥の差で話にもなれへん。細い長身の身体でも鍛えぬいた筋肉の盛り上がりや躍動感が伝わっていた。憧れが競り上がってくる。男の生き様そんなので頭がいっぱいになっていた。

「ヘェーッ、ほんまか。俺も教えてもらおかなぁ。エエやろう」

「オウッ一緒に行こう。カッちゃんな、今、オレの顔ドツイテきてみ」

「何言うてんねん。そんなんできる訳あれへんやんけ」

「ちゃうねん。エエから本気で来てみい」

「エェーッ。征生男ちゃんそれをかわす自信があんねんな。オモロイやんけ、ほな俺行くど」

 勝之は腰を落として両手を顔面にかざして征生男を窺う。征生男は足を少し開き両手はダラリと下げていた。

 ビユーンと勝之の腕が突っ込んできた。

 掴めた。

 勝之の右手を掴んだ瞬間そのまま身体を勝之の腕に突っ込みサッと右足を勝之の後ろに回した。

「痛いっ」

 小さい鋭い悲鳴が勝之の口から漏れた。仰向けにどっと倒れた勝之が後頭部を打ち付けないよう征生男は掴んでいた腕を一瞬引揚げたからだ。

「もう、何すんねん。あぁ痛かった。そやけど征生男ちゃん、今、何してん」

 健ちゃんに投げ続けられた。

 その中で見えたものを即座に勝之に応用できた。見ただけで応用できるはこれはほんの初歩でしかないと実感した。

「そうかぁ、ホンマやな。それはやっぱり初歩の初歩みたいやな。ほんでなもう一回同じのんは多分もう俺には通じへんな。そやけど健ちゃん何回も征生男ちゃんにやったってのは修練を積んで鍛え抜かれた体やねん。ほやから何でも二百回して先ず筋肉を鍛え言うてんねんな。俺もやるから一緒に行こう」

 

「お母ちゃん、もの凄い怒ってんねん。」

 腕組みをして窓の外を見ながら照美はポツリと言った。

 窓外からの微風にうなじの髪が幽かに揺れている。

 プリーツのスカートが良いと言ったからかこの日も照美はそのスカートだ。体を動かす度に柔らかくなびく。照美の優美がそのまま視界に拡がる。

「何で?」

「‥。うん。あの日な」

「あの日?」

「そうやぁ、あの日や。ウチが服、脱いだ日」

「うん」

「あの時な、お母ちゃん此処の窓を見ててんて」

「うん」

「そしたらカーテン閉まったやろぅ」

「うん」

「カーテン閉めて何したんやって」

「う~んっ」

「毎日、ずっとそれ言うてウチを責めんねん」

「‥‥」

 照美は静かに翻ってテーブルを挟んで征生男の前の椅子にそっと腰を下ろした。

 眩しい白い照美の素肌、ふっくらと形の整った胸の膨らみがアリアリと蘇えってきて動悸が高まる。もっと見たいと切に思う。それの何処がいけないのか。

 とも、なぜか後ろめたさも併合してくる。

 後ろめたさではなく照美と二人だけの秘め事が自分達以外の者に知れた、怯えを伴った羞恥と戸惑い。それが照美の母親であるだけに足元を救われるような不安に怯えている。うな垂れ、眼を落として思考を彷徨させたまま気持ちの行き場を失っていた。

 照美の動く気配。

 近寄ってくる。

 椅子にかけた征生男の腕に両手を乗せてそのまま膝まづいて下から顔を少し反らして哀しい眼で話を続けた。

「ウチがなんぼ何もない言うてもアカンねん。そうか言うて咄嗟にウソの話はよう作られへんやん。お母ちゃんは正直に言うてみウソついたり隠しりしたら許せへんよって、そんなで毎日ケンカや。なぁ、征生男ちゃん、怒らんと聞いてや。お母ちゃんな、そんな年下の男の子と付き合う自体変やから直ぐに止めって、さっきもの凄い勢いで言うねん」

「逢うなってことか」

「そうや」

「照美ちゃん、オレに、それを言いに来たんや。ほんでもう逢えへんねんや」

「アホやなぁ何言うてんのん。そんなんちゃう。ウチな、お母ちゃんにそんなことでけへん言うて飛び出して来たんやんか」

「そやけど照美ちゃんはもの凄いお母さん思いやん。お母さんを寂しがらしたり哀しがらしたりでけへんやろ」

「それはそうやけど、それとこれは違う。そやけど‥」

 雨が降るかも知れない。

 昼下がり灰色の雲に黒雲が迫り窓外に暗がりがどんよりと下がってきていた。

 年上、年下。

 それに意味があるのか。どうでもエエやん。周りにとやかく言われたくない。が、相手は照美の母親。しかも日頃から母親を気遣う照美。無視できない重たいものが窓外の暗がりのように気持ちにも重く宿ってくる。

「おばちゃん、オレことト嫌いなんやなぁ」

「怒らんとってな、って言うより征生男ちゃんとこの家に反発してんねん」

 狭い地域の顔役的存在の父。

 外面の良さとは反面、強引さ押しの強さで反感もあったり恨みも買っていると母の千代が時々溜息をついていたのを思い出す。

 ほんで照美ちゃんはどうすると言う言葉を呑み込んだ。

 それは、甘えと卑怯がある。男なら、男なら愛する女に決断を迫るべきでないと自分が突然大人になったような気概が働き、照美を今、強く導いていかねばと。

「しばらく様子見よう。しゃぁないやん。いつまでもおばちゃんとケンカしてる訳にもいかへんし」

「征生男ちゃん、何か落ち着いてるなぁ。ウチよりうんと年上に見えるやん」

「あったりまえや、これで結構苦労してまんねん」

「もう、ウチが真剣に悩んでるのに何も分かってへんやん」

 立ち上がり征生男の背後から両腕を征生男の首に巻きつけ抱きしめてきた。

 甘い香り、酸っぱい喉の猛り、甘味さに浮き立つ泣きたいような歓喜の渦。

 照美の腕をそっと解くと立ち上がって横の障子を両手で左右に開いた。

 六畳の部屋には箪笥が一つと右壁にベッドがあった。

 照美の手首を掴みグッと引く、強い抵抗が照美の体を逸らせた。

「寝ころがって喋ろう」

 照美を誘いベッドの上に仰向けに倒れた。

 沈黙が続く。

 征生男はポツリポツリと話し出した。

 気持ちを変えて学校に通いだしてみたらそれなりに僅かだが今までになかった新鮮な反応があった事。映画『アンネの日記』を見て自分達が知っていない処で人間の不幸がいっぱいあって今も続いていると言う事。

 もっと勉強してもっともっと色んな事を知って行きたいって。

「良かったね、そやったらウチも安心やわ」

「そうそんな可哀そうな事ってあったん。ウチもその映画観に言ってもエエ」

「征生男ちゃん頭エエし、勉強したらもっと色んな事が分かっていくよ。ウチはアホやから何も分かれへんけど、ウチにも教えてや」

 照美の優しい反応を心地よく受け止めながら、このベッドでミヨと春子と痴態を繰り広げたあの夜を思い出しまるで別世界の遥かな出来事のように思い、ヤクザ達との激闘は絶対に話すまいと誓ったり。気が付けば照美は征生男の腕枕の中にいた。

「ふふふっ」

 天井を見ながら話し続けている征生男の耳元に笑いを含んだ小さな囁きが吐息の温もりと共に聞こえて、耳たぶが照美の指でもてあそばれていた。

「耳の形ってへんやね。ふふふっ」

 体を横に向ける。

 照美の顔が間近に。黒い瞳がキラキラ輝いている。

 微笑んでいる。

 整ったふくよかな唇から息の温もりが被さってくる。

 唇と唇が重なった。

 長い長いひと時。ひと時が永遠であれば。

 

 

嫌疑

「どういう事ですか。何やねんソレって」

「まぁまぁ落ち着けや。話は最後まで聞けや」

「落ち着いてるで先生。ただアンタが訳分かれへん事言うからや。何でオレが首謀者や。何でそう決め付けるねん」

「いやぁ、まぁな、皆が中学出の奴やさかい嶋田が噛んでるって思てねんな」

「皆って誰ですか。横溝でしょう」

「そう先生を呼び捨てしたらアカンわ」

「横溝だけちゃうで、で、先生はどう思ってますねん」

「俺は嶋田を信用してる。正直言うてな担任になったクラスでお前が居るのん分かった時はこれは大変やと思った。そやけど一年までのお前の評価とは全然違うお前の変わり振りにビックリしてんねん。それはな、俺が担任やから分かるけど周りの先生には見えてへんねんな。ほんで今回もお前が裏で糸引いてんのんちゃうかって思いよるねんな」

「ケンカしたらアカン言うからしてへんねん。ケンカはするかも知れへんけどそんな小汚い事はせえへんわい」

「ほな、山口が売った本は万引きしたと思へんかったんか」

「何でアイツが万引きすんねん。おとなしい奴と思てんねん。そんなん考えたこともなかったわ」

「そうか、そやけどその時一緒やった菊池は分かってたと言うてるし、何でお前が分かれへんかったんかな」

「それってホンマですか。菊池は知ってたって言うてんですね」

「うん。そやからお前が知らへん分かれへんってのが皆の納得がいかへんねんな。ほんでその売った本の千円からお前も百円取ってるしな」

「取ってる。オレは要らんいうたのを山口が頼むからいうから別に何も考えんと受け取っただけや」

「そこがな、引っかかんねん。とりあえずコレは警察沙汰にもなったし、お前も警察に呼び出されることになってんねん。オレはお前を信用してるから絶対応援する。警察でも確り話したらエエねん」

「警察に?」

「そうやねん。山口の本の万引きだけちゃうねん。赤電話を荒らしてなカネを盗ったり、色んな店で万引きやで、それが全部中学出の奴ばっかりで学校も大変なんや」

「赤電話荒らし?万引き?」

「俺もほとほと困ってな。嶋田はそのリーダーやんけ。やっぱり睨まれんねんな。皆と仲良うしてんねんやろ」

「当たり前や、何で悪せなアカンねん。皆仲間です」

「そやなぁ、三年間ずっと一クラスで一緒やったもんな。それは分かる。そやから何でお前がそれに気づけへんかったかや」

「やっぱりオレを疑うてんねんやろ」

「いやぁ、そう言うこと言うてんのとちゃう。仲間やったら普通は気づくやろうと思ってな」

「あのな先生。仲間やけど皆クラスもバラバラや。そういつもつるんでる訳ちゃうねん。オレとつるんでた奴等はそん中に入ってへんでしょう」

「今のところはな」

「それってどう言うことやねん。先生な、オレのことを信用してる言う尻からホンマはとことん疑ってんねんやんけ」

「そうやなぁ。俺も本当は自信ないねんな。まさかと思う事がこう次々出てきたさかい、何を信用してエエか。明日になったら又別の何かが出てけえへんかなと心配すんねん」

「あぁそうですか、ほな勝手に心配しはったらエエでしょう」

「そう切り捨てなや。ほんで皆タバコ吸うてるちゅうやないか、嶋田、お前も吸うてんねんやろ」

「タバコ?。ま、吸うてます。それがどうしたんですか」

「それはマズイやんけ。お前は条件付き進学やろ。ま、聞かんかった事にしとくわ」

 

「何か征生男ちゃん、お前、はめられてんのんちゃうか」

「はめられてるか」

「そうや、はめられてるで」

「そうか。カッちゃん言うてんのん当るもんな」

「当る当らんはどうでもエエねん。問題はや」

「問題な」

「それをデッチ上げられたら征生男ちゃんを退学させられるってことや」

「退学か」

「お前な、折角ちゃんとしようとしてもな、横溝みたいなヤツは何とか征生男ちゃんを追い出したいんや」

「どっちにしろオレの影響を横溝は怖がってるねんな」

「自分の思うようにならんヤツ。それを排除しようとしてる」

「ビックリやで。中学の奴等が十人もパクリばっかりやってたって」

「アイツ等屁タレやで。ケンカなんかはようせえへん癖に影でしょうむない事ばっかりさらしよんねん」

「そやな、オレとつるんでた北村等はそんなんしてないのにな。気弱な真面目そうなヤツばっかりや」

「ほんで、征生男ちゃんがトップで影で操ってるって、どうしてもそうさせたいやん。はめるってそこへ強引に持っていきよるで」

「カっちゃん」

「うん」

「何でや。何でこうなるねん」

「悔しいなぁ」

「菊池の奴、ビビッて強要されたと思うねん。ほんで、オレまで知ってたと思うとぬかしゃがった」

「それはどうかな。はめて来てんねんど。乗ったらアカンど」

「知らんことは知らん乗る訳ない。そやけど‥」

「辛いなぁ。汚い奴等ばっかりやなぁ。そやけど負けたらアカンど」

 返事が声にならない。

 コックリ頷く。涙が沸いた。

 勝之の見開いた瞳にも潤んで雫が落ちた。

 

 千代は怒りで高ぶる心を抑制しながら地下鉄の昭和町駅を出た。

 日中の日差しには夏を思わせる熱気が淀んでいたが、昼下がり夕刻を前にして風が通りを穏やかに流れて心持涼しさが頬を撫でていく。

 引いても負けてもならないと思いを引き締めていた。

 三々五々下校する高校生達の流れと逆行して歩いている。不条理に苛立つ憤怒が急かせるのか着物の裾が時折足に絡みつく。

 どの生徒も童顔が抜け切れない顔をしている。征生男と同年の少年とは思えない。息子は人並み以上に大人びいて見えるのか。大人びたと言えば、恋人ができた。二つ年上の照美。最近は照美がよく訪ねて来ていた。

 征生男の表情に未だなかつてかった明るさが日常を占め自分もどこかで安堵していた。

 女が見ても惚れ惚れとする美人の娘に育った照美が息子へ真剣に思いを寄せている、ふと時々軽い嫉妬のようなものを覚える自分に失笑する。

 子供の誰が一番可愛いとか特に愛情を注ぐとかはなくどの子もそれぞれに愛おしいと思う。

 征生男に関しては夫の征信の冷淡さが不憫でその分の母親としての気配りがずっと付いて回った。小学校の頃はよく泣いて帰って来たり、家でも一人ポツンと何かを考えていたり周りと融合しようとはせず、そのまま成長する程に陰りは濃くなり思惟する孤独感をいつも漂わせていた。条件付進学を押し付けられ益々屈折した歪んだ心情へと傾きはしないか、それを思うと眠れぬ夜も稀ではなかった。

 そこに照美が現れた。笑顔の素敵な美人。大人として充分に輝くような容姿。

 征生男が恋するのも頷ける。

 でもまた、何でそんな娘が暴れん坊で陰りのある息子に思いを寄せるのか。増してや年下の男の子をと、不思議な気がしないではない。照美の出現で日を追って征生男に陰りが消えていくのを目の当たりに女として嫉妬している自分に気がつき失笑し、安堵の色が自分の中に広がるのも覚える。

 母として喜ばしい。

 息子が一つの壁を前にして立ち向かっている姿と、それを支え励ます美しい恋人が居る。母としては出来ない大きなものを照美は持っている。このまま高校を乗り切って大学に入ってくれればと願い続けていた。

 許せない。

 冤罪の事実無根をまた押し付けてきた。

「いやーぁ、どうも、学校としては灯台下暗しで完全に見落としていました。ご存知のように昨年の新入生の膨らみは本当に良くない者が多く入り込んで、学校はそちらばかりに気を取られてしまって、まさかですよ、子飼いと言えるような付属中学校の子供達が影でこんな事をしていたなんて。兎に角万引きが主体でそれに公衆電話を壊して小銭を全部抜くんですね。これが随分続いていたと言うから全くもう」

「学校の監督不行き届きって事ですね」

「そうです。仰られる通りです。虚を突かれたと言うか思いも寄らないですよ。学校そして私達教諭として父兄に顔向けできないお恥ずかしい立場です」

「そうなんですか。それは大変でしょう。しかし、それと征生男がどう言う関係なんでしょうか」

「ご子息にはそう言う現場に一度立ち会っているのが判明しています」

「判明?。判明と言うのは征生男が承知で立ち会ったと言うことですか」

「はい、三人の内二人までがそれを認めていまして、ご子息だけが未だに頑として認めていませんが、それは不自然です」

「貴方達は先入観だけで見ていますね。山口と言う子がお兄さんの本を売りに行くのを付き合ってくれて言うてきて、征生男もついでに本を探したいと思い一緒に行ったのですよ」

「それに無理があるのですね。山口が洋書を万引きして菊池とご子息と一緒に古本屋へ売りにいって、その本は千円で売れて山口は菊池とご子息に百円ずつ分け前として渡してるんですよ。で、ですね。菊池は盗んだ本やと言うのを感づいていたと言いました。で、ですね、自分が感じたから嶋田君も感じたやろうとも言いました。そしたらですね、やっぱりオカシイでしょう」

「何がオカシイのですか。何一つオカシイことはないでしょう。征生男本人が知らなかったと言うてるのですよ。征生男をむしろその時どうしても探したい本があって必死に探してたけどなかって、ガッカリしているところへ山口君がお礼と言うて百円出してきて、最初はそんなん要らんと突っ返したけど山口君がどうしてもと言うから軽い気持ちで受け取っただけです」

「まぁまぁ、親御さんの眼からはそう見られるのは充分理解できます。無理からぬことと思います」

「貴方ね先生、親やからこそそう思うのですよ。確かに征生男は暴れん坊でよくケンカ騒ぎも起こしていました。ですけどね、そのケンカも上級生とかの年上や相手が多いとかでしょう。要するに卑怯な事が大嫌いな子です。そんな征生男が万引きを知って黙ってる子ではありません」

「はいはい、そう言う感情を抱かれるのもよく理解できます。嶋田君は非常に利発な生徒と言うのは私をはじめ学校の者全員が認めるところです。ですから、菊池が感じた位は彼なら当然感じていたと思いますし、むしろ、一連のこの事件が嶋田君と一緒の付属中学出の生徒達が主流です」

「ですから?」

「ですから、その生徒達はいつも嶋田君をリーダー的に見ている仲間です」

「ですからどうなんです。遠まわしに仰らないでハッキリ言われたらどうです。征生男が首謀者で皆を動かしていたと」

「ううん、まぁ、そんな見方もできますね」

「出来るじゃなくて、貴方方はそう決め付けて見ているでしょう」

  落日が真横から窓を染めている。

  粘っこい光が室内を怠惰に照らし教頭の禿頭に反射し錆びた光沢が浮き上がって、まばらに伸びた髪の不潔さが醜くく映り哀れにさえ見える。

 この人は征生男の個的なものを一切考慮せず、ただ学校の存続しか考えていない。体裁を整えるのが全ての事かかれ主義で生きてきた人なんやと千代は痛感させられていた。

 こんな人に何を話しても無駄と分かりつつも、学校では一応権限がある人と認識して迫っていく、引けない引いては全てが取り返しのつかない事態になる。

 征生男の将来がかかっている。親として胸を引き裂いても座視は出来ない。

 耐える事の多かった自分の人生に闘う気迫が憤怒の中から漲っているのだ。だから夫の征信にも迫った。夫に迫るとか逆らうのを耐えて忍ばせてきたが憤怒がその殻を破り挑んだ。

一昨日の征信とのやり取りが浮かぶ。

「今度だけでは貴方も一緒に行って下さい。女の私だけで全て侮られてしまいます。貴方がどんなに征生男に冷たくても、征生男が卑怯なことをするような子でないは分かっているはずです。それを学校に一緒に行って仰って下さい。そうでないと冤罪を着せられたまま退学処分になるのです」

「お前が甘やかすからそんな恥さらしになるんじゃい。俺にその恥の上塗りをせえって、何考えさらしとんじゃボケ。自分でケリつけんようなガキやったら退学になろうがどうなろうがしゃぁないやんけ」

「何を言うのです。退学にでもなって次の学校が決まれへんかったら大学にも行かれへんのですよ。そうしたらあの子の将来はどうなります」

「アホかお前は。大体お前は大学大学と言い過ぎるんや。大学なんか行かんでも男は立派に生きていけるんじゃい。俺もお前も小学校しか出てへんやんけ」

「時代が違います。それに貧乏で小学校に通うのにも大変やった私らはそれなりにやっぱり苦労してきました」

「苦労せなアカンねん。男は苦労してのし上っていくもんや。学歴なんかとちゃう。根性や。根性があったらどないでもなる」

「正紀の時はあれほど大学へ行くことに熱心やったのに征生男には何でですか」

「アイツは優秀で自分でも努力したし、それにお前との間では長男ちゅうのもある」

「形と中身が違いますけど、征生男は征生男なりに頑張って努力してるんです」

「ふん。俺にはあのガキがそんな風に見えへんわ。俺に逆ろうてばっりしやがって根性がネジ曲がっとる」

「それは貴方があの子に父親としての愛情を見せないからです」

「何いーっ」

「何であの子をそんなに嫌うのですか。皆同じ子供でしょう」

「そうかな、同じ子供かな」

「どう言う意味です。やっぱりそれですか。貴方という人は情けない。自分の考えの狭さにいつになったら気がつくんです」

「考えが狭いやと。アホんだら何ぬかしてけつかんねん。俺の目は節穴ちゃうど。弟の徹のガキにそっくりやないか。その証拠に俺が復員して間もなしに徹はたった一人で馴染みも知り合いもない新潟へ逃げさらしよった」

「貴方と徹さんは兄弟で顔も良く似ているのです。征生男が一番貴方の顔に似ています。血が繋がっているから徹さんにも似ていてどこがおかしいんですか。徹さんは貴方が復員して帰ってきて安心したからこそ自分は新天地を求めたんでしょう。それでも毎年貴方に会いに帰ってきてるでしょう」

「毎年帰って来るのは俺だけに会う為でもないやろ。そうしていつもお前は徹の肩を持つ。それが一番おかしい。俺も過ぎた事やから目を瞑ってきてるが、俺に逆らう根性も顔つきも徹にソックリやと思うと胸糞悪いんじゃ。それでもこうして育ててきてやってるやんけ」

「どこが育ててきたんですか。いつもあの子だけに冷たいし小遣いもあげないで他の子と差別して、私は母親としてそれで今までどんなに辛い思いをしてきたか貴方には理解できないでしょう。そやけどそれはもう良いんです。今はそんなことはどうでも良い。今、親としてあの子を守ってやって下さい。どうか今度だけはどうぞ父親らしく振舞って下さい」

「俺が父親らしくないちゅうんやな。ようぬかしたな。お前一人が征生男を育ててきたちゅう訳か」

「それはもうどう取られてもかまいません。征生男は二年生に上がってから打って変わったように勉強も始めました。以前は家に帰るのも遅かったのもこの頃はとにかく早く帰ってきて殆ど勉強ばっかりしています。真剣に受験の事も考ていると思います。それが、やってない事をやったと冤罪を着せられて退学でもになったらどうなると思います。あの子がそれで気落ちして、と言うか社会も大人も信じられないようになった時、それを考えるだけでも私は怖いのです」

「男の価値と言うのはな、苦境に立った時にどう立ち向かって行くかや。そんな試練を乗り越えられる根性があって男の価値ちゅうのが出来てくるねん。お前みたいに甘やかすだけ甘やかして取り越し苦労ばっかりしてもアカンのや」

「貴方は卑怯です。男、男と言うなら父親としての男を見せたらどうですか。面倒な事にただ逃げてるとしか思えません。もっと征生男の将来を真剣に考えて下さい」

「コラーッぼけ。調子に乗ってほざいてたら承知せんど」

 征信は座卓に両手を突きバッと立ち上がった。

 目をカッと見開き鬼のような形相で拳を握り締めその巨体で千代を威圧した。

「承知せんてまた殴るんですか、蹴るんですか。どうぞお好きに。そんなんが怖いと思ってるんですか。そやから征生男にも憎まれるんですよ。征生男だけちゃうでしょう他の子も怒るでしょう」

 千代とて怯まず正座したままキッと夫を見上げた。

「そんなにあの子が憎いんですか。いいでしょう。それも承知いたします。それでもね貴方の息子です。その息子が冤罪になろうとしているのです。それはつまり貴方の沽券にも係わるんと違いますか。みすみす卑怯な学校の思う壷に嵌ってもいいんですか。貴方が出て行ってハッキリ言えば学校の態度も翻えるし翻してみせるでしょう。そしたら征生男の心も貴方に近づくでしょう。お願いですからどうぞ一緒に行って下さい」

 千代は三つ指で深々と頭を下げ畳につけた。

 遠く車のエンジン音が幽かに聞こえ、通りで遊ぶ幼児達の甲高い声も聞こえてくる。

 子供達は皆学校に行っていて家には自分達夫婦だけ。

 外の音は聞こえるものの家内は柱時計のカチカチという小さな音がするだけで妙に重い静けさが垂れ下がり、それが果てしもない絶望を送り込んでくる。

 何としても征信を動かさねば、諦念がふと頭をもたげてくる。畳の目が悲しい程ハッキリ見え秩序正しく編みこまれている。吸い込まれるように凝視しながら人の世の不条理に舌を噛む辛さを必死に耐えていた。

 突然、脇腹に衝撃を受け体が横倒しになった。

「エエ加減にさらせ、征生男を甘えかすな。恥の上塗りにノコノコ出て行く俺とちゃう。気が済めへんかったらオンドレが好きにさらしたエエんじゃ」

 吐き捨てて征信は荒々しい足音を残しビシャッと玄関の戸を閉めて出て行った。いつものように加減のない蹴りが脇腹で鈍痛を生んでいた。

 痛い、それはどうでも良かった。

 涙が止めどと流れる。

 征生男は絶対何もしていない。確信はそこだ。無実の罪を着せられようとしている。

 それは在ってはならないし絶対阻止せねば。状況的に不利であるのも充分承知している。

 今回は横溝も担任の入江も出てこない。いきなり教頭が現れた。冷淡な状況分節と報告だけには情を絡ませない教頭が適任なのかもと思う。だからこそ、理を諭し訴えていけば分かってもらえると思った。

 照美の輝くような柔和な笑顔が浮かんだ。

 あの子のお陰もあるんや。それでも、退学にでもなったらあの子の笑顔も効かなくなるだろう。

「私共としてはですね、何よりも本人の言うのを一番に考えます。お母さんが仰るように征生男君は確かに二年生になって問題も起こさず授業態度も良いと担任の入江先生からも報告されています。私もこれといって特に征生男君に詳しい訳ではありませんが、まあ、我校の生徒の中では有名なので注目する度合いも他の生徒達より大きいのは事実です。

 その私の目から見ても嘘をつくような生徒とは思えません。ただ、これはもう被害届も何件も出て警察が入っています。そうなると警察の調べを待って今後を考えないとあきませんな。

 ふーん、何しろ、、子飼いとも言うべき付属中の者ばかりが吊るんで集団犯罪をやらかしてるんですわ。本当に頭の痛いところです。警察がどんな結果を出してくるかで、本人達の将来にも影響するでしょうし、学校の名誉も崩れてしまいます。で、係わっていないとしても、ご子息は彼らのリーダーでもあり中心人物でもあって非常に不利な立場ですな。

 立場上忌憚のない言い方をしますと、私は学校の名誉も大事です。ここは事実を確りと見て冷静に判断させて下さい。もちろん、お母さんの真摯な訴えを決して無下にはいたしません。

 とりあえず、今は警察からの結果を待つしかありません。ご心労は充分ご察し申しあげます。大変で辛いでしょうがお互いしばらくは心静かに待ってみましょう」

 

「ふんふん、ちゃんと素直に応えてくれるからワシ等も話しやすいんやけど、そやからワシも忌憚(きたん)なく言うんや。売った本で君と菊池君が百円ずつもろうてやな菊池君はそれを盗んだモンと感づいていた訳や。

 んでな、嶋田君はそれを知らんと言う訳やけど、これはな知っても知らんでもカネをもろた以上は共犯ってことにもなるねんな。ま、そやけど犯意なき犯行は罪にならずやから知らんかったらそれまでや。君の言うのを信用せん訳ちゃうんやけど、やっぱりな客観的に見て感づけへんかったってのはちょっと納得でけへんねんな」

「知らんもんは知らんとしか云いうないでしょう」

「征生男ちゃん負けたらアカンで」

勝之の声が脳裏に響いた。

 怯えも萎縮もない、肌がカサカサする白々しさで対座していた。

 初めて警察の内側に入った。取調室と言う部屋。机が一つ。両側にスチールの折り畳み椅子。私服の刑事が机を挟んで目の前に座っている。

 黒縁のメガネをかけ小太りの中年男。メガネの向こうの目は閉じているように細く涼しげでもあり温厚な感じも伺える。それがどこか鼻持ちならないものも漂わせていた。その脇に顔も細い体も細い眉の濃いつり目の若い私服が腕を組んで立っていた。

 全開した窓には鉄格子が圧するように塞ぎ込んでいた。そこを午後の気だるい陽射しが斜めに眩しく浮かんでいる。灰色ってこんなものかと壁と天井、床を無感動で曖昧に視野へ納めていた。

 聴かれるままに淡々と短く答え続けていた。それでも揺らめく苛立ちが時の流れの中で小さく育ってきている。拭えない理不尽さが容赦もなくピリピリ無数に突き刺さってきている、それでも耐えなければ今はどうしようもない諦観で鎮座するように耐えていた。そこに苛立ちが生まれ制御して白々しさを抱えたまま目の前の刑事の在り様をつぶさに捕らえていた。

 ネクタイを外したカッターシャツの襟に汚れの染みが浮き立たっている。捲くした袖口にも汚れの染みがクッキリ浮かぶ。全体の冴えない感じが汚れた澱みの中で不敵で不動の強靭な厚みを無言の中にもじわっと押し出していた。普通なら抗えないないのかも知れない。征生男には作為すものも繕う嘘もない。

 怯まず淡々と対峙さえすれば良いだけで、どんな風に相手が展開しようとも自分は自分であれば良いのだ。ワザとい笑顔が人の良さそうに見える裏に禍々しい執念のようなものが潜んでいるようで心は許せないと見た。

「ふん。まあそうやなぁ。知らんもんは知らんや。山口君がな売れたら分け前を寄こせって嶋田君が言うた言うてんねん」

「はぁ?」

「ま、そんなことをな。んでぇ、菊池君も同じようにそんなん言うてんねん。これってどう思う」

「オレは自分が見たい本を探したかって、ただ、」

「ただ?」

「山口に売れたら珈琲の一杯もおごれやって軽くは言いました。それを百円も渡してくるからそんなん要らんって断ったけどアイツどうしても言うさかい、ま、珈琲が五〇円でその倍やけどエエかと軽い気持ちでもらいましたがね、分け前って言われたら心外です」

「そうっかぁ。珈琲一杯が山口君も菊池君も分け前ととったんやな」

「それって、こじつけちゃいますか」

「ふ~ん。こじつけか。君は番張ってリーダー格って言うやないか」

「番は張ってたかも知れへんけどリーダーと思ったことはないです」

「うん。杉田とか畑山ちゅうのも仲間か」

「仲間です」

「嶋田君は仲間が多いようやけどどんな仲間なんや」

「それは、なんせ中学校は三年間ずっと一クラスやったから皆仲間みたいなもんです」

「彼等も皆も言うのにはリーダーは嶋田君って」

「リーダーなんて思ったことはないです」

「ま、聞くところによると一年生の頃に仲間の全員を坊主頭にさせたとか」

「全員?数人です」

「その時、君が鋏で直接髪を切ったのが数人やけど後で見習って結構の仲間が坊主頭にしたって聞いてんねんな。それをどう思うかな」

「別に何も、オレに同調しただけでしょう」

「何人かが言うてたけど、同じようにせな君にドツカれるかも知れへんからイヤやけど怖いから坊主にしたってな。それはもう立派なリーダーちゃうか」

「何か、オレがリーダーやって認めたら都合のエエ事があるんですか」

ネチネチと吸い付いてくる。生理的な不快感でイラつく自分に強く牽制をかけて理性的であろうと耐えている。

 一体、仲間の多くが警察でオレをどう言うていたのか脳内で必死に探りを入れてはみるものの皆目見当もつかない。何かを聞き出そうとこの男はネチネチ迫ってきているのだ。それにしても征生男には在るがままを話すしかなかった。

「山口君、菊池君それに杉田君や畑山君や他の仲間もそろって君を恐れてるようにみえるんやな。一連の事件の核心がそこで塞がれてるんや」

「誘導尋問や」

「どういう事かな」

「オレ、誘導尋問ってのんを聞いたけど、それって誘導尋問そのものやないですか。杉田や畑山等が公衆電話を荒らしたのもオレに結びつけようとしてるんや。エエ加減にして欲しいわ。学校でもそんな目で見られてるし」

「学校でもそう思われてんのか」

「オレは学校では番を張ってるって皆が思てるし、オレ自身も、まぁそんな気でいました。ケンカばっかりしてたけど、卑怯な事や誰かを脅した事なんかあれへん」

「嶋田君な、ワシ等に伝わる中では君の言うようなもんがないねんな。君が怖いから従うとか、君に睨まれへんようにしているとか、まぁ言うなれば君に気に入られるようにやってたって事かな」

「そんな、オレの知ったことですか」

 突然ドンと鋭く机を叩く音にハッと一瞬緊張が走った。

「コラーッお前、舐めくさんなよ。なんやさっきから聞いてたらのらりくらりとええっ、高校生の癖に何処でそんな覚えて来てん。警察慣れしてやがるし、ぬかすことがさもありなんやんけ。番長って皆を脅して本は盗ますわ電話は荒らさすわ皆お前が指図したのはちゃんと分かっとんじゃい。素直に吐きさらせ」

 一瞬の緊張が弾けて頭に血がカーッと上る。それまで静観して腕組みをしていた若い刑事が机に両手をバーンとついて屈み込み怒鳴りながら巻くし立ててきた。目の前の刑事は瞼を閉じ鷹揚に首を立てに数度振った。

 怒りが血を逆流させ炎のように渦巻き、猛りで視界をチカチカと激しく揺さぶり異次元に突入したような高ぶりで凶暴なものが迫り上がってきた。

「オレがいつ何処で皆を指図したちゅうねん。誰がそんなんぬかしてん。何か証拠あるんかい。在るんったら言うてみいや。オレはなやった事はやったって言う。やってないもんはやってないんじゃ。お前の脅しなんか屁でもないんじゃい」

「コラァ、ガキ、なかなか息巻くやんけ。舐めさらすなよボケッ。お前等ガキの下手な嘘を丸呑みするほどこっちは甘もうないんじゃい。ドイツもコイツもお前がリーダーや言うとんじゃい。貴様がなんぼシラを吐いても周りはちゃうんじゃ」

「ほんだら、誰がそんなこと言うとんねん」

 若い刑事の激しい恫喝に煽られ征生男の感情も怒りで高ぶり大声を張上げていた。

「このガキャー利いた風なことぬかしやがって。誰が何を言うたなんて俺等が言うと思とんかい。何やお前、誰が何を言うたって分かったらそいつをドツキに行く魂胆でおんねんやろ」

 体が動いた。

 立ち上がりざま右手で座っていた椅子の背を掴んでいた。掴んだ瞬間に若い刑事に叩きつける、はずだった。

 退学、脳内にその言葉が爆ぜた。出来ない。

 悔しさが駆け上り胸を圧して呼吸が止まる。胴震いが一瞬起き、椅子を握ったまま棒立ちになり、硬直した体の隅々へ悔しさが電流となって駆け巡り激怒で眼球が飛び出しそうになる。猛る怒りと悔しさで若い刑事を睨みつけていた。

 目は瞬きもせず燃えるように見開き熱気が立ち上っていた。その目から熱いものが頬を伝う。

 怒りが、悔しさが滴り落ちている。

 心なしか若い刑事が怯むように一歩退いた。

 若い刑事も言葉を呑んで征生男を強く見据え対峠する。

 征生男の目には刑事の姿が霞む。

 激怒と悔しさで潤む瞳に視界は歪んで、誰に何に激怒し恨むのか瞬くような短い時間の流れの中で思考が複雑に絡んでいた。

 若い刑事の恫喝ではない。誰かが、何処かでオレを嵌めている。保身の為にオレを売っている。見えない人の穢い心が寄り集まって裏切りにあっている。

「嶋田君、座れへんか」

 対座している年配の刑事が穏やかな声をだした。目が包み込むように和んでいた。

「な、丸山君。もう、エエやろう。この子の目は嘘をつく目とちゃうな」

「はあ」

「嶋田君、座れや。俺等も君の事はよう分かった」

 

 何でも良い何処でもよい、この道でもよい、

 ただ日田すら駆け抜けてみたい。

 陵辱され続けた時間の後に吐き出せ切れなかった憤怒の残像を走る事で自ら全身を極致にまで酷使させ発散させたい衝動を抑えて歩く。

  夏を伺わせる日差しがオレンジ色を湛えて斜めに降り注いでいる。

 三津寺通りの午後は気だるく西日が粘りつく暑さを空気に沈殿させて汗をジワッと呼び起こし不快さが肌全体を被う。

 狭い路地へ車が断続的に押し込んでくる。

 開幕前の舞台を開幕に備えて走り回る裏方にも似て、後数時間もすれば息が吹き込まれて怪しく蠢く歓楽街の身支度に車も人もいそいそ移動している。

 この道を走り抜けるのには無理がある。灯りの点いていない看板やネオンが命を抜かれた無機質の屍のように景色を殺して視野に入る。 南警察を出て直ぐに南に折れて三津寺通りまできた。三津寺通りを西に向かい心斎橋筋を横切ると御堂筋に出る。

 御堂筋を向こうに渡り更に西に進み四ツ橋筋に出ようと征生男は決めていた。

 そこから大正橋の橋詰まで走っていこう。

「嶋田君、座れへんか」

 中年刑事の穏やかで包み込む一言に昂ぶった思いが突然覚醒して全てが萎えて戦闘意識が拡散してしまった。警察を出て歩きながら反芻する。

 あの温情を込めた中年刑事の一言が汚物の臭気ようで嫌悪感が背筋を這い上ってくる。

 したり顔、温厚、大人。

 反吐がでる。

 終息を曖昧に呼び寄せ穏やかに始末していく情念を消した冷ややかな結論に、始まりから終わりまで相手方の思惑のまま翻弄(ほんろう)され続け、温情の一言で放り出された陵辱の不快感が唾を吐き続けても消せない悔しさでキリキリと胸中で疼く。

 ならばいっその事あの若い刑事と激しく渡り合ってた方がスッキリしていたかも。自分の意思とは関係のない他人の意思で乗せられ激昂させられアッサリ終結させられた。事なきを得ようと自ら挑んだ。結果としてそれは達成されたから敗北感はない。

 だからと言って勝利感なんて微塵も沸いてこない。

 事の始まりから理不尽で、関知しない他人の思惑で夢想にもしていない予想外の事件に、その中軸であるかのように有無を言わされず強引に引きずり込まれ、無用な闘いを強いられた悔しさには勝利感はなかった。残ったのは暗い懐疑と多少なりの怨念であって、仲間と思っていた奴等への不信は際限なく拡がっていく。

 落ち込んでいく自分の姿を悄然と見ると、哀しい自己の姿しか見えない。

 人の繋がりって何なのか、上辺だけの蓮っ葉な関係を友とも仲間とも思い続けていた自分が軽率であったのか。或いは本当にあの刑事が言ってたように殆どの仲間が友が心底自分を恐れていたのか、いや、そんなはずがない。

 老獪な刑事の操る誘導尋問の虜になって心や意思とは別に事件の外枠を別物として仕立て上げられていた可能性もある。

 としたらその意図は何で何処から生まれてきたのか。

 高校生のケンカ、恐喝、窃盗が巷で横行している。

 刹那な欲望で殺伐と荒んでいく同世代の群れ。学校も警察もそんな群の撲滅に躍起となって見せしめの血祭りに挙げられようとした。では、何でそれが自分であらねばならないのか。そう思うとそこからまた新たな憤怒が迫りあがり更に胸をキリキリ疼かしてくる。

 心斎橋筋の手前で軽トラが遠慮勝ちに押し入ってきた。道の脇に体を移動させて避ける。酒屋の配達の軽トラ。軽トラをやり過ぎ西へ歩をとる。

 右の三階建ての旧い薄汚れたテナントビルの地下から一人の男が階段を上がってきた。

 アロハシャツに黒いサングラス。両手に包帯を巻いている。

 数メートル先。征生男は何気なく視線を向けた。

 男もこちらを見た。その瞬間、男はビクッと体を硬直させた。何故、訝しく更に視線を浴びせる。一歩後ずさる男。

 ツーンと冷たいモノが胸を横様に切り込んできた。

 あの時、石を投げてきた男。最初の格闘で髪の毛をむしり取った奴。

 おもむろに歩き通りを横切り男に近づく。男は硬直しているのか動きがない。征生男は男の前に立った。不透明なとてつもない怒りが迫りあがっていた。

 そのままサングラスをむしり取る。ビクッと一瞬、男は胴震いした。サングラスを外された男の眼は空ろに何かを哀願している。

 言葉の無い対峙、冷笑に歪む征生男の頬。

 狂気を猛らす暴力の意思。

 バシッと派手な音が弾けた。

 渾身の張り手が男の頬を打った。男がよろけた。よろけたところを透かさず征生男の蹴りが男の腹部に鋭く重く切り込んでいた。ドスンと尻餅をつく鈍い音。

 包帯。両手の包帯が午後の陽射しに白く輝いて惨めさを浮き立たせている。

 白い包帯に征生男の靴の爪先が跳び的確に入った。

「痛いーっ」

搾り出す小さな悲鳴。征生男の靴底が包帯を踏んづけジリジリとねじ込んでいく。

「いったーい。止めてくれー」

 哀願が凝縮して枯れてくぐもった呻きが絶望の雫となって滴り落ちた。

 駆け抜けて極限まで駆け抜けて体を痛めつけて陵辱の無念を発散させたかった。悔しさからの憤怒が心を空ッカラに乾かし冷厳な狂気が膨らんで暴力に変わった。

 暴力に変わった瞬間狂気が猛り、自分の体を極限に痛めつけるのも、猛った狂気で暴れまくるのもそれは同意義だと、猛りの中で何故か冷淡に見据えていた。

 抵抗も反撃の意思も喪失した汚らしい蛆虫。蛆虫は踏み潰すしかない。

 地下の階段から複数の足音がした。

 デブが上がってきた。続いてエナメル男、そして瓶男が狭い階段を億劫そうに上がってきた。階段を登りきって正面に征生男が居た。デブの眼は征生男を捉えた。瞬間、眼は白目が逆転しそうに見開き、続いて足元で両手を押さえて恐怖に引きつる男を捕らえた。

 デブの顔が引きつり驚愕を露に見せていた。

 巨漢のデブの後ろでエナメル男が階段の手すりを握り絞め凝視したままと止っていた。

 暑く絡みつく午後の陽射しが斜めに射し込み地下の階段の頂点で光と影を別世界に分け、影に隠れたエナメル男の表情は判別できない。光をまともに受けたデブの額にはしとどと汗の粒が流れ落ちる。

 言葉の無い沈黙の僅かな時間、緊迫と驚愕で光と影が全てを停止させて粘っこい暑さの中で冷たい白黒の画像を浮き立たせていた。

 征生男はデブの前に一歩出た。

 ピクッとデブは体を僅かに律動させたものの棒立ちのまま停止して眼だけが異様に見開いている。両手の白い包帯が痛々しく哀れで惨めで。

 ニヤーッと征生男の冷たい歪んだ笑い。それに迎合した引きつった笑いが頼りなくデブの顔に現れる。

 ズキンと鈍い音。

 征生男の右拳が水平にデブの顔面にめり込んだ。

 仰け反るデブ。両足がユラッと揺らめいた。

 征生男の右足の膝が垂直に上がって前に鋭く伸びた。デブの腫れ切った腹にドスッと叩き込まれ、デブの体はそのまま仰向けに後ろへエナメル男の前に勢いよく沈んだ。エナメル男は咄嗟に両手で受けたものの巨漢の重量を支えきれず将棋倒しとなってドドドズンと三人が固まって下の踊り場まで落下していった。

 ワーワー痛い痛いの悲鳴が狭い階段の空間に鋭く響き渡り三人が狭い地下の踊り場で無様に折り重なりのたうつち蠢いて呻き続けている。

 惨劇は滑稽な喜劇と転じ無様な三人を眼下にとらえ冷笑が消えない。冷笑の中で冷静な思考が、この騒ぎを、ハッとさす危険を感じた。

 組事務所、かも知れない。でなくとも、それに近い彼等の溜り場と言うこともありえる。

「どないしてん」

 地下の奥で別の怒鳴る声が響いた。

 恐怖で固まった足元の男を尻目に征生男は迷うことなく身を翻した。

 素早く巧みに人と車の間をすり抜け、心斎橋筋の人の群れを強引に横切り御堂筋に出た、 信号が黄色を見せていた。そのまま走り抜けた。そして走る。

 ビルの谷間の路地。駆け抜ける、走る。

 四ツ橋筋を超えなにわ筋、そこで赤の信号に引っかかり左に折れ走る。

 遭遇したヤクザ達に思うざま怒りを凶暴に叩きつけた。

 不条理と暴力は姿を変えた同型で、それに叩きつける暴力は正当化される。

 そう思って狂気のまま叩きつけたのかどうか、結果としてはそれで自分を正当化できてあんな奴等は殺しても構わない論理が征生男を平然とさせていた。

 発散した暴力の後、心は平成に戻り走るのを止めて悠然と歩いていた。

 千日前通りの桜川の交差点に辿り着いた。

 先ほど制裁を加えたヤクザ達との先日の公園での格闘が蘇える。

 すると金本組の人達がなんとも懐かしく脳裏に輝いてきた。金本社長、前田さんに岡本さんに無性に会いたいと思う。一方で、照美の顔が浮上してその後ろで勝之の笑顔がせり上がってきた。

 

 ルニーの斜め向かい、映画館の対面にスマートボールの店があった。前面ガラス張りの店は中の様子が全て見える。直ぐに照美の姿をとらえた。

 俯き加減に働いていた照美がスクッと背筋を伸ばして戸外に視線を送り当り前のように征生男の視線と絡んだ。 僅かに飛び上がり爆ぜる笑顔。

 掻い潜る、駆け抜ける、飛んでくる。

 スマートボールの台の中の狭い通路。他の従業員の脇を体を斜に捻り鮮やかにすり抜けて出てきた。

「征生男ちゃん!」

 眼が輝き眩しく光る。

「エエんか、そんなに直ぐ飛び出してきて?」

「気にせんといて、何もすることないねん。ただ機械の前に立ってるだけで殆ど何もする事がないねん」

「そうなんや。ほんで何時に終るん」

「六時やから後一時間ほどや。終ったら征生男ちゃんの家に行ってもエエ」

「うん、そやけどカッちゃんとも会うし停留所で待ってるわ。ほんで何か喰いに行こか」

「エエやん、行こ行こ」

 三人で大運橋の停車場からタクシーに乗った。

 照美を連れた三人で地元はどうもなと、皆の意見が一致して泉尾商店街のお好み焼屋に行くことにした。

 市電の永楽橋駅の手前でタクシーを降りた。

 工場の密集した大正区の南詰め、恩加島町(おかじま)、船町地区に向かって大正区の入り口から大正通りは産業通りでもあって大型のトラックがひっきりなしに往来している。

 流石に夕方の六時を回ると数は減るが減っても深夜、明け方まで断続的にトラックは行き交う。

 永楽橋は大正区の中心的な位置にあってアーケードを完備した泉尾商店街が南北に長く続いていた。商店街から少し離れた処には二軒の映画館があって封切館として区民の集う場所でもあった。それでも大正通りの両側はミナミのナンバ辺りからはローカルな感じは隠せず殆どが平屋か二階建ての建物が軒を連ねていて人の往来もまばらだ。

 空は未だは明るい。茜が射すのは間もなくだろう。

 勝之が先頭で歩いて通りを左に折れた。

「征生男ちゃん、何か明るい顔してんやん。警察で上手いことやってきたんか、それとも照美ちゃんと一緒やからか」

 両手をズボンのポケットに突っ込み前屈みに頤をだして体をユラユラさせながら振り返り勝之は声をかける。

「ウチなんかよりカッちゃんと一緒やから征生男ちゃんは嬉しいんやで」

「嬉しいこと言うてくれるなぁ。照美ちゃんのそんなとこが優しいんやな。俺だけやったらコイツこんな安らいだ顔してへんて」

「ほな、カッちゃんとウチが一緒に居るからや」

「俺はな征生男の事はよう分かんねん。普通でも何かいつも真剣な顔してんねんな。そやけど今日の顔はスカーッと爽やかな感じがすんねんな。俺等と一緒ともう一つ何かあるねんな。ちゃうか征生男ちゃん」

 もう一つ何か、何かな。

 警察では苦渋と陵辱を味わった。

 スカーッとしている。一方的に蛆虫を叩きのめしてきた事か。それは照美には言えない。そんな自分を照美に曝したくはなかった。

 何故、曝されないのか。暴力的な自分を見せたくない。それだけか。違う。

 照美を心配させたくない。憂鬱にさせたくない。

 明るい優しい笑顔だけが欲しい、多分それが胸中で大きく作用していると思う。

「カッちゃん、そのお好み焼屋ってまだかいな」

「直ぐそこや。商店街の右に曲がったとこや」

 ミヨに連れられて行ってメチャ旨かったし、感じのエエ店やから今度一緒に行こうと勝之が誘っていた。

 障子の窓の下は焼き板で壁を被い、障子の外は竹を嚆矢に編んで、入り口の戸は厚い重量感のある板を使い上部はやはり障子と竹で飾っている。障子の和紙から漏れる内の灯りが曖昧な淡い光を浮かべ幻想的な趣を演出させていた。

「いやー何か、ほら、こないだ行った京都にあるような店やんか」

 照美は両手を口に当て振り返って内緒ごとを話すように眼をクリクリして囁いてきた。

 鉄板を敷き詰めたカウンターと仕切られたテーブル席が三つ。時間が早いのか客は未だ居なかった。奥ののテーブル席を陣取った。

 勝之がとりあえずビールを注文する。

「こらこら、未成年諸君。お酒はアカンのんちゃいますか」

 照美がおどけ顔で肩をすくめて小さく囁く。

「俺は社会人やで、ほんで征生男ちゃんも私服やし、何処から見ても大人や高校生に見えるかいな。おねえちゃん、硬い事いいなはんなハハハ」

 勝之もおどけて返す。

 大瓶のビールとコップが三つ運ばれてきた。

「スペシャルとイカ玉と豚玉」

 勝之が勝手に注文した。

「カッちゃん、スペシャルって何?」

 照美が好奇心いっぱいと言う感じに瞳を大きくした。

「えぇと、タコとホタテと海老にイカ、豚が入ってんねん」

「ほんだら、それを三つにしたら良かったのに」

「いやいや、ま、それが俺らの懐具合では贅沢かとね」

「何言うてんのん。ウチが出すやん」

「あっ、それこそ何言うてんのんやら。俺等男子、女にはカネの面倒かけへんで」

「何偉そうに言うてんのん、ウチは年上やで年下の男の子に面倒見させへん」

「へぇ、照美ちゃんはそんならオバハンでっか。若いキレイおねえちゃんと思うとったのにな」

「オバハン、イヤやな今オバハンになりとうないなぁ」

「そやから、オバハンちゃうし、俺等男やし、それにな三つ別々の味を楽しむのんてエエやん」

「征生男ちゃんは何で黙ってんのん。ウチはオバハンか?」

「あっ、オレに振ってきよった。んな訳ないやん」

「もう、何か気が入ってませ~ん」

「まぁカッちゃんの言う通りしよう。照美ちゃんが何ぼ働いてもペンキ職人のカッちゃんの稼ぎには負けるし、オレかってバイトして親の脛かじりでちょっととはカネもあるし、そこへきたら照美ちゃんは給料の何ぼかを家に入れてるやん」

「何か面白うないな、そんな冷静に現実を喋られたら」

 照美が肩を落としてうな垂れる。

「ホンマや、征生男ちゃんは固い話ししかでけへんねんから、ワイ等男に任しとってや。ガキやけど男を立てさせてや」

「うん、分かったわ」

 ニコッと笑顔を輝かして照美が勝之を見た。

「何とかやったって訳や」

「何とかなぁ」

「当り前ちゃうん。征生男ちゃんは何にもしてないもん」

「照美ちゃんの言うと通りや、征生男は何もしてへん。そやけど周りはそう思えへんねんやな」

「そしたら周りが悪いんやね」

「そうや。周りが悪いねん」

「そやけど何でそうなんのん」

「何でやろぅ。征生男が目立ち過ぎるかもな。それはエエも悪いもやけど」

「何が悪いん。悪いって何処が悪いん。それがどう目立つのん」

「う~ん、、、自分を崩せへんねんな、ほんで反抗してしまう。反抗したらとことん行くやろう。う~ん、上手いことよう言われへんな、今言うたはエエ面ちゃうかな、喧嘩かな、喧嘩に勝ってしまうんやな、勝ったらワル扱いにされてまうねん」

「ホンマやなぁ、、、。征生男ちゃんがケンカしたと聞くともう胸がキュッと痛とうなってケガしてへんかな大丈夫かなとメッチャ心配なんねん。そやけどこの頃は何もしてないし安心してねん。そやのに何で過去のことを持ち出して変な疑いかけるんやろう。それが納得いけへんわ」

「心配せんでエエねん。今日で警察は一応オレの言い分も分かったやろうし、警察が何も言えへんかったら学校もこれ以上疑う事もないと思うし」

 征生男自身、ケンカの全てや経緯を照美に話した事はなかった。

 ケガが見つかって隠せなくケンカをしたと短く言うに留めていた。

 先ほどやらかして一方的に叩きのめして、それまでの混沌とした憤怒を発散させて気持ちが洗われたようになっているが、それは照美には絶対言えない事なのだ。

 又の機会に勝之には話すだろう。

「征生男」

 勝之が急に真顔になって沈んだ声を出した。

「何や、カッちゃん」

「お前、ようやったな」

「まぁ必死やったけどな」

「相手は警察や、俺らみたいなガキが太刀打ちでけへんで、ようやったわ」

「そこやな、あの調子でほじくられたら皆もオレがリーダーや言うてしまうと思うねん。ほんだらリーダーが皆を動かしてると思うのも分かるねん。分かってるからオレは絶対に負けられるかと引けへんかってん」

「へタレな奴等が警察にかかったら自分が助かりたいタメに何言い出すか分かれへんな。仲間や友達や言うたって殆どが表面だけやもんな」

「征生男ちゃんは人気者で仲間がいっぱい居るんやと思っとったけど、ホンマはカッちゃんだけやね。後は大人と仲がエエねんな。ホラ、金本組の人とか。他の子等と比べたら二人とも大人で周りがおぼこいんやね」

 照美は鮮やかな手つきで鉄板の上のお好み焼きをひっくり返しソースを刷毛で丁寧に塗って行く。その後を勝之がマヨネーズを散らして征生男が青海苔とカツオを降りかけていく。照美がコテで一口大にそれぞれ切って食べやすいようにする。

 海鮮や豚肉の焼ける匂いにソースの香ばしさが加わって食欲が躍り出てきた。

「ワハハハ、思い出すなぁ」

 追加のビールを勝之が注文した後、突然の高笑い。

「カッちゃん何を思い出したん」

 眩く微笑んで照美が訊ねる。

「征生男はな、コイツはなメチャびびりやってん。そうやなぁ、多分あれは俺等が三歳頃やったと思うねん。四国の徳島の海に近いド田舎で俺等家族は住んでたんや。ま、戦争に負けた直ぐ後でそこの方が食料事情も良かったんちゃうかな。水は湧き水を汲みに行かなアカンし電気も通ってなかったし、ランプやってんで。便所には紙なんかあれへん。太っい縄があってそれで尻を拭いててんなぁ。そんなとこへ征生男ちゃん等の家族が来てな。ま、暫らくの間居ったんやけど」

「カッちゃん何を言い出すねん。しょうむないことを思い出すなや」

「えっ、それでどうしたん」

 照美がはしゃぎながら身を乗り出して勝之を促した。

「海岸に下りていくのは、切り立った崖のほっそい道しかなかってんな。皆平気で降りるのに征生男だけが怖がって泣いて降りようとせえへんねん。それを近所の男みたいなカラの大きいお姉ちゃんが、ホラッおいで言うてコイツをいつも背負うんや。俺な、ガキの頃やったけど、何やコイツアカンたれやと心底思ってたんや」

「征生男ちゃんアカンたれちゃうし」

「照美ちゃん。ま、そうむきになりなや。そやからオモロイねんやん」

「へぇ、そしたらもっと面白い話があるん」

「うんうん。おんぶされても泣いてたわワハハハッ、征生男は情けない怖がりだけやってな、海岸へ降りたら降りたらで波が怖い言うて波打ち際からかなり離れた砂浜で穴掘って皆が海の中で遊ぶのんボーっと見てただけやん。なな、アカンタレやろう」

「ウルサイなぁ、お前。何で今更そんな話し出すねん。そやけどホンマそうやったな、オレも覚えてるわ。あの細い急な道がホンマに怖かったし、波が今にも襲ってくるように思ってな、怖かったなぁ」

「何か信じられへん。今の征生男ちゃんを見てたら。な、怒らんといてね。征生男ちゃん小さい時に妹の舞子とようママゴトしてたやん。そこへ正紀さんが来て怒られていつも泣いてたなぁ、あの頃何であんなキツウ怒るんやろうと、ウチな征生男ちゃんが可哀相でしょうがなかったんやで」

「そやな、正兄はオレ等には優しいんやけど何でか征生男にはキツかったな。何か言うたらようどつかれとったな。ほんでようめそめそ泣いとったわ。コイツな本質的にはその頃と変わってないねん。ビビリやねん。そやけど今日の話を聞いたら俺、俺、な、ほんまと安心してん」

「安心。どんな安心」

「それはな‥‥照美ちゃんやな」

「ウチが?」

「そやっ。照美ちゃんや。征生男ちゃんも俺もホンマにアカンたれやねん。アカンたれやから虚勢を張って突っ張る。負けるのが怖いんや。特に征生男はな正兄へのもの凄い反発があんねん。それが大きな要素やろう、どんな怖い時でも逃げんと突っ込んで行くんようになったんや。俺はその後を着いて行くだけや。ところがな、征生男は照美ちゃんと付き合いだしてからな変わってきたなぁ」

「ウチには分かれへんけど征生男ちゃんがどんな風に変わったん」

「うん。自分の弱さを知ってるから虚勢を張って逃げるのん止めて突っ込んでケンカばっかりしてたんちゃう。今日みたいに警察の刑事とも堂々と渡り合ってきたやん。さっきの征生男の話では落ち着いて考えて対応してきたのが分かるやろ。そんなん、今までの征生男には考えられへん。食ってかかって必死に反抗してたはずや。それにはやっぱり照美ちゃんの出現が大きいねん」

 店員が追加のビールを運んできた。それを照美が征生男と勝之のグラスに注いだ。

 いつの間にか店内は数組の客で賑わっていた。

「やっぱ、此処は人気の店なんやな。遊び人のミヨが連れてきただけはあるわ」

「ミヨさんて誰」

「いやいや、ま、そんなコトはどうでもエエやんか、ほんでな征生男がどう変わったかちゅうとやな」

「ミヨさんて、あの晩、声かけてきた人とちゃうのん」

 照美が征生男を下から不安げに伺ってきた。

「ううん、そうや」

「あの女の人と何かあったんでしょう」

「照美ちゃん、何をそんな哀しそうな顔してんねん。いやーちょっと言いにくいけどミヨは俺のアレやねん。征生男とは関係ないねん。変に勘繰ったらアカンわ」

「そうなん?ルニーで仲良しなんやろう。女のウチが見ても色気たっぷりって感じの人やんか。征生男ちゃんはもてるし、カッちゃん、上手いこと誤魔化してんちゃう」

「もう、何言うてんねん。そんなややこしいことをコイツが出来ると思うか。もう、イヤやなぁ。オレの彼女にまで焼もち焼くなんて、コラッ征生男。お前、ホンマにシアワセやな。何かオレ、アホらしいなってきた。帰ったろ」

「そんなん、カッちゃん帰ったらアカン、アカンで」

「ウソやって。帰る訳あれへんやん。オモロイからちょっと照美ちゃんをからこうただけやハハハハ」

「もう、イジワルやなカッちゃんは。そやけどカッちゃんと喋ってたらホンマ楽しいわ。ほんでほんで、さっきの話の続きは」

 ミヨは良い、もし春子の事が話題になったらと思うだけで胸はささくれ立ちズタズタに引き裂かれるところだった。勝之は上手くはぐらかして話をそらしたのでホッとする。

「征生男はな、照美ちゃんと付き合うようになってからな、何て言うかな、、照美ちゃんに好かれようと、照美ちゃんと付き合えるように自分を変えてきたんや」

「カッちゃんもうその位でしょうむない言うなよ」

「しょうむないことあれへんやん。ま、元々が真面目な性格で俺みたいにエエ加減な悪とちゃうけど、それが輪をかけて勉強もするようなったし金本組の人達にのめり込んで何か深い事も考え出したり、照美ちゃんが居れへんかったら多分もっともっと暴れて問題になってたと思うねん。俺はな、逃げへん突っ込んでいく征生男ちゃんが頼もしいて好きで金魚の糞のように付いて回ってたけど、金魚が変わったら糞の俺も変わるねん」

「何や、くっさい例えやな」

「征生男はちょっと黙っとれ。征生男ちゃんが遠くを見るようにじぃっと考えるのが多なったのを傍で見てたら最初は何やコイツはどないしてんと、憂鬱になっててんけど、その内こんなアホな俺でさえもだんだんと最近色々考えるようになってん。それは、やっぱり照美ちゃんが現れたからや。モカで再開した時、俺も照美ちゃんかホンマにキレイなっとってビックリしたけど、征生男ちゃんはあの時完全に一目惚れしよったな」

「カッちゃん、もうそのぐらいで止めとけや」

「うるさいなぁ黙って聞いとれや。あの時、征生男はなメッチャ辛い立場に立たされてて悩み続けとったんや。学校と家で。俺なんかにはどうしようもでけへんかったな。キレイだけの照美ちゃんやったらコイツもそこまで想えへんかったやろうけど、照美の優しさがコイツには救いになってな、ほんで征生男は自分を見つめ直すようになったと俺、思うねんな」

 突然両手で顔を被い隠した照美。すすり泣いている。

 征生男と勝之は顔を見合わせ首を傾げながらもしばらく照美を見守るように見つめる。

「ゴメンね泣いたりして。もの凄く嬉しなって、征生男ちゃんがそんなにウチのことを想ってくれたり、カッちゃんがこんなに優しいなんて‥‥ウチ‥ホンマに嬉しいて。ウチはな、お父ちゃんもお兄ちゃんも飲んだくれで家のことなんかほったらかしでね。体の弱いお母ちゃんがウチ等が小さい時からいっぱい苦労してきたんやん。そやから小さい時からウチが大きいなったらお母ちゃんを楽させたるねんとそればっかり思うてきてん。いつもお母ちゃんの事ばっかりやってん。そやけど一方で自分は何なんやろうと思うと寂しいて寂しいて。ホンマは高校に行きたかってんよ。ちゃんと勉強したかってんよ。友達もいっぱい欲しかってんよ。そやけど、適当やけど働いてばっかりしてきたわ。

何て言うのかな、自分だけの心の充実というのがないねんな。不幸とか哀しいなんて思えへんけど、何か、何やろう、一生懸命になれるもんとか、心が浮き浮きするような楽しいのんてないのんかなぁって、ふと思うねんな。そやけど、自分から何かしようとしてもアホやから分かれへんし、第一何かしようとしたら要るのはおカネでしょう。自分を贅沢させるおカネがあったらちょっとでもお母ちゃんに渡してきたんや。毎日、ほんの少しの時間なんやけど、ふうーって溜息ついて、こんなんでええんやろうかと思ったりしててん。そんな時に征生男ちゃんが現れたやん。征生男ちゃんが時々見せる哀しそうな横顔見てたらウチもそうなんや。それが寂しいとか哀しいと分かれへんかっただけで、そのウチの寂しさが重なって何とか二人で楽しいせなアカンと思ってたら何か征生男ちゃんに夢中になってしもうて、お母ちゃんの事以上にウチの中には征生男ちゃんやねんな。今、カッちゃんの話しをきいていたら嬉しいて嬉しいて胸が切なぁなって泣いてしもうたわ」

「アラまぁ、ご馳走さんやん。俺、やっぱり此処に居ったら邪魔みたいっス」

「何言うてんのん。カッちゃんが話してくれたからウチ、ホンマ嬉しいなったんや。征生男ちゃんはな喋るのん下手やんか」

「ホンマ、コイツはあんまり喋れへんやっちゃで。ハハハハ。まあ、これで一件落着、退学の心配もなくなってんや」

「良かったなぁ征生男ちゃん。ウチもホンマにホッとしたわ」

 ホッとは征生男もしいた。しかし、心の片隅に解せないしこりも取り付いていた。

 次に学校へ行った時に仲間と会えばどう対処するのだろう。裏切り者、たれ込みの奴等とハッキリ区別は仕切れないが釈然ともできない。

「警察のあんな尋問にかかったらな、オレ等みたいな高校生やったら普通は皆喋らんでもエエようなことも喋らされるのは分かんねん。そやけど菊池までがと思うと腹が立つんや」

「もう、そんなん気にすんなや。それをぶり返しても後々オモロないで。それよりもやな笑って話してたら流石に嶋田と皆も思い直すって、な、照美ちゃんもそう思えへんか」

「カッちゃん偉いなぁ。そんな大人な考えできるんね」

「へへへ、そうや。俺は大人やで。征生男みたいに深く考えたり深刻になれへんけど、まあ、カッコつけたらや、大袈裟やけど毎日高い所の不安定な場所で命の危険と隣り合わせの仕事してんやん。ほんだらな、そんなとこで余計な思いや考えもしたらアカンねん。何が安全か効率よくやれるか単純に割り切っていくんや。何年かやってきたら世の中エエ方に考えるようになんねんな。単純言うたらそれまでやけど……そらなぁ、俺かて悩んだり考えたり哀しいなったりもしたで。夜間高校行ったけど、俺には勉強とかは無理やねん。とか言うてこのまま親父の仕事に入ってペンキ屋で危険、汚い、キツイのをずっとやっていくしかないのかと真剣に悩んだよ」

「ウチは、体張ってする仕事に汚いなんて思えへんよ。むしろ偉いなぁって尊敬してんねん。ウチの兄ちゃんみたいにちゃんと仕事せえへんし競馬や競輪、ほんでパチンコなんかしかせんとブラブラしてる方がよっぽど汚いと思うねん。カッちゃんは早い頃からそんな仕事毎日やってきてお父さん助けてきたんや。そら、大人な考えできるよね」

「ウワハ、照美ちゃんえらい持上げてくれるやん。そうやなぁ、そやけどこの仕事はホンマにキツイねん。そやのにな、征生男ちゃんはいつもバイトに来んねんや。な、征生男、何で俺のとこにバイトに来るねん。他でももっと楽なスマートなバイトあるんちゃうん」

「う~ん、何ぼでも他にバイトはあるよな。何でやろ、バイトの仕事の中身よりやっぱりカッちゃんやで。お前や修ちゃんと居ったら楽しいんや。それでキツイだけあって他のバイトよりカネになるしな。オレは満足してる」

「二人で居ったらホンマに楽しいんやね。ウチもペンキ屋さんになろうかな」

「何言うてんねん、照美ちゃんみたいな綺麗おねえちゃんがする仕事ちゃう。そら時にはパートでおばはんも来るには来るけど、絶対、照美ちゃんがそんなんしたらアカン」

「うん、ホンマや。オレが絶対させへん」

 

 路面電車が通る大正通り、両脇の電柱に所々街灯が灯り宵闇の中をボウッと浮き立たせていた。十年近く前に埋め立てられて通りから二メートルほど高くなっている平尾地域にはもう随分と建物が並んでいた。

 埋め立てられた当時は太い土管から土砂が吐き出されるの毎日永遠と見ていた。何で見ていたかと言うと、土砂に混ざって大量のウナギが吐き出されていた。人々はバケツを持ってそのウナギを手掴みで捕まえていた。脇の海から吸い上げていた土砂だったんだろう。

 見ているだけでは飽き足らず征生男達も連日ウナギをバケツいっぱいにして持って帰って大人達を喜ばせていたのを思い出す。大正区そのものが埋立地の人工島。その拡張が今も続いている。

 当たり前に親しんだ海岸が今では無くなり、工場とか造船所や企業の倉庫専用の岸壁に様変わりして一般の者は立ち入りが出来なくなっていた。

 勝之の家は海際の鶴町にあったから子供の頃は岸壁から海に飛び込んだりしたものだ。今は立ち入り禁止と海は年々汚れが増してとても飛び込めたものではない。大きな遊び場を追い出され征生男と勝之は中学に入るとナンバで毎日のように遊んだ。そして今、照美の出現で征生男と勝之の感性も生活も大きく変わってきた。

 これまでも何度かあった。

 照美と勝之の三人で時を過ごす。征生男には至福の時と言えた。

 構えもなく疑いも一切ない、甘え合い許し合い共に享楽し合える仲間以上に一体化された世界が存在していた。

 

 

処分

 千代が泣き出した。

 母が何で突然泣き出すのか征生男は解せずしばらく見ていた。いつもと変わりなく学校を終え真っ直ぐ家に帰ってきた。

「征生男ちゃん、座って。話があるんや」

 で、台所のテーブルの前の椅子に座った。

 千代はジッと征生男を見据えていた。千代もおもむろに椅子に腰を落とした。その途端両手で顔を被い嗚咽しだした。

 思いがけない母の有様に征生男は怯んだ。言葉も出ない。何がどうしたというんのか、ただ次の母の出方を待つしかなった。

 千代は泣き続けている。

 困った、どう対処したら。また父の暴力かと考えた。

「お母ちゃん、どうしたん?」

「ゴメンね、ゴメンね」

「‥‥」

「私が無力で征生男ちゅんの為に何もでけへんかった。ホンマにゴメンね」

「‥‥」

「今日、学校に呼び出されて行ってきたんや。そしたらアンタは退学やって」

「ええっ、何ッ、それッ」

「ホンマにホンマにごめんね、ゆきおーっ」

「何でや。何で退学や。オレがオレが何したちゅうねん」

 

「嶋田、スマン。こんな結果になってしもうて」

「理由がタバコやて」

「うん、ま、そういうコトやな」

「何ぬかしとんねん。タバコ吸うてるちゅうのはアンタにしか話したことないんやど。それでオレを売ったんかいな。卑怯や。タバコで退学やったら全校生徒の半分は退学ちゃうんけ」

「迂闊(うかつ)やった。職員会義で生徒のタバコが話題になって、実態を掴めた訳とちゃうけど、まあ半数は何らかの形で経験しているはずやって事になって、ある先生が当然嶋田もその中に入るでしょうって訊かれて、俺は咄嗟にウソもつけず、うんまぁと曖昧な返事をしたら、それは問題でしょう、他の生徒と嶋田は違う。条件付進学で何かあったら退学処分でしょうってな」

「そのある先生ちゅうのは横溝やろ」

「いやぁ、それは俺から言えんな」

「何言うとんねん。アンタおかしいやんけ。二人だけの事にしようと言うたんちゃうんかい」

「そうや。そやから迂闊やったと悔いてんねんや」

「ほう、アンタは悔いただけで済むけど、オレは問答無用の退学かい。そんな話は絶対承服でけへん」

 大きく怒鳴ると征生男はスクッと立ち上がった。そのまま踵(きびす)を返し教室の出口に向かった。

「嶋田、何処へ行くねん」

 征生男は大股で廊下を踏ん張るように歩いた。

「嶋田っ、待てっ、何処へ行くんや」

 入江教諭が追いすがって来て征生男の前を塞いだ。

 ドンと入江の胸元を強く押した。弾みで入江は後ろに倒れ尻餅をついた。それを飛び越えて征生男は階段まで行き一段一段やはり踏ん張るように降りて一階の廊下を突き進んだ。

 職員室のドアの前に立った。

 ドタドタと後ろから粗い足音がして入江が再度征生男の前に立ち塞がり悲壮な表情のまま

「何するつもりや」

 ズンという鈍い音がした。征生男は黙って入江の頬を横殴りに叩きのめしていた。頬を押さえて唖然とする入江の体を思い切り横に払いのけ、職員室のドアをバーンと開けた。

 つと、一歩入る。ドアの開く激しい音で居合わせた教諭達が一斉に視線を走らせてきた。

 征生男はゆっくりと力強い足取りで前に進み、一列目の机を右へ曲がり真っ直ぐ進む。一つの机の前で立ち止まった。

 目の前で横溝が目を大きく見開き立ち上がった。

 征生男は右横の机を鷲掴んだ。

「嶋田っ、何すんねん」

 間近で平川の叫ぶ声が聞こえた。

 同時に誰かが征生男の右手を両腕で抱え込んだ。

 そいつ顔を空いた左手で横様に鋭く殴った。

「ウゲッ」一瞬の呻き。それでも抱え込んだ両腕は離さない。次に鳩尾へ蹴りが的確に入った。

「嶋田、止めろ」

 平川が前を塞いだ。

「どけっ、もうアンタも誰も信用でけへんのじゃ。横溝だけは殺すっ」